『ビロウ!』
俺は力いっぱい目の前のオブの体を押しのけ、オブと壁の隙間から逃げるように体をスルリと抜け出させた。
抜け出してビロウの元へと走る。ただ、慌て過ぎたせいで、ビロウを前にして、俺は足がもつれ、前へと倒れ込んでしまった。
転んだら痛いだろうな、と思った瞬間、俺の体には地面にぶつかる衝撃ではなく、フワリと柔らかい感触が俺の体に走っていた。
『あぶねぇな』
『……』
頭の上から、低い、けれどとても優しい声が俺に向かって放たれる。
『……』
くんくん。
俺は転びかけた体を、しっかりと受け止められた瞬間、フワリと鼻の奥に入り込んでいた嗅ぎ慣れた匂いに、心底胸を撫でおろした。
あぁ、ビロウだ。今度こそ、ビロウ。間違いじゃない。
『ビロウ』
『イン』
俺はビロウの両腕の中にすっぽりと納まる自分の体に、心底安心すると、はて?とビロウの顔に向かって両手を伸ばした。
両手を伸ばし、ビロウの頬に手を添える。怒られるかもしれないけれど、その時、俺はどうしても、そうせざるを得なかったのだ。
だって――。
『ビロウ?元気になったの?嬉しい事でもあった?』
ビロウは、店を出た時のような、苦しそうな顔を一つもしてはいなかったから。その顔は、俺が初めて見るような、嬉しそうで、そして、とても優しい顔をしていた。
あ。いや、それはちょっと違う。ビロウはいつも、いつだって俺には優しかった。
じゃあ、この俺に向ける顔は、表情はなんだろう。優しい、凄く、凄く優しい顔。だけど、いつも向けてくれる、いつもの優しい顔じゃなくて、もっと、こう。
『イン、イン、イン、イン』
『っふふ、どうしたの?ビロウ。何か良い事があったんだね。良かったね。嬉しいね』
ビロウの顔が俺の顔と肩の間に埋められる。ビロウの髪の毛が俺の首筋にあたってチクチクするけど、そんなのちっとも気にならなかった。
だって、ビロウが沢山抱きしめて、俺の名前を呼んでくれるから。ビロウが嬉しいなら、俺も嬉しい。ビロウが幸せなら、俺も幸せ。
だって、ビロウは俺をずっと大切にしてくれた。ずっと傍に居てくれた。俺に、何でも話してくれた。俺はビロウに“飼われて”、一度だって寂しくて泣いた事はなかった。
『……ビロウ。その手を離せよ』
俺の後ろから、低くて怖いオブの声がする。
なんで、ビロウが俺から手を離さなきゃならないの?オブはどうしてそんな事を言うの?
『っはは。イン。お前は俺から手を離されたいか?』
『このままがいい』
『インっ!目を覚ませ!ソイツはお前を利用しているだけだっ!俺がお前に執着するからっ、お前に目をかける!ただ、それだけなんだっ!』
オブの必死な声に、俺は本当に、本当に自分でもびっくりするくらい深い溜息を吐いてしまっていた。オブは変わってしまった。あの日から、オブはたくさん変わって。
子供の頃のオブじゃなくなった。そりゃあ、そうか。だってオブも俺も、もう“子供”じゃないから。
『ビロウ。オブと話してもいい?』
『あぁ、言いたい事があるなら、今、俺が居てやるから。言うといい』
ビロウの声が優しい。本当に、ビロウはどうしてしまったのだろう。そして、ソッと離れていくビロウの体に、俺は自分でお願いしたくせに、とても寂しくなってしまった。あぁ、早くオブとの話を終わらせないと。
オブは、何か勘違いをしているから。
『あっ』
俺はビロウの隣に立つ自分の立ち位置にハッとすると、急いで一歩だけ後ろに下がった。いけないけない。俺はビロウの隣はダメなのだ。前はもっとダメ。俺はビロウの少し後ろじゃなきゃ――。
『下がらなくていい』
『え?』
けれど、一歩下がった俺の体を、腰に回されたビロウの腕が元の位置へと戻す。俺はビロウの隣に、体をピタリとくっつけて立っている状態だ。
『いい。お前は……“ここ”でいいんだ』
その、ビロウの穏やかな声に、俺は一瞬のまばたきと共に、深く目を閉じた。閉じた暗闇の中で、心が酷く満たされるのを感じる。
あぁ、幸福だ。幸福は腕の中にあった。オブが教えてくれた文字の通りだった。オブが教えてくれた文字の意味を、ビロウが教えてくれた。
あぁ、俺は今、幸福なんだ。
『オブ。俺は、全部知ってるよ』
『イン。お前は何も知らないだろう。ソイツの事も、貴族がどんなヤツらなのかも……何も知らな』
『そうだね。オブは……何も教えてくれなかったもんね』
くんくん。
ビロウの匂いがする。この匂いを嗅ぐと、俺は体の芯から凄く熱くなるのだ。あぁ、こんな事を考えているなんて、ビロウが知ったらどう思うかな。嫌われるかな。気持ち悪いって思うかな。ペットの癖にって言われるかもしれない。
今日、やっぱり家に泊まってくれないかな。一緒に夜を過ごしてくれないかな。俺の中に、来て、くれないかな。
『でも、ビロウは教えてくれたよ。利用するから、お前も俺を利用しろって最初に言われてた。俺はバカだから、勉強も教えてくれた。覚えるのが遅かったけど、最後まで付き合ってくれた。お見合いをする時も、結婚するときも、赤ちゃんが出来た時も、あの子が産まれた時も。ビロウは全部、全部教えてくれたよ。俺には分からないだろうって一度だって言わなかったよ』
『っ!』
オブは俺じゃわからないからって、何も教えてくれなかった。けど、ビロウは違った。
『ビロウはオブと約束したって言ったら、酒場の夢も手伝ってくれたよ。馬鹿にするみたいに笑ったりしなかった。俺が分からない時は、こうすれば?って教えてくれたよ』
『それは、俺の為に、インを利用したかったからであって……』
『ねぇ、それってそんなにいけない事なの?』
何度も何度も同じ事ばかり言うオブに、俺は少しだけイライラしてしまった。利用するって最初にビロウは教えてくれたと言ったじゃないか。というか、“利用”ってそんなにダメな事なのだろうか。
『インは……いいの?自分が都合よく利用されて、そこには本当の気持ちなんてないのにっ!それでいいのかよ!?優しくしてくれるならっ!誰でもいいのかよ!?』
『いいよ』
『っ!』
あぁ、オブ。もうオブは、そんな目で俺を見るんだね。もう、オブは俺の事を嫌いになっちゃったんだ。だから、そんな事を言うんだ。
優しくされて嫌な気持ちになる人が居る?寂しい時に傍に居てくれた人の事を、嫌いになれる?ずっと、傍に居てくれた人を、突然現れた人間より優先させる人が居る?
『オブに置いていかれて、俺はずっと泣いてたよ。寂しくて、辛くて、ずっと会いたかったよ。オブは俺に言っても無駄だからって言って、何も教えてくれなかったよね。ねぇ、オブ。俺もずっと、ずっと、辛かったよ?唯一交わした筈の最後の約束すら、オブは忘れてるし。もう、オブにとっての“イン”は無くなっちゃったんだなぁって思った。でも、今それが平気なのは』
——–ビロウが居るからだよ。
俺の言葉と共に、腰に回された手に力が入るのが分かった。
ペットでいい。所有物でいい。奥さんが居てもいい。ビロウが俺を好きでなくてもいい。だって、ビロウは。
『ビロウは、一度も俺に寂しいなんて思わせなかった。もう、それで十分なんだよ。俺は。それが、一番“大切”。傍に、居てくれるだけで、いい』
大人になるにつれて分かった。“傍に居る”という事が、どれだけ大変な事か。子供の時のように自由な身で居られない、不自由な大人が、ふとした時に傍に居てくれる事って、それって物凄く大変な事なんだ!
ビロウは仕事で大変な時も、結婚して家族が出来る時も、子供が産まれた日だって。俺の所に来てくれた。大変だったと思うんだ。きつい時もあったと思うんだ。でも、ビロウはそれでも俺の所に来てくれた。
『もう、お話は終わり。オブ、お店はさっきの時間に開いてるから、お客さんとして来てくれたら、またお話しよう。“子供”の時みたいにね』
俺が言い終わると、ビロウは何も言わずに俺の腰に回した手で、俺を店まで誘導した。チラと顔を上げると、そこには微笑むビロウの姿。あれ?この顔って昔、よくオブがしていた顔と似ている。
『…………』
くんくん。
うん、匂いは間違いなくビロウだ。あぁ、びっくりした。いつの間にか、ビロウがオブになったのかと思った。
『イン。やっぱり今日はお前の所に居る事にする』
『っ!そう!そうなんだ!待っててね!薪をくべて、お風呂の準備をするから!そして、あったかい飲み物、そして、何でも話を聞くからね!ベッドも綺麗にしてあるよ』
やった!やっぱり今日はビロウは家に居てくれるらしい!それを聞いた瞬間、いやらしい俺は、体の芯が熱くなるのを感じた。うれしい、うれしい、うれしい!
『……イン、』
心が跳ねあがる程の喜びを感じている俺の耳に、背後からオブの静かな声がした。一瞬、その声が、俺にはビロウの声に聞こえてビックリした。そう、この声。最初に出会った頃のビロウそっくりの声だ。
けれど、反射的に振り返ろうとした俺の体を、ビロウの声が静止する。
『行くぞ、イン』
『……はい』
『うん、でいい。もう、“はい”は……いらん』
『?うん』
もう、“はい”は、いらないらしい。分からないけど、ビロウがそう言うなら“はい”は、終わり。なんで?なんて聞かない。ビロウは口出しされるのが一番嫌いだから。
『風呂も、飲み物も、話も、全部後だ』
『へ?』
『イン、二人目を作ろう』
二人目?何の?
俺はビロウの言っている意味がわからなくて、首を傾げそうになった。けれど、まぁいいか。意味が分からなくたって、ビロウが“二人目を作りたい”なら、作ればいい。俺は思わず「はい」と言いそうになるのを、寸での所で止める事に成功した。
ビロウの言いつけは守らないと!だって、今、ビロウは物凄く嬉しそうな顔をしているんだから。
『うん!』
元気よく返事をして頷く。二人目を作ろう。ビロウが言う事は全部やる。二人目、二人目。俺とビロウの二人目。
それを、俺はこれからビロウと作る。
頷いて見上げたビロウの目は、爛々としていて、それはいつもベッドの上で見るビロウの目と、全く同じだった。その目に、俺の体は熱く疼く。芯から徐々に火照っていく。
腰に回された手が、滑るように俺の体を撫でる。
そんな、熱くなる俺の体の背後から、俺はハッキリとオブが呟くのを聞いた。それは、小さな呟きに過ぎなかったのに、燃えるような熱さと力を秘めていた。
『イン……俺は、お前を。絶対に、諦めない』
諦めない。そう。好きにすればいい。
ともかく、俺はこれからビロウと二人目を作らなきゃだから。
昔みたいに、勝手にすればいい。
俺はビロウに導かれ、酒場へと入った。ガチャリとビロウによって後ろ手に鍵がかけられるのを、俺は微笑んで聞いた。
この店の”鍵”は、俺とビロウしか持っていない。