——–少しだけ小説———
【イン決断の時―オブかビロウか―】
ビロウ視点
『インも大人になって。でも、昔と全然変わってない。ずっと、ずっと……あの頃のまま。……かわいい』
『ふふ、オブ!俺の事、覚えててくれたんだね!嬉しいなぁ』
『忘れてたのは、インの方じゃないかっ!』
『っ!』
オブに抱きしめられているインを見て、俺の頭は沸騰しそうな程熱くなった。
何故、俺は今、こんな気持ちになっている?どうしてだ?
未だかつて、ここまで俺の感情が熱く煮えたぎった事があっただろうか。いや、ない。
『(オブっ!)』
あぁ、これは。そうだ、怒りだ。あのインを抱き締める男に対する、純粋で、圧倒的な“怒り”だ。
なんだ、あの男は。あの、いつもいつも俺の心を苛つかせる、オブ……!
お前は、どれだけ俺を苦しめれば気が済むんだ!一族の中でも年が近いせいで、いつも比べられた。子供の頃はそうでもなかった癖に、ある瞬間から、アイツは一気に頭角を現したのだ。それからだ、俺はいつも、いつも、いつも!
——–ビロウ、お前にはガッカリだ。ザンの息子なんかに、ここまで差を開かされるなんてな。
あぁっ!オブ、俺はいつも、お前の下に居た!
お前は、もういいだろうがっ!誰からも期待され、誰からも一目置かれ!その上、俺からペットまで、インまで、愛する人まで、奪うのか!一度捨てた癖に!今更、何でお前はインの前に現れたんだよっ!
『っは、っは』
そう、怒り狂う自分の頭の中とは裏腹に、俺の体は二人のすぐそばまで来て、声を上げる事も、動く事も出来なくなっていた。
何故だ、何故、体が動かない。
———–覚悟、できる。オブに、会いたいから。
そう言って、俺のペットになる事を選んだイン。そのインが、今、望み通りオブと出会ってしまったのだ。俺のモノだと、ずっと思っていた。そう錯覚していた。だが、蓋を開けてみればどうだ。
結局、インはオブを選ぶ。分かっていた事だ。そんな事は。分かった上で、俺はインを利用した。利用するために飼った。ペットだと言って、アイツの意思を奪ってきた。
——–なあに?どうしたの。ビロウ。何か怖い事でもある?
ついさっきまで、俺の隣に居たインの声が、俺の耳の奥に響く。
あぁ、怖い。怖いさ。白状する。俺はお前をペットなんて言ってたけど、ペットじゃ納まりきれないんだ。
イン、イン、イン、インっ!!好きなんだ、愛してるんだ!インっ!俺を置いて行くな!オブなんか選ぶな!
そう、本当は叫んで、インからオブを引きはがして、そう叫びたかった。けれど、そんな事、出来る筈がない。本当に、今でもアイツが“ペット”のままなら、簡単にそう出来ただろう。けど、インは俺にとって、もう、ずっと前からペットなんかじゃなかった。
インは俺にとって――。
——–ビロウは何でも話してくれるから嬉しい。ありがとう。
——–ビロウ、背が高くなったね。格好良いよ。
——–今日は、ここで、休んでいく?
——–かわいいねぇ。生まれて来てくれて、ありがとう。
『……いん、いくな』
そう、俺が誰にも聞こえぬようなか細い声で、インに“懇願”した時だった。
目の前の状況が、一気に急変した。インはオブの腕から無理やり抜け出すと、どこか不審そうな、ともすれば拒絶するような目を向けている。
『オブ、俺に触らないで』
いま、何が起こっている?
俺がインとオブの間で交わされる、最早、喧嘩にも近い言い合いに目を奪われていると、インの口から一つの名が、零れ落ちた。
『なんで!?なんで!オブ!痛いよ!離してよ!?こわいよ……』
———-ビロウ。
『っ!』
俺の名だ。
インが、俺の名を呼んだ。確かに、そう、確かに言った。インが俺の名を、ビロウと、呼んだ!
俺は、それまで縛られていたかのように動かなかった自分の体が、一気に自由になったのを感じた。解放された。俺が、インに名を呼ばれる事で。やっと、自由になった。俺は、やっと“オブ”から解放された!
これで、俺はっ!
『ビロウ!』
インが俺に向かって駆け出してくる。けれど、余りにも慌て過ぎたのだろう。インはその場に、足をもつれさせて転倒しそうになっている。あぁ、まったく。
『あぶねぇな』
イン、怪我でもしたらどうする。俺の腕の中に、インが戻って来た。いや、初めてインが俺の所に、完全にやって来た。
イン、イン、イン。俺のイン。ペットじゃない。俺の愛する人。唯一無二。お前の前には、一族も、名誉も、功績も、そして、オブも。
もう、全てがどうでも良い。お前が居さえすれば、もうそれでいい!
『イン、イン、イン、イン』
『っふふ、どうしたの?ビロウ。何か良い事があったんだね。良かったね。嬉しいね』
壊れた人形のように、俺はインの名を呼んだ。インの首に顔を埋め、インの香りを鼻孔に満たし、その体を腕の中に収め、そして、インの心も俺は手に入れた。俺の心と引き換えに。俺の心は、もう完全にインに預けた。だから、俺の元には、もう“イン”しかない。
『……ビロウ。その手を離せよ』
オブの声がする。もう、俺にとってはどうでも良い男だ。何故、俺はコイツにあんなにも固執していたのか、今となっては分からない。
あぁ、そうか。俺の心はインが完全に持って行ってしまったからか。だから、今はもうオブの事など、どうでも良い訳だ。あぁ、愉快だ。こんなに晴れやかな日は、人生で初めてだ。
インが、かつての俺の言いつけを守るように、俺から一歩下がろうとする。あぁ、イン。それはダメだ。
『下がらなくていい』
『え?』
俺は戸惑うインの、その体を、無理やり俺の隣へと戻した。イン、お前は俺の“隣”でなければならない。後ろでも、前でもない。お前は俺の隣。永遠に、隣だ。
だって、お前は俺の“伴侶”なのだから。俺が死ぬまで、お前は俺の隣。俺の“妻”で、アンダーの“母親”だ。誰にも渡さない。
『いい。お前は……“ここ”でいいんだ』
俺の隣で、インがオブに何かを言っている。それを聞きながら、俺は体の芯から熱くなるのを感じた。あぁ、幸福だ。なんて幸福だろう。人生というのは、こんなにも色鮮やかになるものなのか。
たった一人の言葉だけで、たった一人の存在だけで。全てを変える力を持つのか。
『ビロウは、一度も俺に寂しいなんて思わせなかった。もう、それで十分なんだよ。俺は。それが、一番“大切”。傍に、居てくれるだけで、いい』
あぁ、そうだな。イン。ずっと一緒に居よう。俺とお前は夫婦だ。家族だ。何があっても、共にある。あぁ、だとすれば。そろそろ、俺達も“次”に進むべきだろう。
アンダーにも兄弟が必要だ。アンダーも、一人は寂しいだろう。
俺は屋敷で眠る我が子を想いながら、インの腰に手を回した。オブが後ろで何かを叫んでいる。けど、まぁそんな事はどうでもいい。
『風呂も、飲み物も、話も、全部後だ』
『へ?』
『イン、二人目を作ろう』
口にした途端、俺の体が熱くなるのを感じた。俺の隣で、ピタリと体を寄せて共に店へと歩むインの姿。腰に回していた手を、俺はそのまま、体の至る所に滑らせた。インなら、もう、これで伝わるだろう。
俺の視線の先にある、インの白いうなじ、そして耳の後ろ。それらが、恥じらうように、そして期待するように、ほのかに色づいていく。
『うんっ!』
勢いよく、笑顔と共に放たれた返事に、俺は体の芯から熱を帯び、俺の中の全てが“イン”を求めているのを感じた。
あぁ、イン。お前は、たまんねぇな。本当に。
俺はチラと背後で悔し気な息を漏らすオブへと視線を向けた。酒場の扉を後ろ手に閉める瞬間、オブと目が合う。
その時のオブの目は、面白い事に“昔の俺の目”と、全く同じ目をしていた。
じゃあな、オブ。”上”の世界を、せいぜい楽しんでくれ。