『おれが、手を、伸ばさなきゃ……インは今頃』
『今頃、死んでいただろうな』
『だったら!なんで!なんでそんな風に言えるんだよ!?お前、親だろ!助かって良かったって思わないのかよ!?』
それまで黙っていたオブが、突然、その目に爛々とした力を宿しながら、俺を見ていた。否、睨みつけていた。オブの中に、ゴウゴウと燃え盛る炎が見える。俺に対し、もしかしたら、憎しみすら抱いているかもしれない。
己の“大切”を大いに傷付けられ、この男は、激怒している。
『言っただろう。インは知っている筈だ。落ちたら終わり、だと。もう生きてはいられない、と。分かっていて近寄った。近寄った上で、死を目の前にした。それはもう、自身で受け止めるしかない。インは、行動の責任を自分で請け負ったまでだ。それで死ぬのなら、もう仕方のない事だ』
『……ぉ、とうさん』
お父さん、と呼ぶ声がする。その声は、震えている。顔を見ていないので分からないが、きっとインは今にも泣きそうな顔をしているに違いない。いや、もしかしたら、もう泣いているのかも。インを見ずとも分かる。
この瞬間、オブの怒りの炎が、明らかに憎しみを帯びた、黒いモノに変わったからだ。
『お前っ!なんで!なんで!なんで!』
俺の前に大股で近寄って来たオブが、俺に掴みかかる。あぁ、オブ。少し背が伸びたんじゃないか。最初に出会った頃より、俺と少しだけ目線が近くなったじゃないか。
『っく』
次の瞬間、俺はオブから胸倉を掴まれていた。けれど、まだ大きさが足りない。俺を締め上げるには、まだまだオブは幼過ぎる。
『っつぅ』
それに、インを引き上げた時に痛めた手首が痛いのだろう。怒りと憎しみの混じったその表情に、痛みという雑念が混じるのを、俺は間近に見た。
『オブ、お前はまだ子供だ』
『うるさいっ!』
『こんなに、体も小さい』
『そんなの関係あるかっ!』
あぁ、本当に。
こんな小さな体で、よくもインを引き上げたものだ。自分と同じような体格の人間を。ましてや、必死に生へとしがみつく相手の手に。よくもまぁ、躊躇いなく手を伸ばした。
ここに、こうして二人とも生きて立っているのは、殆ど奇跡だ。運が良かっただけだ。
『オブ。どうだった?落ちそうになったインに手を伸ばし、インにその手を掴まれた時、何を思った?』
『絶対に助けると思ったさ!俺はお前なんかとは違う!インを絶対に!見捨てたりしないっ!』
オブの叫びを聞きながら、俺はほんの少し目を閉じた。
これほどにまで、オブにとってインは大切で、唯一なのか。俺の息子は、この世界で、俺以外から、こんなにも求められるようになっていたのか。
これは、親にとって誇らしくもあり。やはり、寂しくもあった。
『オブ、それは違う』
『違わない!俺の心を、お前が勝手に決めるなよ!?』
オブの掌がグゥになった。人を殴る、悪い手になった。けれど、それが振り上げられないのは、俺に殴り掛かった所で、容易に止められるのが分かっているからだ。
それもこれも、幼いという、自身の未熟さがそうさせている。その事実に、オブは眉間に深い皺を刻んだ。
その顔は、本当にまるでヨルのようだった。
『人は、自分の心すら本気で偽る事が出来る。都合のいいようにすり替える事が出来るんだ。だから、ここで俺が教えてやる。よく聞け。オブ、お前は“イン”を助けたかったんじゃない』
『な、なんだよ』
俺は、俺の胸倉を掴むオブの手に、そっと手を添えると、力を入れぬように気を付けながら俺の胸倉から離させた。そして、逸らす事なく、オブの目を見据える。
『お前は、自分が死にたくなかっただけだ』
『なっ!ちがっ!おれはインをっ!』
『確かにお前は、手を伸ばしたその時までは、インを助けようとしたのだろう。純粋に、インに生きて欲しいと思っただろう!けどっ!』
けれど、実際にインにしがみ付かれた時、その気持ちは大きく変わった筈だ。
『インは死にたくなくて、お前の手を必死に掴んだだろう!絶対に落ちたくないと生に縋る者の手の力強さを、オブ、お前はその時感じた筈だ!その時どう思った!?自分ごと、崖の底に引きずりこまれそうになって、怖かったんじゃないか!?』
『っ!』
その瞬間、オブの瞳に、激しい恐怖の色が浮かぶ。俺に対する恐怖ではない。あの、崖底に落ちそうになった時の、死を前にした時の恐怖を、オブは今思い出しているのだ。
そう、それでいい。
オブ、思い出せ。忘れるな。綺麗な気持ちで隠そうとするな。
それが、お前の生き物としての本能なのだから。
『手を伸ばした時、もう引き上げられないと諦めそうになった時、インの手を離したいと思っただろう!自分だけでも助かりたいと、思ってしまっただろう!』
『思ってない!そんな事、おれは思ってない!』
『けど、インも必死だ!手を離してくれたりはしない!そして、お前は必死にフロムに助けを求めたんじゃないか?助けてくれと!このままでは落ちてしまう、と!』
『……ちがう!おれは!』
『でも、フロムは助けてくれなかった。けど、それが正解だ。フロムは本能的に分かったんだ。ここで自分が助けに向かったら、自分まで落ちてしまうかもしれない、と。怖くなった。そこで、お前は絶望して、もう生きる為には、インを助けるしかないと思ったんだ』
『……ちがう、ちがう』
ちがう、ちがう。そう、うわ言のように口にするオブの向こうでは、フロムのすすり泣く声が聞こえる。
『違わない。お前ら3人が一番分かっている筈だ。今、俺が言った事が事実である、と』
あぁ、まるで見て来たようだろう。
そりゃあ、こんなの簡単に予想がつく。死を前にした生き物の本能程、分かりやすいモノはない。なにせ、誰にでも備わっている生きる力なのだから。
『っひぅぅう。ごめ、ふだりども……ごめん。ごべぇん』
フロムの泣き声に謝罪が混じり始めた。
フロム。お前は泣く必要も、後悔する必要も、恥じる必要もない。お前は生き物として“正しい”選択をしたんだ。お前が最も、生き物として優秀だ。素晴らしい。どうか、お前はそのままで居てくれ。
『オブ。この手首の痛みを忘れるな。これはお前の自分の生に対する執着心だ。人間が、一番持っていなければいけないモノだ』
『……っぅううっ』
オブの眉間に寄せていた皺が、濃く、深くなる。そして、そのままオブまでもが、その目に涙を浮かべ始めた。もう、それが頬を伝うのも時間の問題だ。
『オブ、フロム、イン。向き合え、自分の本心に。ここで向きあわなければ、お前達は、また同じ過ちを犯す事になる。そして、“今”ここで向き合っておかねば、永遠に本心を隠したまま、後ろめたさを抱えて生きる事になる。そんな者達が、ずっと一緒になんて居れると思うか?』
———-約束したよ!そしたら、オレ達、ずっと一緒に居られるからって!ね!
インの明るい言葉が頭を過る。後ろめたさを抱えたまま、共に生きられる程、人は強くない。お前やオブのように“真っ直ぐ”な人間は、特にだ。