63:金持ち父さん、貧乏父さん(63)

 

 その夜、俺はヨルの所に行く前に、一人で例の水浴び場へと向かった。

 

本当なら、家に帰る前に寄ろうと思っていたのだが、さすがにあの場で、インを一人で帰すのは嫌だったのだ。

 俺は、インの肩を抱き、黙って家へと歩いた。インも黙って俺の隣を歩く。

片手で抱いた肩は、まだまだ小さい。けれど、もうその肩は、俺が守ってやらねばならない“子供”のモノではなかった。肩を抱いている筈の俺が、何故か支えて歩いてもらっているような気さえする。

 

『はぁっ』

 

 一人、夜の水場で体をすすぐ俺の心に、何度も同じ言葉が過る。あの、最後にインがオブへと言った言葉。

 

——手を、離してあげれなくて、ごめんね。

 

 その言葉に、俺は、ぱぁだった手をぐぅにした。人を殴る悪い手。けれど、インにとっては、必死に耐える我慢の手だった。

 

『あぁぁぁ!もうっ!』

 

 俺はぐぅの手で、自身の頬を思い切り殴ってやった。痛い。けれど、それじゃあ全然気持ちが納まらなくて、そのまま何度も、何度もパシャパシャと水面をぐぅで殴った。水しぶきが上がり、水面が揺れる。

 

『ヨルッ』

 

 俺はどうしようもない気持ちを吐き出すように、ヨルの名前を呼んだ。もちろん、答えてくれる存在は、此処には居ない。それがどうしようもなく空しく、そして寂しかった。

俺は勢いよく水から上がると、濡れた体を拭う事なく服を着た。体中濡れてびじゃびじゃだけど、もう、そんなのどうだっていい。

 

『ヨル、ヨル、ヨル……』

 

 さっき別れたばかりだけど、もうヨルに会いたかった。あんな事があった後だ。今晩は来ないかもしれないが、それでも俺は、いつもの場所へと向かう。

 

 走って、走って、走って。

 俺は、ヨルに会いたかった。

 

 

        〇

 

 

『予想はしていたが、それほどまでにズブ濡れだとは思わなかったぞ』

『……ヨル』

 

 俺が、いつもの大岩の前に着くと、そこには、いつも通り大岩の上に腰かけるヨルが居た。その姿に、俺はホッと胸を撫でおろし、髪の毛から滴ってくる水を、手の甲で乱暴に拭った。

 走っている時は気付かなかったが、俺はヨルの言う通り全身ずぶ濡れで、拭っても拭っても体の至る所から、水が落ちてくる。まるで、俺の体にだけ大雨が降っているようだ。

 

『こんな事なら、もう少し大きいモノを持ってくるんだったな』

 

 ヨルは大岩の上で、自身の手にしていた真っ白いフワフワの布を見ながら言うと、両手でその布を広げてみせた。それはちょうど、こないだ“おふろ”で、ヨルが腰に巻いていた布と同じ大きさの布だった。

どうしたのだろう。また、ヨルはアレを腰に巻くのだろうか。

 

『ヨル、また腰に布を巻くのか?』

『どうしてこの状況でそういう発想になる。ここでそんな事をしたら、まるで俺が変態みたいだろう』

『でも、ヨルも変わり者じゃないか』

『“変態”と“変わり者”は違う』

『分からん。じゃあ、一体何に使うんだ』

『……はぁ。スルー、早くコッチに来い』

 

 ヨルは少しだけ疲れたように深い溜息を吐くと、俺に向かって軽く手招きをしてきた。それは、ちょうど親が小さな子供を呼ぶ仕草に似ていた。

ヨルの軽い手招きに、俺は思わず駆け寄って行きそうになる。さすが、俺はヨルの“こうしんりょく”なだけはある。けれど、そんな俺も、こんなズブ濡れの状態でヨルに近づくのは気が引けた。

 

『ヨル、俺はまだ水浴びをしたばかりでビシャビシャだから、あまり近寄らない方が良いと思うぞ』

『……まったく』

『もう少ししたら乾くだろうから、最初は此処で話そう』

 

 そう、俺がヨルに向かって言うと、今度こそヨルはハッキリと頭を抱えながら、けれどすぐにその場から立ち上がった。立ち上がったかと思うと、ひょいと大岩から飛び降りる。

 

『まさかとは思ったが、本当に分かっていないのだな』

『ヨル?』

 

 ヨルは呆れた声を上げながら、スタスタと草の上を歩く。いつの間にか、クンと鼻を鳴らせば、ヨルの良い匂いが鼻先を掠めるくらいには、ヨルが近くに来ていた。

 あまり近寄ると濡れるぞ、とヨルに声をかけようとした時。俺の頭に、フワリと何か柔らかいモノが被せられた。

 

『きちんと拭け。夏とはいえ、お前の濡れ方はあまりにも酷すぎる』

『あ、えっと』

 

 良い匂いがする。これはヨルの匂いとは違うけれど、ヨルのお屋敷の匂いだ。そして、頭の上に被せられたやわらかいフワフワは、先程ヨルが持っていた白い綺麗な布だった。

 

『ヨル!やめろ!綺麗な布が汚れる!』

『あぁ、うるさいヤツだな』

『ヨル!』

 

 布は貴重だ。それなのに、ヨルはいつも躊躇いなく貴重なモノを俺に使ってくる。

俺の価値以上のモノを自分に対して使われるのは、心がザワザワするから、あまり好きではない。きっと、こんなのは貴族のヨルには一生分からない感覚なのだろう。

 

『なぁ、ヨル。布はとても貴重なんだ。分かってくれ!』

『俺にとっては、お前の方が遥かに貴重だ。いい加減分かってくれ』

 

 ほら、ちっとも分かり合えない。貴族のヨルは、きっとこんなフワフワで上質な布を使い慣れているから、価値が分かっていないのかもしれない。お金持ちと言うのは、モノの相場を余り知らないと、村に立ち寄った行商人から聞いた事がある。

あぁ、きっとそうに違いない!じゃなければ、布より俺の方が貴重なんて言える筈もないのだから。

 

『ヨル……』

『うるさい』

 

 俺の呼びかけは、ヨルによりピシャリと跳ねのけられる。

そして、そんな言い合いをしている間も、俺の髪の毛は、フワフワの布で水気を吸い取られていた。

 もう、今更止めても遅いだろう。

 

『こんな事なら、もっと丁寧に洗ってくれば良かった』

『まったく、布の事ばかり心配して。おかしな奴だ』

『ぐふ』

 

 ゴシゴシと音がしそうなほど容赦のない拭い方で、今度は布を顔に押し付けられた。顔、首、背中、腕、腹、足。そうやって、体中をヨルに拭われていると、最初はフワフワだった白い布が、茶色く、そして、ビシャビシャになってしまった。

 

『ほら、言わん事はない。汚くなったじゃないか』

『汚くない』

 

 せっかく、けもるや兎のように白くてフワフワだったのに。俺のせいで汚れてしまった。残念だ。

 

『やはり、このタオルでは足りなかったか。スルー、待っていろ。もう一枚タオルを持ってくる』

『いい!いい!ヨル!もういいから!』

『じゃあ、お前が屋敷に来るか』

『……いや、それはダメだ。もし屋敷に行って、オブが俺を見つけてしまったら、きっと嫌な気持ちになるだろう』

 

 言いながら、ハッとした。

オブだ。オブの手は大丈夫だったのだろうか。ヨルに会えた事が嬉しくて、オブの事を忘れていた。あんな事があった後なのに。まったく、今日の俺は本当に素晴らしくないな。