『オブの手は、その……大丈夫か?』
『まだ分からん。明日、朝一で近くの街へ行き、医者へ診せる予定だ』
『……はぁ、大事ないといいが』
あの腫れ方だ。本当に取り返しのつかない事になってしまっていたら、俺は一体どうすればいいんだ。考えれば考える程に、嫌な想像ばかりが頭を過る。
そんな俺に、ヨルは何を思ったのか、俺の頭の上に片手を乗せてきた。そして、乗せた片手で静かに“よしよし”をしてくる。別に俺は、いまは何も褒められるような事などしていないのに。
『きっと大丈夫だ。腫れは酷いが、まったく動かせない訳ではない。そう、大した怪我ではないはずだ』
『でも、』
『ふむ、大分乾いたか』
更に言い募ろうとした俺に、ヨルの言葉が被せられる。どうやら、俺が“よしよし”だと思っていたソレは、“よしよし”ではなかったらしい。俺の髪の毛が、どれ程乾いたのか確認したかっただけのようだ。
『スルー、今日は少し散歩をしよう』
『さんぽ?』
『あぁ、そうだ。連れて行って欲しい場所がある』
ヨルは手に持っていた、濡れそぼり薄汚れた布を大岩の上へと投げやると、森のある方を見た。
『崖が見たい』
『……崖を』
『そうだ。俺はここで生まれ育ったわけではない。だから、この場所の事を、もっと知りたいんだ』
穏やかな夏の夜風が、ヨルの髪の毛を揺らす。ヨルの後ろにある月は、ちょうど半分になっていた。
『今日、オブが一体どんな気持ちでインの手を掴み、そして、どんな風に思ったのか。知りたいんだ。こんな俺でも、一応父親だからな』
『そうか』
夜の森。もしかしたら、狼が出るかもしれない。危険だ。近寄らない方が良い。
そう、俺の頭の中にある、夜の森に関する情報がグルグルとうごめく。ヨルと散歩はしたい。けれど、夜の森は狼が出て危ない。一体、俺はどうすればいいのだろうか。
そんな俺の思考を読んだのか、ヨルはフッと息を吐き『大丈夫だ』と、口元に薄く笑みを浮かべた。
『本来、狼が人を襲う事は稀だ』
『そうなのか?』
『あぁ、見た目に反して臆病な生き物なんだ。自分達から人間に近寄ったりしない』
『でも、』
『お前にしては珍しいな。襲われた事でもあるのか?それとも、襲われた人間を見たか?』
『いや、ない』
『そうだろ?』
ヨルの問いかけに、俺はハッとした。そういえば、俺自身、狼に襲われた事はない。襲われかけた事もない。ただ、幼い頃に一度だけ、村の家畜がやられた事があったが、それもその一度だけだ。
遭遇した事はあっても、村人の誰かが狼に食い殺されたという話も聞かない。
『確かに、狼は夜行性だ。きっと、夜に見かける事の方が多かったかもしれない。けれど、狼を見て、人が恐怖を覚えるように、狼の方もこちらを見て恐怖を覚える。だから、こちらが危害を加えようとしない限り、接触しようとしてくる事はない。お互い逃げるだけだ』
『……そう、か』
どうやら“狼は危険だ”という考えは、もとより思い込みだったらしい。こうしてヨルから言われて、初めて俺は自分が村の年寄り達のように、根拠もない思考に取りつかれていた事を思い知った。
そんな自分に、俺はなんだか酷くガッカリしてしまった。
『俺も、村の頭の固い老いぼれ達と一緒か。確認もしていなかったのに、狼が怖いヤツだと思い込んでいた訳だな。ちょっとだけ、自分が嫌になったよ』
『……おかしなヤツだ。危険である事には変わらない。近づかないで済むのであれば、それに越した事はないさ。それに、』
ヨルは俺へと手を伸ばすと、目の横に張り付いていた俺の髪の毛をソッと避けた。避けただけでなく、そのまま触れた親指で頬を撫でられる。そこは、俺が先ほど川に入っていた際に、自分で自分を殴った所だ。
その場所を、まるで“よしよし”とでも言うように、ヨルの指が触れてくる。
『幼い子供が、子供の狼を食い殺す場面を見たら、そりゃあ怖いだろう。お前の恐怖は、きちんとお前の経験に基づいたモノだ。そう気にする事はない』
『……』
『さぁ、行こう。もし狼に出くわし、襲われそうになったら、俺がどうにかする』
どうにかする。そう言って俺に背を向け、森へと歩き始めたヨルに、俺はどのようにどうにかするつもりなのだろうと首を傾げた。けれど、ヨルが言うのだ。どうにかしてくれるのだろう。
『……』
俺は先程ヨルに触れられた頬に、ソッと触れてみた。ヨルの触れた感触が残っていて、なんだかくすぐったい。もしかしたら、ヨルは俺の中で癇癪を起していた“小さなスルー”をよしよししてくれたのかもしれない。
『スルー、崖はこっちでいいのか』
『あぁ!』
そう言って、振り返ったヨルの元へと駆け寄る。そして、俺は気持ちのままに、ヨルの周囲をクルリクルリと回ってやった。先程までのズシリと重かった気持ちが、嘘のように軽い。花の周りを飛ぶちょうちょのように、とても軽やかだ。
それもこれも、ヨルが“小さなスルー”を撫でてくれたからだ。腹の底の小さな俺の機嫌が良ければ、それはすなわち俺自身が、心の底からゴキゲンになれるという事だ。
『ヨルと森の散歩は初めてだな!』
『そうだな』
俺は頷くヨルの周りを飛んだり跳ねたりしながら、二人で夜の森へと繰り出したのだった。