1:いぬ君

 

 ナビは今日も広い広い草原を駆け抜けていた。

 

 無為に駆け抜けていた訳ではない。彼はたくさんの羊たちを追いかけていたのだ。

 

「おーい、みんなー!かえろー!」

「おやおや、ナビは今日も元気ねぇ」

「おばさん!今日も草はおなかいっぱい食べれた?」

「ええ。ええ。食べれましたとも」

「よかったー!じゃあ、かえろー!」

 

 ナビはそうやってにこにこと微笑まし気にナビを見てくる羊たち周囲を駆け抜け、彼らを家まで帰す。それがナビの仕事だ。子供の頃からそうやって過ごして来た。

 

「皆と一緒に走るのは楽しいなぁ!」

 

 ナビは牧羊犬だ。

 ウェルシュ・シープドックという種類の黒白茶の混じった毛並みの雄の成犬である。毛並みはさらりとした短毛で、瞳の色はブラウン。その耳は半分垂れており、その尾はその温厚な性格を表したようにタラリと垂れている。

 

「今日も悪い人は居ない!悪い狼も居ない!みんなもお腹いっぱい!今日も良い一日でした!」

 

 

 ナビの毎日はとても“素敵”に満ちていた。

 

 

 

        〇

 

 

 

「あれぇ、ここはどこだろう」

 

 ナビは今日も羊たちを追いかけていた筈だった。

 けれど、気付けばまったく知らない場所に来てしまっていたようだ。走るのが楽しくて楽しくて、気付けば見知らぬ場所。

 

 クンと鼻を鳴らしてみても、嗅ぎ慣れた羊たちの匂いはどこからもしない。代わりに鼻につくのは水の匂いだ。どうやら水場がこの近くにあるらしい。

 

「水の流れる音がする。サラサラって音……素敵だなぁ」

 

 ナビは知らぬ場所に来てしまっているにも関わらず、そのどこかぼんやりとした心持を崩す事はなかった。どうせいつか帰れるだろうと、そう思っているからだ。今はそれよりも、見知らぬ場所が新鮮に映って仕方がなかった。

 

「くんくん」

 

 サラサラと川の流れる音がするのも、ナビにとっては素敵に違いない。ナビは目を閉じ垂れた耳をヒクリと動かすと、音に誘われるように川べりへと向かって歩いて行った。

 

 

 

        〇

 

 

 

 ナビが川べりに到着すると、そこには広い広い川が勢いもそこそこに流れていた。

 

「喉が渇いたなぁ」

 

 ナビは先程まで一心不乱に走っていた。走っている時は夢中で気付かなかったが、どうやら体が水分を欲していたようだ。だからこそ、水の音にあそこまで敏感に反応してしまっていた事に、ナビは今更ながら気付いた。

 

「おいしそう」

 

 透き通るような川の水は、太陽の光を反射してキラキラと光っていた。ナビは素敵だなぁと思いながら、水を飲む為にその赤い舌をチロと突き出した。ピチャと冷たい水が舌に触れる。

 ゴクゴクゴク。

 

「おいしいっ!」

 

 見た目通り、とても冷たくて美味しい水だ。そうして一心不乱に水を飲んでいるせいで、ナビは一切気付いていなかった。

 

 背後から忍び寄ってくる、ノソリとした大きな気配に。