3:おおかみ君といぬ君

        〇

 

 ドサッ!!

 

「うわっ!!!」

 

 ナビは突然背後で聞こえてきたドサリという音に、ヒャッとその場を飛びあがった。普段は垂れている尾も一瞬だけピンと浮き上がる。

 振り返ればそこにはナビよりも一回り、いや二回りも大きな体のモノが倒れ込んでいた。その体はふさふさとした毛で覆われており、毛先は茶や黒の混じった色をしている。

 

「大きいなぁ。お仲間、かな?」

 

 ナビの後ろで倒れ込んだモノの周囲を、ナビは鼻をならしながらウロウロした。血の匂いがする。どうやら怪我をしているようだ。

 

「たくさん、血が出てる。大丈夫、じゃないよねぇ」

 

 最初は警戒心から傍をウロウロするだけだったナビも、次第に苦し気な様子で呼吸をする大きい仲間と思わしき彼に、なんだかとてつもない同情心が生まれてしまっていた。

 

 時折、彼の口から漏れる弱々しい泣き声にも似た鳴き声に、一歩、また一歩とその巨体に近づいていく。

 

 ナビは大きな体の相手の首筋にある傷に口を近づけると、ペロと赤い舌を出した。その瞬間、傷が痛むのか相手の体がビクリと揺れる。けれど、起きる様子はない。

 

「ぺろぺろぺろ」

 

 舐める、舐める、舐める。

 こうしてまずは傷口を綺麗にして、血を止めるのだ。ナビはこうして今自分が助けようとしている相手が、普段から口にしている“狼”とは露程も分かっていない。

 

——–今日も悪い狼は来なかったね!良かった!

 

 そんな言葉を毎日口にしているにも関わらず、ナビは狼を一度も見た事がなかったのだ。そのせいで、こんなヘンテコな事態になっているのだが、しかし、それを嘆いても仕方がない。

 

 なぜなら、ナビは牧羊犬としてあの小さな場所から外になど、一度も出た事が無かったのだから。

 

 

 

        〇

 

 

「うっ」

 

 ゲーションは首筋に走った一痛みに眉を寄せた。

 暖かい舌の感触がする。これはよく、幼い頃に母がしてくれた”愛情表現”だ。母の暖かい毛の中で丸くなり、兄弟達と身を寄せ合いながら生きていた。雄の本能が芽生え始める前までは、本当に幸せだった。

 

 ずっと此処に居て、皆と幸せに暮らしたいと思っていたのだ。

 けれど、成長し自身の中に現れた野心がその幸せを自ら壊した。でも、仕方がないではないか。自分は雄なのだ。だったら、野望があるだろう。

 

 安穏とした日々よりも、目指したいモノがある。

 

 でも、こうして今自身に触れられる暖かな毛の感触と舌ざわりに、思わずゲーションは呟いていた。

 

「……かぁ、さん」

「俺、お母さんじゃないよ?」

「っ!!」

 

 急に返された言葉に、ゲーションは一気に体を起こした。起こした瞬間、やはり首筋に走ったビリリとした痛みに表情を歪める。

 

「ダメだよ!まだ動いたら!血は止めたけど、酷い傷なんだ!」

「……お、お前は」

 

 フンフンと、鼻を鳴らしてゲーションに鼻をくっつけてきた耳の垂れた相手に、ゲーションは一瞬驚くほどに心臓が高鳴るのを感じた。お互いの濡れた鼻がピタリとくっつけられる。

 

「こんにちは。俺はナビ。キミは?」

「っは、っあ、えっと」

「大丈夫?どこか、苦しいの?」

「ゲーションだ!!」

 

 ゲーションはドキドキとやかましく高鳴る鼓動を抱えたまま、自分よりも非常に小さな相手に向かって名乗りをあげた。耳や尾の様子を見るに、同種である事は間違いなさそうだ。

 それにしても、この小さな相手からは非常に良い匂いがする。それに、とても可愛らしい。

 

「ゲーションっていうのが、キミの名前?」

「あぁっ!そうだ!ナビ、お前が俺を助けてくれたのか!?」

 

 耳と尾をバタバタと動かし、ゲーションは喜びの本能を露わにする。首には傷が残ってはいるものの、その他の部分が無傷なのだ。ここで尻尾を振らずしてどこで振る。そんな気持ちでゲーションの尾は物凄く揺れ続けた。

 

「うん、そうだよ!元気になったみたいで良かったね!」

 

 そんなゲーションの様子に、ナビもつられたように垂れた尻尾をヒラヒラと動かす。ナビは非常に相手の感情に左右されやすい性格であった。相手が嬉しそうなら、もちろん自分も嬉しい。

 嬉しいったら、嬉しいのだ!

 

「ナビ、ナビ!ありがとう!お前の匂い、凄く良い匂いだな!」

「ふふ、くすぐったい。ゲーションの匂いも凄く良いよ!」

 

 互いに互いの体の匂いをクンクンと嗅ぎ合う。確かに嗅ぎ慣れない筈の匂いの筈なのに、どうしてだか互いの匂いに妙な安心感と心地良さを覚える。ナビはゲーションの大きな体と毛の中に飛び込むと、ゴロゴロと自身の体をこすり付けた。

 

「すてき!すてき!ゲーションの匂いはすっごくすてきだね!」

 

 そう言って全身全霊で好意を露わにされてしまえば、それまで大きく左右に揺れていたゲーションの尾がピタリと止まった。ピリピリとした感触が全身に走る。これは決して傷の痛みなどではない。

 これは、雄の強い本能だ。この相手を番にせよという!雄の!男の子の!

 

 逆らえない意思だ!

 

「ナビ!」

「なあに!」

 

 ゲーションの勢いこんだ呼びかけに、ナビは彼の腹の上で更に腹を見せながら、勢いよく返事をする。好きな匂いの相手の中に飛び込んでいると、上も下も右も左も全部が“すてき”に囲まれているようで、なんとも幸せな気分になるのだ。

 

「俺の番になってくれ!俺とパックを作ろう!」

「いいよ!」

 

 勢いのあるゲーションの言葉に、ナビは反射のように頷いていた。正直、牧羊犬として幼い頃から羊たちと共に駆け回ってきたナビにとって“番”も“パック”も、余り意味の分かる単語ではなかった。

 けれど、素敵な匂いのゲーションが笑顔で誘ってくれるのだ。きっと楽しい事に違いないと思った。

 

「やった!やったぞ!これで俺もパックのアルファだ!これで俺も自分の子が作れる!しかも、こんな可愛い子と番えるなんて!ひゃっほう!」

「良かったね!良かったね!ゲーション!」

 

 ゲーションの余りの喜びように、ナビも尻尾をもっともっと振りながら満面の笑みを浮かべた。

 本当は種族も違えば、互いに雄同士である二人が番っても子など出来よう筈もないのだが、そんな事は今の彼らには何も関係のない事だった。

 

「これから、ずーっと一緒だ!ナビ!」

「うんっ!ずっと一緒!ずっとずっと!」

 

 ぴょんぴょんと跳ねるナビに、ゲーションはペロリとその口を舐めた。

 なにせ、彼らにとってはこれが初めての恋に違いないのだから。