8:あの頃のまま
「っ!」
目覚めた瞬間、俺は無意識のうちに額に手をやっていた。触れたその場所には、特に何の痛みも変化もない。
「……アウトの奴、一体何なんだ」
そう、確かに俺はアウトに手洗いへと引き込まれ、そこで盛大な頭突きを食らった筈だ。思い出せば思い出す程に訳がわからない。
そして、同時に湧き上がってくる腹立たしさ。
「アイツ、ぜってー許さねぇ」
言いながら俺は此処はどこかと体を起こした。さすがに、あの手洗いの個室ではなさそうだ。何故なら、俺はソファに寝かされ、その体の上には申し訳程度ではあるが、軽いタオルケットがかけてあるからだ。
「俺の店じゃ……なさそうだな」
周囲を見渡せば、そこには沢山のテーブルと机、そしてカウンターの奥の棚には、沢山の酒が置かれていた。
ただ、その酒場は俺の作ってきたような金持ちを相手にするような酒場ではなく、どこからどう見ても庶民の馴染みの酒場、といった風体の店だった。これはどこか、あのウィズが隠れてやっている酒場に似ている。
「っは」
ウィズは自分が酒場をやっている事を俺にバレていないと思っているようだが、あの近辺の土地の利権関係は全て俺の管理管轄下にあるのだ。何の店が出来て、どんな奴が店主なのか、俺はそれら全てを把握している。
だから、最初にウィズの名を見た時は、笑ってしまったモノだ。あの無口で不愛想な男が店?しかも酒場かよ!あり得ねぇな!と。
そして、健気なモノだと思った。きっとあの酒場も、インとの約束を果たす為に作ったものだと、俺はすぐに分かったからだ。
「ほんと、気持ちわりぃ奴」
俺は自分にかけられていたタオルケットを握りしめ、小さく呟いた。どうやらここは店のようだが、俺以外に誰か客が居るようには見えない。
というか、ここは一体どこだ。それに、アウトは一体どこへ行ったのだろう。
そう、俺が周囲を探索すべくソファから立ち上がった時だった。
『あっ!もうお客さんが居る!まだお店の時間じゃないのに!』
『っ!』
俺の背後から、どこか酷く懐かしい声が聞こえた気がした。この、声変わりは済んでいる筈なのに、幼さの残る高めの声。遠い過去の記憶の中にある癖に、何故か聞き馴染みがある。
そうだ。この声は、飽く事なく俺の嫌いな奴の名前を呼び続けていた。
「……イン、か?」
あり得ないと分かっていながらも、振り返りながら、口をついて出てくるその名。
『あれ?俺の真名を知ってるの?じゃあ、初めて見るけど、前も来たお客さんかな?』
そう言って此方に近づいてくる……子供とは言い難いが、決して大人でもない。そんな細い綱の上を軽々と歩んでいるような相手が、俺の元へと近づいてくる。その手には、何か一冊の本を抱えている様子だ。
「………あぁっ」
インだ。
これは、どこからどう見てもこの少年は俺の記憶の彼方に居る、オブの求めて止まなかった少年と変わらない。
「イン、お前……どうしてここに居る」
『?俺は、ここで働いてるんだよ!貴方はだれ?どうして俺の事を知ってるの?』
インは俺に向かって『誰?』と問いかけながら、けれどその目には一切の警戒心やら何やらは宿っていない。それどころか、親しみを込め何の躊躇いもなく俺の方へと駆け寄ってきた。
『ねぇ!どうして?』
「どうしてって……そりゃあ」
俺は、どう言ったものかと顎に手を当てて考える。どうしてというならば、それは俺が問いたい事に他ならない。どうして死んだ筈のお前が生きているのか、と。
「…………」
けれど、それをこのインに尋ねても、明確な答えは返ってこない気がした。なんとなく、分かる。昔からインは、鋭い所は本当に鋭かったが、どちらかと言えば鈍い所の方が多かった。質問の意図を分からせる為に苦労した事が、あの短い交流の間に一体何度あった事か。
そう、俺がどことも知れぬ酒場で、過去死んだ筈のインに対して思考を巡らせていると、そんな俺の様子にインの目が大きく見開かれていった。
『その顔、もっ、もしかして……!』
「あ?」
何やら勝手に俺の正体に合点をし始めたインに、視線を落とす。もしかして、俺が誰だか気付いたのだろうか。もしや、ここは未だに俺の夢の中で、もしかすると俺自身の姿を確認している訳ではないが、“前世”の姿をしているとか……。
『タオル!?』
「誰だよ」
インが目を輝かせて口にした名は、俺ではなかった。それどころか、人ですらなかった。なんだよ、タオルって。俺が寝てる時に被せられてたヤツの事を言ってんのか。
本当に、コイツはいつも意味が分からん。
『なぁんだ!いつもと格好とか髪型が違うから、最初は気付かなかったよ!でも、その考える時に顎に手を当てるヤツで分かった!いつもは、マスターの傍から離れないのに、今日は珍しいね。タオル!それに、おしゃれだ!』
「いや、だから。なんだよ、タオルって」
どうやらタオルという名の俺と似た人物が居るようだが、その名付けのセンスは一体如何なものかと思う。親は一体どんな気持ちで付けたのだと言いたい。
そう、俺が眉を顰めている間も、インは俺の隣まで来ると『ねぇ、ねぇ』と俺の腕を引っ張ってきた。
『タオルなら安心だ。ねぇ、一緒に本を読もうよ!』
「あ?」
『これだよ、これ!』
「うわっ!お前、なんてモン持ってんだ!」
そう言ってインが俺の方へと差し出して来たのは、まさかのあの本だった。アウトが俺に見せて来て、どこを頑張って描いただの何だと自慢してくる、あの――。
『びろうと、いんのお話!今は邪魔する二人が居ないから、ゆっくり読めるよー!』
「なんでお前がソレを読むんだよ!?」
『え?なんでって……このお話好きだから!』
にこにこと笑いながら、俺を先程まで寝ていたソファに座らせると、インも俺の隣に勢いよく腰かけてきた。そして、まったく訳の分からない状況の中、パラパラとインが本を捲る。捲りながら、俺に向かって好きな事を、好きなように言い始めた。
それはまさに、オブがあの地を去り、インが死ぬまでの“あの日々”のようだ。
『いつも皆がうるさくて読めないんだー』
「へぇ」
『聞いてもないのに、どこを頑張って描いたとか、悪い事してる訳でもないのに本を燃やそうとしてきたりもするし』
「そりゃあ、大変だ」
『そうなんだ!ゆっくり読めたのは最初の一回だけだよ!まったくもう!』
インは憤慨しながら本のページを捲り続ける。捲られるその中の物語は、ビロウとインの何気ない日常の話から、じょじょに加速していった。今は、二人が首都に行ったあたりか。
俺はもう何を考えるのも面倒になり、適当に相槌を打ちながら聞いてやった。
あぁ、本当に。あの日々のようだ。