16:恋人の居ぬ間に⑯~ウィズ出張中の2週間~

 

10:ビロウ

 

 

『ごめんなさいっ!ごめんなさいってば!』

『おい!その謝罪は聞き飽きたんだよ!お前っ!謝れば済むと思ってんだろうが!』

『だって!だってさ!欲しいって言われたお酒が、どの棚に置いてあったか分かんなくって!』

『そのくらい覚えろよ!?この鳥頭!』

 

 大層な言われようである。

 そして、この二つの声。俺にはどちらも聞き覚えがあるのだが、気のせいだろうか。

 

『っ!あっ!あっ!オブだ!あぁっ!どうしよう!この本を読んでたのがバレたら燃やされちゃう!タオル!お願い!隠してて!』

 

 インは先程まで俺から隠していた筈の本を俺の方へと押し付けてくると、無理やり俺の背広の内側へと手を突っ込んできた。無礼にも程があるが、その表情が余りにも焦りに満ちていたため、俺は黙ってその本を受け入れてやる。

 

 嘘だ。俺はインの行為の一つ一つなんて気にしてはいられなかったのだ。だって、声が近づいてくるのだから。

 

「……まさか、」

 

 騒がしい罵声と謝罪の応酬が、すぐそこまで近づいている。その声に、俺は何故だか心臓が激しく打ち付けられるのを感じながら、扉の方を凝視するしかなかった。

 

「オブ、なのか……」

 

 吐き出された自身の小さな呟きと共に、バタンとカウンターの奥の扉が開かれる。

 

『まったく……っイン?』

『お、お、オブ!どうしたの?マスターが、またいけない事をしたの!?』

 

 俺の隣でインが明らかに自分は何か後ろめたい事がありますよと言わんばかりの慌てた返答をしてみせる。

そんなんじゃ、俺に慌ててあの本を押し付けた意味がないだろうに。しかも、わざわざ俺を自分の背後に隠そうとするもんだから、更に怪しい。

 

 オブは、気持ち悪い程しつこいんだぞ。

 特にお前の事となれば、な。

 

「っはは、ほんと。何なんだよ、此処」

 

 俺はソファに腰かけたまま、片手で自身の目元を覆った。オブだ。オブが居る。しかも、アイツが変わってしまう前。まだ子供だった頃のオブ。

 十五歳のオブが、そこには居た。

 

「……とうとう、俺も頭がおかしくなったか?」

 

 そう思わずにはいられない。けれど、口に出してみたは良いものの、自身で耳にして一切そうは思えなかった。

俺は正常だ。何もおかしくなどない。けれど、ここにはオブが居る。あの頃のままの、オブが。

 

 何故かは分からないが、その理由は全部アイツが知っているのだろう。

 

 オブの隣で眉をヘタらせる、アイツ。

——-ビロウ!お前は一度オブと会って来い!会って、思い切り、喧嘩して来い!

 

アウトが。

 

『ねぇ、イン。その後ろの奴、誰?』

『えっ!?この人!?この人は……タオルだよ!』

『……なんでタオルを隠すの?』

 

 ほらな、やっぱり不審がってる。

 特にお前と二人きりで居た自分以外の男とありゃあ、絶対そうなるだろうさ。オブはそういう奴だった。

 

 ここにはインも居る。オブも居る。しかも、あの頃の姿のまま。

だとしたら、俺も自分の姿を勘違いしているだけで、今の俺は“ビハインド”ではないのかもしれない。

 

 もしかしたら、俺も――。

 

『ちょっと、イン。そこをどいて。一体何を隠してるの?』

『隠してない!隠してないったら!待って待って!』

『待てないっ!』

『オブはいつもそう!俺が待ってって言っても全然待ってくれない!』

『インは本当に待ってって思ってないじゃないか』

『今は本当の“待って”なんだよ!』

 

 惚気か、口論か。

 目の前で繰り広げられる二人の少年のやり取りに、俺はほくそ笑んだ。そして、目頭に当てていた自身の手を取る。すると、そこに見えた手は先程までの俺の手より、少しだけ小さくなっている気がした。

 

『ほら、どいて!』

『あぁっ!』

 

 俺の目の前でインがオブによって押しのけられる。インの影のせいで店の灯りが遮られていた所に、ハッキリと光が俺へと差した。

 

『っ!お、お前……!』

『よぉ、久しぶりだなぁ。根暗で粘着質なオブ』

 

 俺は自分の声が、それまでのビハインドの声質とは異なるモノになっている事に、この時は気付いてなどいなかった。なにせ、この時の俺は鼻から“ビロウ”だったのだと、思っていたのだから。

 

『ビロウッ!?お前が何で此処に居る!?インと何をしてた!?』

『っは、なんでかなんてコッチが知りたいぜ。けど?まぁ、俺がインと何をしてたかは教えてやれるぜ?』

『あれ?あれれ?』

 

———ビロウ?

 

 インの呆けた声が俺の名を呼んだ。

 そうそう、この声。この調子。

 そう、俺はビロウだ!

 

 俺はソファから立ち上がると、殆ど身長の変わらないオブの前へと腰に手を当て立ちはだかってやった。そして、口元に笑みを浮かべるのも忘れない。

 

 そうだ、俺はオブにはいつも意地の悪い笑みを浮かべて向かい合っていた。

 そうすると、オブは酷く嫌そうな顔をするのだ。それが、俺は大好きで大好きで堪らなかった!

 

『イン!ビロウと二人で何してたの!?何で此処にコイツが居るの!?まさか、俺からコイツに乗り換える気かよ!?』

『のりかえ……?待って、オブ!人は乗り物じゃないから、そんな言い方したらいけないよ!』

『違う!』

『何が違うの!?オブ!ビロウだよ!ほら!懐かしいね!』

『懐かしい気持ちなんて微塵も沸いてこないんだけど!ちょっ、本当になんでだよ!?おい!お前っ!ビロウ!』

 

 オブが癇癪玉を弾けさせたような顔で俺の胸倉を掴んでくる。あぁ、オブ。お前はそうでなくちゃあな!