18:恋人の居ぬ間に⑱~ウィズ出張中の2週間~

12:いらぬ自責

 

『大人のビロウだーっ!!凄い!凄い!わーっ!あっ、あっ、あっ!さ、サインを!サインを貰わないと!マスター!マスター!紙と書くモノちょうだいっ!』

『ちょっ!ちょっとイン!?何言ってんの!?何、ビロウにサインなんか貰おうとしてんだよ!くそっ!お前っ!インが年上好きだからって、卑怯だぞ!このクズ野郎!』

 

 卑怯だ。クズだ。

 そう、予想通りの罵声を受けているにも関わらず、なぜだろう。何か思っていたのと違う。俺は、もっとこう……あれ?

 

『あ、あれ?』

 

 俺は、自分に似合わないどこか呆けた声が出てくるのを聞きながら、目の前のオブを見る。すると、どうだろうか。目の前に居た十五歳の姿のオブが、いつの間にか一気に成長していた。成長して、変わり果ててしまった後の、あのオブの姿になる。

 

『イン!ほら、見て!この俺も好きだろ!?なぁっ!オイ!』

『……オブ』

 

 けれど、今、俺の目の前に居る大人の“オブ”は、ちっとも昔のまま変わってはいなかった。

俺の記憶にあるこの姿のオブは、誰にでも人好きのする笑みを浮かべ、俺がどんなに嫌味を言おうと苦笑するばかりだった。

 

———おいっ!オブ!お前、なんで俺を責めねぇっ!?

———ビロウ。一体どうしたんだ?なにをそんなに怒ってる?

 

 貧しい人々の為、この世界の全ての人々が幸福になるように、なんていう反吐が出そうな程の心にもない理想を唱えていたアイツは、もう昔のオブではなかった。

 あんなのは、俺の知っているオブではない。そんなお綺麗な事を言う奴じゃない。世の中の貧しい人間なんて、アイツは救おうとしてない。

 

 アイツが救いたかったのは、アイツが幸せにしたかったのは、

 

『イン!なんで俺の方を見ないんだよっ!?』

 

 イン。

 そう、インだけだった!

 そして、今こうして目の前に居るこの男は、あの頃のままのオブだ!俺が、憤りをぶつけても、何も応えてくれなかった“器”だけになってしまったオブではない!

 

『マスター!書くモノ書くモノ!』

『はいはい……じゃあ、俺もサインもーらお!』

『ダメ!俺が先!マスターは後!』

『早い者勝ちですー!』

 

 目の前に、インとエプロン姿の男が笑顔で駆け寄ってくる。二人共、その手にはペンと何やら手帳のようなモノを手にしているではないか。そして、俺の目の前に先にやって来たのは、エプロン姿の男の方だった。

その男は、凡庸であるにも関わらず、俺には何故か酷く魅力的に見えた。

 

『あのっ!』

 

 何故、そう思ったのか。俺にも分からない。強いて言えば、その笑った顔の向こうに、新たに揶揄ってやりたい奴の姿が見えたからかもしれない。

 

『初めまして!俺、アウトって言います!ビロウの愛好者です!推しです!サインしてくださいっ!』

 

 そう言って、どこかで聞いたような台詞を口にする相手に、俺は思わず笑って言ってしまった。

 

「っは。契約書以外に、俺はサインはしねぇ主義だ」

 

 まったく、俺の自責の念をなんだと思ってんだよ。この世界は。

 

 

        〇

 

 

「…………っ!」

 

 目が覚めた。

 目覚めた時、そこはもうあの見慣れぬ酒場などではなかった。そこは、俺の店の奥にある、俺の仮眠室であった。

 

「社長、目覚められましたか」

 

 俺が目覚めたと同時に、隣から聞こえてきたその機会のように無機質な声は、俺の秘書を務めるスラリとした男のモノだった。この男、仕事は出来るが人の温かみというモノは一切ない。

 社長が意識を失っていたというのに、心配する様子は欠片もなかった。

 

「あぁ、俺は……どうしてた」

「なにやら、貴方が倒れていたのを、見つけた方がいらっしゃったようで」

「……誰が」

「わかっていらっしゃるのでしょう?」

——–アウトさんですよ。

 

 秘書から口にされた言葉に、俺は思わず「っは」と笑みが漏れるのを止められなかった。何が倒れているのを見つけた、だ。お前が頭突きしてあぁなった癖に。

 

 そう、俺は自身の記憶が思ったよりもまったく混乱していない事に驚いていた。むしろ、全てが夢だというには、俺の記憶には欠落が驚く程ない。普通、夢なら目覚めたその瞬間から、その両の手を砂が零れ落ちるがごとく、記憶を消していくというのに。

 

「随分と楽しい夢でも見ていらっしゃったようですね」

「……なんだと?」

「寝ている間……ずっと、笑っていらっしゃいましたよ」

 

 秘書に言われて、俺はなんだかバツの悪い気分に陥ってしまった。まさか、そんなにわかりやすいほど、俺は寝顔に気持ちを出してしまっていたとは。

 

「……アウトは?」

 

 誤魔化すように口にした名に、きっと秘書は気付いている。気付いているのだろうが、それをあえて口にしてきたりはしない。それが、今の俺にとっては非常に有難かった。

 

「貴方を私に頼まれた後、同窓会の会場に戻られましたよ」

「そうか」

「……そう、アウトさんから伝言を言付かってます」

「なんて?」

 

 俺はベッドの上で片膝をあげ、少しばかり痛みを伴う額に手を当てた体制のまま、視線だけを秘書へと向けた。そんな俺に秘書が、なんて事のない口調でアウトの残した俺への言付けを述べる。

 

———また、いつでも喧嘩しにおいで。

 

 その言葉に、俺はゆっくりと顔を上げた。顔を上げ、そして深く息を吸い込む。

 そうか、またいつでも行っていいのか。

 

 俺は秘書の口にした言葉をなぞるように舌の上で転がすと、記憶の中にハッキリとある、あの騒がしい酒場を思った。

 

「まったく、本当に一体アイツは何なんだ」

 

 俺の問いに、答える者はどこにも居ない。きっと、アウト本人に問うても、ハッキリと答えが返ってくるとは思えなかった。なにせ、アイツもイン同様、鋭い所は鋭い癖に、鈍い所にはとことん鈍いのだから。

 

「さて、このあとの予定を頼む」

「はい、承知しました」

 

 俺はベッドの上から、スーツの皺を整えながら立ち上がると、ともかく最近遊び過ぎた分、大いに仕事に精を出す事にした。

その日、仕事をするにはうってつけなほど、俺の肩は軽かった。

 

 

 

 

 

【恋人の居ぬ間に】了

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