明彦は幹夫の恋人で、俺にとっては兄弟みたいな幼馴染。
幹夫は明彦の恋人で、俺にとっては、
俺にとっては、なんだろう。
ともかく、俺たちは3人で共に暮らしている。
変な関係この上ない。
まぁ、別に何でもいいのだけれど。
———
——
—
「はぁ……」
「どうした?疲れてんのか?」
その朝、幹夫はひどく疲れているようだった。
気だるげに寝室から出てきた幹夫に、俺は洗濯物を畳みながら声をかけてみる。
しかし、幹夫は「何でもないし」と不機嫌そうな声で俺の言葉を一蹴すると、そのまま勢いよく椅子に腰を下ろした。
セックスのやりすぎで腰でも痛いのだろう。あと、単純に寝不足だ。一時期、俺も明彦に嫌という程付き合わされていたので気持ちは分かる。
しかし、ここで安易に「気持ちわかるよ、辛いよな」とでも言おうものなら、きっと幹夫は烈火の如く怒ってくるに決まっているのだ。
「ナニソレ自慢!?ウザいんだけど!」と。幹夫の沸点は明彦に関する事となると、それはもう低く設定されている。しかも、どの部分が爆発点になっているのか分からない事も多く、最早地雷と言ってよかった。
幹夫を朝から爆発させると面倒臭いので、同調して幹夫の腰を労わるのはやめた。
ひとまず、腰が痛いとしたら湿布でも渡しておくべきだろうか。というか、湿布はあっただろうか。
「毎日ヤりすぎなんじゃないか」
「……何、嫉妬?」
「誰に対してだよ」
「……もう、ちょっと黙れよ」
こんなきつそうな相手に一体どこをどう嫉妬したらいいのか俺には分からない。ともかく本当に疲れた顔で、机に突っ伏す幹夫に、俺の前には同情一択の選択肢しか現れなかった。
よく見ると左手で腰をさすっているではないか。やはり、腰も痛いのだろう。若いのに可哀そうに。
「うーん」
少し戸棚を漁ってみたが、やはり湿布等はない。買った記憶もないので、なくて当然か。さて、どうしたものか。
俺はぐったりする幹夫を横目に、ふと思いついた。痛みはどうにもならないが、少しくらい気分だけでも回復させてやれるかもしれない。
そうだ、あれを作ろう。
ハニーカフェラテ。
あれ、マイルドな甘みと香りが凄く気分を和らげてくれるから、俺は好きだ。
確か、幹夫は甘いモノは平気な筈だったから大丈夫だろう。ついでに明彦が起きてきた時の為に、明彦の分も作っておいてやるか。
俺は賞味期限がギリギリの牛乳があったことを幸いと思いつつ、できるだけ静かに冷蔵庫から牛乳を取り出した。幹夫は眠っているわけではないだろうが、顔をつっぷしたまま、ピクリともしない。こうなってはいつもの罵声も懐かしいというものだ。
まず、牛乳をレンジで温める。温めている間に、耐熱容器にはちみつを好きなだけいれる。これは好みなのだが、俺はだいたい大さじ1くらいの量を入れる。その間に、レンジが温め終わったことを知らせてきた。
その音で、幹夫は少しだけ身じろいだが、顔を上げる様子はない。もしかしたら、少しまどろんでいるのかもしれない。
次に温めためた牛乳を泡立てる。この泡のフワフワさが、幹夫の気持ちを丸くしてくれるかもしれないと願いつつ、細かく泡立てた。
泡が出来たら、はちみつの入ったカップに、泡を残して温めた牛乳と、インスタントコーヒーを入れる。インスタントコーヒーもはつみつと同量程で良いだろう。
この辺りから、部屋に甘い香りが漂い始めてきた。
この、そこそこ面倒な一手間を惜しまず、飲み物を作る。余裕のない時程、そういう行動が気持ちを余裕のあるところへ引っ張っていってくれるような気がするのだ。
最後は残った泡を液面にそそぎ、はちみつをかける。
あぁ、良い匂いだ。今日の授業が2限からでよかった。俺は洗い物を手早く済ませると、幹夫の隣にハニーカフェラテをそっと置いた。
どうやら、甘い匂いの辺りから、幹夫もこちらの様子をうかがっていたようで、突っ伏されていた顔はしっかりとこちらへと向けられていた。
「それ飲んで少し横になれば?」
「……何これ?」
俺は怪訝そうな表情でカップの中を見つめる幹夫に「ハニーカフェラテ」と短く答えると、ひとまず自分用のカフェラテに口をつけた。
甘い。ふわふわだ。良い。
「それ、意外と疲れた体にも効くからさ。顔色も悪いし、できるなら今日は午前中だけでも学校休んだら」
「………休む程のことじゃないし」
「そうかい」
俺は、ふいと俺から視線を逸らす幹夫に、それ以上追及する事はせず、カフェラテ片手に畳む途中であった洗濯物に手をかけた。3人で生活するようになって洗濯物が圧倒的に増えた。特にタオルが足りなくなっていたので、次の休みにでも買いに行った方がいいのかもしれない。
そんな事を思いながら、少しくたびれたタオルを畳み始めた時だった。
「………おいしい」
小さな声でそう呟く、幹夫の声が俺の耳を掠めた。
それが何ともいえず、本当においしいと思って呟いたとわかる声だったので、俺は小さく笑った。
だって嬉しいじゃないか。
あんなに不機嫌だった奴が、俺の淹れたハニーカフェラテで少しだけでも素直になってくれたのだから。やはり甘いものとふわふわしたものは、人間のささくれた心を解きほぐすのだろう。
しかし、ここで幹夫に「おいしいだろ?」と、これみよがしに言ってしまうのは問題だ。そんな事をすれば、きっと幹夫の機嫌は一瞬にして悪くなるだろう。その為、俺は聞こえなかった振りをして洗濯物を畳み続けた。
俺も随分と幹夫の行動を把握できるようになったものだ。
「…………ねぇ」
「へ?」
予想外。
突然、幹夫の方から俺に向かって声をかけてきた。俺はあまりの意外さに洗濯物に伸ばしていた手を止め、幹夫へと向き直った。
「どうした?」
「あのさ……」
珍しい。本当に珍しい事に、幹夫は俺に向かって罵声を吐いてくるどころか、もごもごと何やら言い淀んでいる。幹夫がこんなに弱弱しく俺に接してくるなんて、初めて出会った頃から一度だってありはしなかった。
普段のあの辛辣さはどこへやら。もしや、明彦と喧嘩でもしたのだろうか。
俺がそんな事を考えていると、幹夫は自分の通学かばんから何やら1枚の紙を取り出して机の上へと置いた。
「あっきー、自分の進路って、いつ、どうやって決めた?」
「進路」
予想外再び。
明彦など全く関係のない、いたって真面目な話に俺は驚くと、幹夫の取りだしてきた紙を覗き込んだ。
そこには去年俺自身も大いに目にしてきた言葉がゴシック体のしっかりした書体で書かれていた。
【進路希望調査】
高校3年生へ向けられる将来を問う大人達からの圧力。それまで、当たり前のように子供として、学生として生きる事が当たり前だった俺達の前に現れた大きな岐路。
「俺、一応大学進学クラスなんだけどさ。別に行きたい大学もないし。これ、今日提出しなきゃなんだよね。もう、困ってるのなんのって」
「へぇ、幹夫が進学クラスねぇ」
「何、今まであっきーさ、俺の事バカだと思ってたわけ?」
思わず頷きそうになる自分の頭を、直前でなんとか横に振り、とりあえず進路希望調査を見ているふりをした。
いや、だって思うだろ。
此処に来て毎日セックス三昧の日々を送っている人間が、頭が良いなどと誰が思うだろうか。
そこまで、考えて俺はハタと思った。
そう言えば、幹夫はいくら連日に及ぶ明彦との激しい情事の後でも、次の日はきちんとこうして朝から起きてくる。寝過ごした事など一度もない。
そして、学校に行く前は必ず、冷蔵庫に張り付けられた時間割表とにらめっこをして教科書を準備していた。
俺にはそれがどんなに大変な事なのか凄く良く分かる。
なんと言っても経験者だ。そして、結局は学校をさぼっていたヤツでもあるからだ。
そう考えると、俺は突然目の前の口の悪い筋肉天使が、どんな状況の中でも勉学をあきらめない、あの二宮金次郎のように見えてきた。
「幹夫は……頑張ってるからな」
「まぁね」
「行きたい大学はないのか?」
「無いよ。あったら迷ってないし。とりあえず、将来の選択肢の幅をせばめたくないから、一通り勉強はやってるだけだし」
またしても返ってきた予想外の返答。
何だコイツ。
強いモチベーションがある訳でもないのに、この毎日の中でこんなにも背筋を正して勉学に向かえるその心の強さはなんだ。
この目の前の美少年は、毎晩、明彦との情事であられもない声を上げる奴と、本当に同一人物なのか。
いやしかし、だ。
ここに来て俺はようやく頭の中にあった光景と、目の前の少年が深い部分で一致するのを感じた。玄関で律義に靴を揃え、毎度小さな声ながら「おじゃまします」と言って部屋へ入ってくる幹夫。
あぁ、幹夫というこの少年の、根底はそこにあったのか。
今までは、出会いと深夜での情事のせいで隠れてしまっていた。こんなにもギャップのある面白い人間だったとは。
「幹夫はすごいな。そうだよ、どうせなら選択肢の幅は広い方がいい」
「まぁ、今は広がりすぎて選択に迷ってるんだけどね」
「そりゃあ、羨ましいな」
「全然羨ましくないし。昨日なんて担任から呼び出されて、何かと思えば俺の行けそうな大学全部ピックアップして見せてくんの。期待してるんだかなんなんだか知らないけど、ここ行けあそこ行けだの………ほんと、ウザい。お陰で明彦とのセックスも集中できなくて昨日は不完全燃焼だったよ」
「そうか……」
やっぱりこいつの思考は最後はそこに行きつくらしい。
俺としては、やっと普段通りの幹夫が垣間見えて少し安心した。
「ちょっと参考までに聞きたいんだけど、あっきーはさ、どうやって進路絞ったの?」
本当に今日は予想外が続く。
まさか、幹夫が俺にこんな相談まがいの事をしてくる日がくるとは。
俺は驚きの余り上手く思考が回らず、ひとまずカフェラテを口にすることにした。それはもう冷めきっていて、ふわふわの泡も、もう無くなってしまっていた。儚い。
「どうやって……えっと、確か偏差値で行けそうなところって感じだったかな」
「やっぱ、そんなもんなの?」
「まぁ、特にやりたい事もなかったしな」
「自分の将来だよ。そんなテキトーに決めちゃってよかったわけ?」
おっしゃる通り。返す言葉もない。
そう、俺はあまり能動的に物事を思考したり行動した事がない。俺はいつも流されてばかりだった。だから、進路でこんなにも悩む幹夫の気持ちなど、想像はできるが理解は余りできなかったし、理解しようとも思わない。
「俺はさ、つまんない人間だなって自分でわかってるんだけど、一つだけ自信がある事があってさ」
「へぇ、なに?ちょっと気になる。あっきーのどこに自信が持てるの?皆目見当がつかないや」
「……言うね」
「俺、嘘つけないから」
歯に衣着せぬ天使再来。昨日ぶりだが、懐かしい。どうやら、少しずつではあるが幹夫も調子が戻ってきたようだ。やっぱり、幹夫には、こうでいてもらわないと俺も調子が狂うというものだ。
「で、何?あっきーが他人よりも自信がある事って」
「全部、受け入れられる自信」
「は?」
幹夫が、意味がわからないと言った風に俺を見てきた。どう、伝えればわかりやすいだろうか。
「進んだ先で起こる何もかも、多分俺にとっては受け入れられない事なんてないから」
「…………」
「後悔しない事が分かってるから、悩まないんだ。どこへ行っても俺は大丈夫なんだ」
それが、俺の自信。
俺は受動的だから、他人の気持ちを芯の所で理解しようとしていないから。
だから、俺は悩めないし、悩まない。俺は多分、非常に冷たいやつなんだろうなと、そう思う。
俺の言葉に幹夫は、しばらく何とも言えない顔で俺を見ていた。大きな真っ黒い目が、俺の姿を映し出す。そして、次の瞬間口に出された言葉は、全くもって予想していない言葉だった。
「あっきーってさ、思ったより面白い人間だったんだね」
「…………生まれて初めてそんな事言われた」
おもしろい?俺が、まさか。
「さっきの話さ、あっきーじゃないヤツが言ったんだったら鼻で笑ってるところだったよ。全部受け入れられる自信があるから迷わない、後悔しないって。漫画の読みすぎかよって」
「……まんが」
「でも、言ったのがあっきーだから、俺はそれが本当なんだろうなって思った」
幹夫は進路調査の用紙を手にすると、いつもの幼い少年の顔ではない大人びた顔でポツリと呟いた。
「道がたくさんあるから悩んでるんじゃなかったんだ。俺」
「幹夫?」
「後悔するのが怖かっただけかよ。ださ」
幹夫は言い終わるや否や、残っていたカフェラテを一気に口に流し込むと、どこかすっきりしたような表情で用紙を自分のバックに突っ込んだ。
何が何だか分からないが、もういいらしい。
「確かに、俺も自信あるよ。俺ならどこへ行ってもやっていけるって」
幹夫という人間に対する感情が、この短時間の間で大きく変わった。幹夫はただの明彦一筋の美少年なんかではなかった。幹夫は俺を面白いなどと言ったが、面白さでいうなら幹夫の方が群を抜いていると思う。
俺は初めて明彦が幹夫に惚れた理由が分かった気がした。幹夫は、潔い。この子は、可愛いが、しかし、格好いい。
「ねぇ」
「ん、何だ」
どこかニヤついた表情で幹夫が俺を呼ぶ。俺はというと、放置していた洗濯物をそろそろ畳まねばと、タオルの山に手をつけたところだった。
「あっきーって、何大だっけ」
「あ、俺?俺はそこの薬場大だけど」
「ふぅん、そこそこじゃん。意外」
「幹夫こそ、俺の事、アホだと思ってただろ」
「言うまでもなくね」
そろそろ歯に絹を着せてあげてほしいところだ。俺は完全に調子の戻った幹夫に、少しばかり吹き出すと手際よくタオルを畳んでいった。
「ねぇ、あっきー」
「ん?」
「また、コレ作ってよ」
コレとは、見なくても分かる。ハニーカフェラテだ。
どうやら気に入ってくれたようで何より。やはり余裕のない時こそ、手間をかけたほうがいい。余裕のない事から、その瞬間は少しでも離れられるから。
「いいよ。いつでも作ってやるから。飲みたくなったら言えよ」
「ん、ありがとう」
「どういたしまして」
その日を境に幹夫は少しだけ……本当に少しだけ、素直になった。
明彦は俺の幼なじみ兼同居人。
幹夫は明彦の恋人兼俺の……
後輩、かな。