9.応援関係

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カツカツカツカツ。

 

  音を拾った。それは微かな、何かが紙の上を滑るような音だと思った。

 

「う、ん……」

 

 

 俺はどこからともなく聞こえてくる聞き慣れない音に、薄く目を開いた。

 部屋は真っ暗……ではなく、リビングの机の上だけ、微かに光が灯されている。

 俺は微かに部屋を照らす光に目をくらませながら、しばらくソファに横になった状態で目が慣れるのを待った。

 

 カツカツカツカツ

 

 少しずつ覚醒していく意識は、視覚、聴覚を正常に機能させていく。

 聞こえてくるのは、ベットの軋む音でも、喘ぎ声でもない。それはどうやら、シャーペンを紙の上に走らせる微かな音だった。

 

 なんだ、俺は喘ぎ声ではグッスリ眠れるくせに、こんな小さな音で起きてしまうのか。

 慣れとは本当に恐ろしい。

 しかし、少しだけ安心した。最近、あの騒音の中ですらグッスリ快眠できてしまう自分自身に、若干の危機感を覚えたりもしていたのだ。泥棒とか入っても起きなさそうだな、と。しかし、俺の野性本能は死んではいなかった。一安心。

 

 というか、一体こんな時間に何だろう。

 俺は明るさに慣れた目で時計へと目をやると、その針は既に夜中の3時を指していた。

 そして、その拍子に見えてしまった。

 リビングの椅子に座って何かをしている人物が。

 

「………あ」

 

 幹夫?

 俺はハッキリとその姿を認識すると、そっとソファから体を起こした。

 しかし、余程集中しているのか起き上がった俺に、幹夫は一切気付いている様子はなかった。

 

「おい、幹夫」

「あ?アッキー?」

 

 夜、というか明け方の静かな部屋に響く俺の声。普段通りの声で名前を呼んだ筈なのに、余りにもシンとするこの部屋には思いのほか大きく響いた。

 俺がソファに横になった時は、確かにいつものように二人の情事の音が響いていた筈だったが、その余韻など欠片も感じられない。本当に、この部屋は静かだ。

 

「何やってんだ?こんな時間に」

「まぁ、ちょっとね」

「ちょっとって事はないだろ。よいしょっと」

 

 俺はソファの上から布団をどかすと、幹夫の居るリビングの机の置いてある場所へと向かう。

 そんな俺に、幹夫は少しだけ眉をひそめ小さくため息をついた。

 

「別に、宿題やってるだけだから」

「宿題?こんな時間に?」

 

 俺が幹夫の座る向かい側の席へと座ると、確かに机の上には高校の参考書や教科書が机いっぱいに広げられていた。

 

「こんな時間しか宿題する時間がないだよ」

「そりゃあ、お前が毎晩毎晩やりまくってるからだって」

「何それ、嫉妬?」

「だから、誰に対する嫉妬だよ」

 

 俺が以前も同じようなやりとりをやったなぁと、デジャビュを感じながらそう答えると、幹夫は少しだけ眉間に皺を寄せて俺を見てきた。

 なんだろう。勉強の邪魔だという事だろうか。

 いやしかし、こちらももう目が冴えてしまった。さすがの俺も今更すぐに「じゃ、寝るわ」という気分には慣れない。

 

 それに、こんな時間にしか勉強ができないのはハッキリ言って明彦が原因だ。そう思うと、明彦の面倒を見てもらっている感覚の俺からすると非常に申し訳ない。

 

 明彦は暴走している。

 初めて両想いを経験したせいで、全く歯止めが利かなくなっているのは誰の目から見ても明らかだった。愛したくて愛したくて仕方なかった割に、愛する事に慣れていなさすぎる。下手くそか。

 

 明日にでも、俺からひとこと言うべきかもしれない。

 明彦が、俺の言う事など聞くとは思えないが、一応。

 

「なぁ、体は大丈夫か」

「全然平気。俺はそんなにヤワじゃないから。だからさ、あっきー」

「ん?」

「明彦に余計な事は言わなくていいからね」

 

 絶妙なタイミングで釘を刺されてしまった。

 どうやら俺の思考も幹夫には見通されているようだ。俺も幹夫の考えを大分と読めるようになってきたと思っていたが、どうやらそれはお互い様であったようだ。そんなに長い付き合いでもない筈なのだが、人間関係というものが時間にのみ依存する訳ではないという事を、俺はこの時初めて知った。

 

「わかった。まぁ、お前ら二人の事だし、ちゃんと二人が納得してるならいいよ」

「そう。これは俺の受験勉強だから。何があっても俺の責任。どんな状況だって関係ない」

 

 幹夫はひたすらに参考書から目を離す事なく、そう淡々と口にした。ヤワではないと言ったものの、その顔には少しの疲れが見え隠れしていた。

 まぁ、こんな時間にセックスを終えたクタクタな体で宿題やっていれば、そりゃあ疲れるだろう。

 

「そういや、もうすぐ受験か。勉強、大変だろ?」

「まぁ、行きたい大学も決まったし。後は頑張るだけって感じかな」

「お、決まったのか。志望校。どこ?」

「言わないし」

「……そうかい」

 

 即答かよ。ケチだな、コイツ。

 教えてくれたっていいだろうに。教えてくれれば、少しはサポートできる事もあるかと思ったのに。

 先程は、少しは仲良くなれたと思っていたが、それは一方的な俺の勘違いだったようだ。意外にも、俺はその事が地味に心に引っかかってしまった。

 

「目標が決まったら、なんていうか……これまでみたいにぼんやり勉強してるだけじゃ駄目なのが分かってね。受験て直前まで現役は伸びるから、あんまり余裕ぶってられない。悪いけど、これから夜電気つけちゃうから」

「いいよ、別に。つーか。もうガッツリ電気つけるならつけろよ。目悪くなるぞ」

 

 俺は言いながら、薄くついていた電気を一番明るい明りに変えた。薄暗さに慣れていた目が、急な明かりで少しだけ眩む。

 それは幹夫も同じだったようで、眉間を指で押さえていた。

 このくらいじゃないと勉強もし辛かったろうに。

 出会い頭に俺に部屋を出ていけとのたまった癖に、幹夫は時間を経るごとに変なところに気を遣うようになってきた。

 

 普通は逆だろうに。

 時間と共に、相手への気遣いはなくなっていくのではないか。

 時間の経過と共に、人は近しくなっていくのではないのか。

 さほど付き合いが長くなくとも相手の考えを読めるようになったり、それでいて最初より気を遣うようになってきたり。

 

 俺には幹夫が良く分からない。

 少しだけ、もやもやする。

 

「ごめん、寝にくくなったな」

「いいよ、別に。俺、電気とか気にならねぇし。お前こそ、あんまり根詰めんなよ。体壊したら意味ねぇし」

「うん」

 

 本当は、少しヤる回数を減らして睡眠にまわした方がいいんだろうが、それは先ほど明彦には言うなと釘をさされてしまった。

 では幹夫に言うのはどうだ。

 いや、それもいけない。

 これにしたって、どうせ「嫉妬してんだろ」とか「明彦の事まだ狙ってんだろ」とか、あらぬ疑いをかけかねられない。

 結局、二人の関係の外に居る俺に、口を挟む余地はないのだ。

 

「ねぇ、アッキー」

「んー?」

「俺、ちょっと疲れたからさ……アレ作ってくれるか」

「あー、あれな。いいよ。そうだな、お前もちょっと休憩した方がいいだろうし、ちょっと待ってろよ」

 

 俺はそう言うとキッチンに足を運び、戸棚から幹夫のカップを取りだした。

 幹夫の言う“アレ”と言うのは、以前作ってやったハニーカフェラテだ。あれ以来、幹夫は何かあるたびに俺にハニーカフェラテをせがむようになった。

 まぁ、ホットが合う季節になってきたし、勉強の合間にはとっておきかもしれない。

 

「はちみつは多めがいい」

「はいはい」

 

 ハニーカフェラテを幹夫からせがまれる時だけは、俺も少しだけ安心できる。変な気を遣われるより、俺にとってはよっぽど心穏やかだ。

 二人の関係に口を出す事も、幹夫の受験をサポートしてやる事もできない俺にとって、これ唯一、俺が幹夫にしてやれる事だ。

 出来れば、幹夫には志望校に受かって欲しい。

 

 俺は少し多めにカップにはちみつを入れると、熱々の牛乳をカップに注いだ。早く作ってやって、一息つかせてやらねば。

 俺は手早くハニーカフェラテを作り終えると、熱々の状態のマグカップを手にリビングにあるテーブルの方を振り返った。

 

 ばちり。

 デジャヴ。振り返った瞬間、俺の目は幹夫とばっちり合った。幹夫の目はやはり黒目がちで大きく可愛らしかったが、出会った頃のような幼さは少しずつ感じられなくなっていた。

 そう、少し背も伸びた気がする。出会い頭から驚くほど食欲があった幹夫に、もしかしたら今がこいつの成長期なのではないかと、俺は密かに思った。

 

「勉強してるかと思ったけど、そんなに待ちきれなかったか」

「……うるさい」

 

 俺とばっちり目があった幹夫はバツの悪そうな顔で目を逸らした。

 

「ほらよ」

「……ありがと」

「なぁ、幹夫」

「何、アッキー」

「あんま無理すんなよ」

「うん」

 

 俺は、俺に言える精一杯の言葉を伝えて、幹夫にハニーカフェラテを手渡した。

 その時、俺の目を見て小さく頷いた幹夫は、なんだか今まで見てきた幹夫とは少しだけ違う気がした。