10.優しい関係

 

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 午後11時。

 その日は珍しく、寝室から騒がしい声は聞こえてこなかった。

 ベットの軋む音も、高い嬌声も、いつものこの部屋の日常が、今日はどこにもなかった。

 その理由は。

 

「明彦、大丈夫かー?」

「うぅ……らいじょうぶじゃない」

「返事できれば十分大丈夫だ」

 

 明彦が熱を出した。

 幹夫ではない。明彦の方が、だ。

 まさかの明彦の方が先に倒れるとは。セックスが終わったら次の日は昼間でぐっすり休養をとっていた筈なのに、何故。

 まぁ、その理由は、冬のこの寒い時期に布団を蹴飛ばして真っ裸で寝ていたからという、かなりアホなものであった。

以前なら、俺が布団をかけてやっていた。きっと少し前までは幹夫がそうしてやっていた筈だったが、幹夫も最近は明け方に勉強する毎日だった。

 

 甘やかしすぎただろうか。

 いやいや、しかし、明彦だってもう17歳だ。どんなに甘やかされていたとしても布団くらい自分で着て寝ろ。

 まったく、ヤる事ばっかり考えてっからそんな事になるんだよ。

 

「まったく」

 

 そのお陰で俺は本当に久しぶりに己の寝室だった部屋へと入る事になった。「まったく」と言いつつ、俺の手にはきちんと薬とお粥が準備されている。しかもお粥は、昔から明彦が熱を出す度に食べさせてもらっていた、明彦の母直伝の卵粥だ。

 明彦の成長の阻害は、やはり俺が原因だなと肩をすくめつつ、俺は久々に明彦の世話を焼くなと懐かしい気分になった。

 

「ほら、明彦。粥と薬もってきてやったから、少し食べろ」

「くすりやだー」

「やだじゃない。飲まなきゃ治らないぞ」

 

 俺はベットの脇にある棚にお粥と薬を置くと、明彦の熱の具合を図ろうと、その額に手伸ばそうとした。

 しかし。

 

「明彦、大丈夫?」

「みきぃ、きついよー」

 

 明彦の隣で心配そうにその顔を覗き込む幹夫の姿を前に、俺の手はピタリと止まった。

 いけない、ついうっかり昔のように手を出すところだった。

 もし幹夫の前で明彦の世話を焼こうものなら、またしても俺はいわれのない罵声を浴びる事になる。

 

 そうだ。もう明彦は以前のように俺が世話を焼いてやる必要はないのだ。

 明彦には幹夫が居るのだから。

 そう思うと、俺は最近頻繁に感じるようになった心への妙な引っかかりに、なんともいえない感覚が襲ってくるのを感じた。

 

 「明彦、食欲はある?」

 

 明彦のベットの隣では、幹夫が心配そうに明彦の額のタオルを代えてやっている。

 

「食欲なんてないよー」

「少しくらい食べなきゃ治らないよ。ほら、あっきーがお粥作ってくれてるよ」

 

 そう言ってこちらを見てくる幹夫に、俺はぎこちなく頷く。俺はどうすべきだろうか。今までは全部俺がやってきたから良かったが、こうなっては俺がこの部屋に居る意味は、もうないような気がした。

 

「あっきーのお粥かぁ」

「おう、いつもの卵粥だぞ」

「なら、少し食べようかな」

 

 なら、少したべようかな。なんて、明彦がいつもの調子で言ってくれるもんだから、その瞬間、俺は少しだけ心に棘のように引っかかっていた小さな痛みが引くのを感じた。

 そのせいで、俺はうっかりいつもの調子で、起き上がる明彦の背中を支えようと手を伸ばした。

 

「あっきー、いいから」

「あ、ごめん」

 

 俺の手が明彦の背中に触れるか触れないかという瞬間、俺の手は幹夫の声によってはっきり阻まれていた。

 

 やってしまった。

 そろそろと目線を上げて映った視界に幹夫の顔は明らかに不機嫌そうで、俺は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

「明彦に触るなよ!」とヒステリックに叫んでくるかと思いきや、余りに静かに冷静に拒否されるものだから、逆に俺の心は冷え込んでいった。

 

「幹夫、悪い。明彦の看病、よろしくな」

「え、……あ、うん」

 

 俺が薬とお粥の乗ったおぼんを幹夫へと回すと、幹夫は一瞬戸惑ったような表情でおぼんを受け取った。

 

「みきぃ、食べさせてー」

「……お粥は自分で食べれるだろ?子供じゃないんだから」

「なぁ、ミキが口移しで食べさせてよ」

「っおい!明彦!」

 

 明彦の言葉に幹夫は焦ったような表情を作ると、チラリと俺の方を見てきた。

 

 わかっている。出ていけという事だろう。

 早急に邪魔者は退散せなばなるまい。

 

「じゃ、後はよろしくな。幹夫」

 

 俺はいつヤり出すともしれない二人の雰囲気に、俺はさっさと部屋を出て行った。

 明彦はどこまで行っても明彦だ。あれだけ熱が出ているのに、どうしてあの調子が保てるのだろうか。

 しかし、今日がたまたま休みでよかった。明彦もあれだけ普段学校をサボっているのだ。平日に本気で数日休もうものなら、もしかすると進級に響いてくるころかもしれない。

 

「さて、と。俺も昼にするか」

 

 俺は鍋にかけてあった、先ほどの明彦の卵粥を少しだけ温める。既に大分水分を吸ってしまい、ゴワゴワだ。

 

 まぁ、なんだっていい。口に入って腹が満たせれば。

 俺も今は少しだけ投げやりな気分だった。こういった感覚は、人生で初めてだ。俺は一体何に対して心を乱しているのだろう。

 これがどんな感情なのか、自分でも良く分からない。

 

 最近の俺は少しおかしい。

 

 俺はもそもそと残りのお粥を食べ終わると、食べ終わった食器を洗い、軽くシャワーを浴びた。少しでも気分をすっきりさせたかった。

 しかし、シャワーを浴びたからといって特に気分がスッキリする訳でもなく、仕方がないので次は洗濯を始めた。ともかく、体を動かし続けたかったのだ。

 どうやら、俺は何かを振り払おうとしているようだった。

 

「なんだそれ」

 

 自分の感情なのに、どうしても伝聞推定系になってしまう。本当に「なんだそれ」である。もう、笑うしかなかった。

 俺が他人の感情に同情する事は基本的にない。しかし、実は自身の感情にさえ、こんなにも無頓着だとは思ってもみなかった。

 流されて受動的に生きてきた弊害が、ここにきて顕著に現れてきたようだ。お陰で俺は自分の気持ちにすら同情できない。そもそも同情しようにも、俺には俺の気持ちが全くわからない。

 

「あれ?」

 

 そうやって、悶々としながら家事をしていると、ふと寝室から一向にいつもの喘ぎ声が聞こえてこない事に気が付いた。

 俺が部屋を出たら、即お粥プレイだのナースプレイだのやらかすもんだと思っていたので、こんなに静かだと逆に少し心配だ。

 

「アッキー」

「うわぉ!?」

 

 俺がちょうど明彦達の事を考えていると、突然背後から幹夫の声が聞こえた。

 

「ちょっ……そんなに驚かなくてもいーじゃん」

「や、ごめん。ちょっと考え事してて」

 

 振り返ると、そこには空になった皿を持つ、幹夫の姿があった。

 あぁ、やっぱり少しだけ背が伸びている。きっと幹夫は、少しだけ遅いが、これからどんどん大きくなるのかもしれない。

 俺は少しだけ目線の高さが高くなった幹夫に、ぼんやりとそんな事を考えた。

 

「お、なんだ。普通に食べ終わったのか」

「うん。明彦なら、もうぐっすり寝てるよ。ってか、普通にって何だよ」

「いやぁ、お前らの事だから、俺の作ったお粥であられもないプレイでもやんのかなぁと思ってたから」

「ふざけんな!んな事するかよ!?」

「ごめん、ごめん。冗談」

 

 冗談?嘘だ。

 本気でそう思っていた。

 

 しかし、俺は結構本気で怒っている幹夫の機嫌を治すべく、幹夫の手にある皿を受け取ると、そそくさとソファまで誘導してやった。

 幹夫は口を無一文にふさぎながら、握りしめられた自身の拳をじっと見つめていた。

 これは、殴られるフラグが立ってしまっただろうか。いや、それはないだろう。実際、幹夫は出会い頭のような攻撃性は、実はあれ以来一切見せてきてはいない。

 

「悪かったって。幹夫は、本気で明彦の事心配してたんだもんな?」

「…………」

「ほら、ごめん。機嫌直せよ。カフェラテ作ってやるから。ゆっくりしてな。明彦の看病お疲れ様」

「……うん」

 

 俺は未だにむくれっぱなしの幹夫をソファに座らせると、急いで食器を洗い、手早くハニーカフェラテを作った。

 もちろん、はちみつは多目。牛乳は、すぐに飲めるようにいつもより少し温め。フワフワも多めにしてやろう。

 

 そこで、俺はふと思い至った。

 そう言えば、今日は幹夫はどこで寝たらいいのだろうか。

 いつもは寝室で明彦と二人仲良く寝ているので問題はないが、今日は別だ。

 

 さすがに風邪をひいている人間の隣になど、寝かせられない。

 ましてや、幹夫は受験生だ。

 

「あ」

 

 そうだ、幹夫は受験生だった。

 俺はやっと思い至った当たり前の事実に頭を抱えた。一体、俺は何をしているのだろうか。受験生に風邪引きの看病をさせるなど。

 ああもう、先程まで部屋に居させたのもやっぱり間違いだった。

 いくら、幹夫が嫌がっても、俺があそこは世話をしてやるべきだったのだ。

 

 受験はもうすぐだ。今が一番大事な時期だし、なんなら、幹夫はインフルエンザの予防接種等は受けたのだろうか。いや、受けてないだろう。だって、そんな事は一言も言っていなかったし、素振りもなかった。

 

 とりあえず、幹夫は今日はソファで、あったかくして寝てもらうしかない。本当は家に帰した方がいいのだが、それを幹夫が素直に聞くとは到底思えない。

 俺はそう結論付けると、出来上がったカフェラテを持って、未だに少し機嫌のよろしくない幹夫の元へと向かった。

 

「ほら。いい加減機嫌直せよ」

「別に……機嫌悪いわけじゃないし」

「そうかい、なら良かった」

「ねぇ、」

「んー?」

「アッキーってさ、いつもこのソファーで寝てんの?」

「え。うん、そうだけど」

 

 幹夫は何故か非常に深刻そうな表情で、現在座っているソファに片手を置いた。なにやら硬さや弾力性等を確認しているようだが、さっそく今夜このソファで寝る確認でもしているのだろうか。

 確かにベッドからソファに寝るのは少し抵抗があるかもしれない。

 

「体さ、痛くないか?」

「んー、別に。このソファ、結構こだわって選んだからさ、意外とリッチなんだぜ」

 

 そう、この部屋において意外と一番高値だったのがこのソファだ。一人暮らしをするとなった時、俺はあの時少しばかり気分が良く、部屋の中をどうするのか地味に毎日考えたものだった。

 だから、このソファは大丈夫だ。そりゃあベットよりは寝心地としては劣るかもしれないが、十分すぎる程休息は取れる。

 

「だから、幹夫今日はここでちゃんと暖かくして寝ろよ。受験生なんだから」

「何言ってんだよ。もう、馬鹿だよ、あっきーって」

「え、何、急な罵声」

 

 

 幹夫はハニーカフェラテを片手に持ったまま、またしても不機嫌そうな表情で俺を見てきた。ただ、その視線には、いつも幹夫と目が合った瞬間に頭の中で鳴る、弾けるような擬音は感じられなかった。その視線はどこか弱弱しい。

 

「まぁ、ほんと、大丈夫。このソファ寝心地はいいぞ?」

「……馬鹿だよ、アッキーは」

 

 まだ言うか。

 どうしてだろうか。もう声まで弱弱しい。

 

「あのベッドだって本当はアッキーのなのに。こんなソファで寝て。文句も言わないし」

 

 と、その言葉で幹夫がようやく何を気にしてソファの事を言い出したのか分かった。

 

「あー、幹夫さ。もしかしてベッドの事気にしてんの?」

「当たり前だろ」

 

 とうとう、幹夫はカフェラテを机の上に置くと、膝を抱えてまるくなった。少しばかり体は大きくなってきたかもしれないが、元が可愛らしい為、どうしてもその姿は幼子のように見える。本当に18歳か。

 

 俺は幹夫が今更何を気にしてこんなに辛そうな顔をしているのかさっぱりわからなかった。幹夫は俺が嫌いだった筈だ。仮に、最近の様子から俺の事を嫌わなくなっていたとしても、どうしてこんなに辛そうな様子なのか理解できない。

 しかし、今回は何故かこの幹夫の辛そうな姿に、少しでも良いので理解してやりたいと思った。今までは他人の気持ちは理解できないものと割り切って生きてきた筈なのに、どうしてだろう。

 

 俺はどうしたのだろうか。

 

「今更気にすんなよ。俺、別にソファで寝るのヤじゃないし」

「……もうヤんないから、ベットはあっきーが使ってよ」

 

 ヤらない。それはもう幹夫と明彦がセックスをしなという事だろうか。

 本当に何を言っているんだろう、幹夫は。

 わからない、本当に分からない。

 全く理解ができない。できる気がしない。

 

「いいって。俺の事は気にすんな。気持ちだけもらっとくよ」

「なんで?俺達が毎日使ってるベッドだから、嫌なのか」

「別にお前らが使ってるから嫌ーとか、そんなんじゃねぇよ」

「じゃあ何でだよ。アッキー、ずっとこんなとこで寝てたら体壊すぞ」

 

 幹夫が俺の体調を心配している。仲良くなったとは思っていたが、こんな事を言い出すくらい俺たちは仲良くなっていたのか。しかし、明彦との情事を押しのけてまでの仲だとは到底思えない。

ぐるぐるする。俺は今まで自分の理解できない範疇のものは視界に入れても、直視しないように生きてきた。

 

 なのに。

 

「そんくらいじゃ体壊さねぇよ、ほんと大丈夫だから気にすんな」

「……ベッドが嫌ならシーツもカバーも換えとく」

「だからベッドは問題じゃねーって」

「じゃあ何で!?だいたいあの部屋はアッキーの部屋だろ!」

 

 ばちり。

 先程まで弱弱しかった筈の幹夫の目が、またしても音を立てて俺を捉える。その目のせいで、直視せざるを得ない。分からない、不可思議な他人の感情や気持ちを。

 理解できないものを理解したいと、俺は生まれて初めて思った。

 

「なんでって、そりゃあ、あのベットに3人は無理だろ」

「っ……なんで……そんな当たり前に俺が数に入ってんだよ。最初の日からずっとそうだ。ごはんも当たり前に俺が入ってたし……なんで」

「何言ってるんだよ、幹夫。逆じゃないか。俺の方がお前達の仲に入る余地がないんだろ?」

「……もう、あっきーはバカだよ。大馬鹿だ。なんでもかんでも受け入れ過ぎだ」

 

 そこから幹夫は本当に辛そうな顔で俺の事をとにかくバカだとのたまった。しかし、どうしてか俺は自身を罵声されているような気には一切なれなかった。

 多分、言っている幹夫が一番辛そうだからだ。

 理解したいと思っても、俺には全く理解できない幹夫のその表情と言動に、もう俺は諦める事にした。

 

 俺には幹夫の気持ちは分からない。

 もう、分かろうと思ったところで、やはり結果は変わらなかった。

 

「はいはい、俺はバカだよ。幹夫、いいから、カフェラテ飲めよ」

 

 俺が幹夫の肩を叩きながら、台の上に置いていたカフェラテを幹夫に差し出すと、膝を抱えた幹夫はぼんやりとカフェラテを握りながら、小さな声で呟いた。

 

 

「あっきー、あっきーは……俺の事嫌いか?」

 

 

 ここにきて、俺はようやく幹夫の決定的な異変に気が付いた。

 

「嫌いなわけねぇだろ。つーか幹夫お前……まさか」

 

 俺はぼんやりと視点がハッキリしない幹夫の額に、ゆっくりと手を当ててみると、案の定幹夫の額は焼けるように熱かった。

 どうやら、幹夫は見事に明彦の熱を貰ってきてしまったらしい。もしかすると、今朝から既に具合が悪かったのかもしれない。

 俺は幹夫の額から手を離すと、急いで幹夫をソファに横にさせた。

 

「な?なに、あっきー?」

「お前、明彦に風邪うつされてるぞ。ほら、布団持ってきてやるから寝てろ」

「ちょっと!俺がここで寝たらあっきーは……」

「ほら、病人は黙って寝てろ!ほらよっと」

 

 俺は明彦の寝ている寝室にそっと入ると、クローゼットから余っている毛布を取り出して急いで幹夫にかけてやった。膝を抱えていたのは、きっと寒気がしていたからだろう。そうでなければ、自身の童顔を気にしている幹夫があのようなポーズを取るはずがない。

 

「ごめんな、全然気づいてやれなくて」

「……あっきーは、ばかだ」

「まだいうか」

 

 俺は辛そうな表情で未だにそう言ってくる幹夫に、少しだけ笑ってしまった。弱っていてもやはり幹夫は幹夫だったのだ。理解できないと思っていた幹夫は、熱があったせいでおかしくなっていただけだったのだ。

 少し、安心した。

 やはり、幹夫は俺の事はどちらかと言えば嫌いなのだ。

 それが、俺の知る幹夫という少年だ。

 

「ほら、お前ももともと疲れがたまってたんだよ。明日は学校休め」

「俺は、だいじょうぶだ」

「大丈夫じゃないだろうが、お前受験生だぞ?早く治せ。明日はお前と明彦の好きなもの作ってやるから………寝ろよ」

 

 そう言って布団の上からあやすように、幹夫の体を叩いてやると幹夫は途端に目に涙をため始めた。

 しかも、先程までそうでもなかったのに、徐々に顔が赤くなり始めている。

 あぁ、これは今夜あたり熱が上がるだろうな。

 

「あっきーはバカだ。バカだよ。なんで、こんなに…」

「はいはい、俺はバカですよ。ほらほら、泣くな。大丈夫だから」

「ごめんなさい」

「よしよし」

 

 

 真っ赤な顔で子供のように泣く幹夫をあやしながら、俺はひとまず明日のメシは何を作ろうかなぁと、思考を飛ばした。

 幹夫の泣きながら放たれる謝罪も、ばかという力ない罵声も、熱にうかされた病人の戯言に過ぎないのだから。