11.喧嘩な関係

 

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 見上げたそこには、少し懐かしいシミのついた天井があった。

 元々は毎日のように見ていた天井で、そのうち、それは幼馴染の肩越しに見るようになった。そして、最近ではまったく見ることはなくなっていた、あの、天井。

 

 現在、俺の身に予想外の事態が発生している。

 俺の元恋人で、幼馴染の男。

 

 そう、明彦にベットに押し倒されているのだ。

 

「明彦、お前まだ熱があるんじゃないか?」

「んー?なんでー?もうピンピンしてるよー」

 

 しかも、押し倒されているだけじゃない。

 いざ、本番の火蓋が切って落とされる直前というところだ。

 俺の服は下だけ完全に脱がされ、明彦も同じような恰好だった。

 確かに、セックスで用があるのは下半身だけだから、上は着ていても問題ない。

 

 どうしてこうなった。

 

 久々な割に作業的な一連の行為に、よもや思考など鼻から捨てていた。

 

「なぁ、わかっているのか。俺は幹夫じゃないぞ」

「んー、知ってるよー。あっきーはあっきーでしょー」

 

 なんでそんなわかりきった事を聞くの?といった様子で、明彦はきょとんとした顔をする。俺も他人の気持ちには相当無頓着な方だとは思っていたが、明彦も大概だ。

 

 明彦は幹夫の事が好きなのではなかったのか。

 それなのに、何故こんな事になった。

 幼い頃から傍に居たが故に、俺は明彦の事なら他の人間よりも想像できる部分が多いと思っていたのだが、それは完璧な検討違いだったようだ。

 

 いくら長い時間を共にしてきても、他人の事は分からない。

 当たり前の事だったのに。

 

「わからない」

「んー?なにがー?」

「お前がだよ……」

 

 明彦はベッド脇の棚から器用にローションを取り出すと、中身を自身の手のひらに出した。その手は何をためらう事なく、俺の後ろに触れてくる。

 

 多分、俺はこのまま明彦に抱かれるのだろう。

 

 あの日、初めて明彦に抱かれた時と、状況や感覚はとてもよく似通っている。

 明彦のその手は、非常に申し分ないくらいに手慣れており、苦痛などはなく、むしろ久々なのにも関わらず、背筋に電気が走るような快感をすぐに与えてきた。

 

 本当に、あの日のようだ。

 きっと、気付いたら全て終わっているに違いない。

 

 ただ、あの日とは決定的に違うところがある。

 

「幹夫はもうすぐ此処に帰ってくるぞ」

「うん、そうだねー」

 

 そう、今の明彦には幹夫が居るのだ。

 心から明彦の愛を受け止めてくれる存在。

 

 そして、その存在はもうじきここに帰ってくる。

 

 あの日、明彦に風邪をうつされた幹夫を、俺は無理やり病院へ連れていった。それもそうだ、幹夫の熱は明彦のそれとは比べ物にならない程高く、もしかしたらインフルエンザでは?と肝を冷やしたものであった。

 ただ、幸いな事に結果は陰性で、俺はその結果を聞くと、幹夫をタクシーに乗せそのまま自宅へと強制的に送り返した。

 

 この狭いアパートでは、どうしても寝床も看病する為の様々な物も足りていないからだ。

 

 最初は泣いて嫌がる幹夫だったが、熱が下がったらまたいつでも帰ってきて良いと宥めすかしてやっとの事で了承させたのだ。

 

 きっと、どうしても明彦と離れたくなかったのだろう。

 それほどまでに、幹夫は明彦の事が好きなのだ。

 

 そしてそれは明彦とて同じである筈だ。

 

「幹夫が好きなのに、なんで俺にこんなことをするんだ?」

「ミキが好きだからあっきーにこんな事するの!」

「……わからん」

 

 丁寧に、丁寧に触れられる俺の体。

 本当は快楽がすぐそこまで押し寄せてきていて、俺はすぐにでも思考を遠くに放り投げたくて仕方がなかった。どうせ考えてもわからない他人の事に頭を悩ますよりは、コレはコレと割り切って、気持ちよさに身を委ねた方が楽だからだ。

 

 きっと、今までの俺であれば理解できない事は、そのまま放置しすんなり抱かれていたことだろう。しかし、今回は少しだけ気になった。

 

 こんな事をしていては、幹夫は絶対に傷つくからだ。

 それは他人の気持ちに鈍感な俺ですら分かる、当たり前の予想できる感情なのに。

 それを明彦が分からないわけないのに。

 

 なのに、どうしてだ。

 

「俺はさー、ミキが好きなんだよね。本当にめちゃくちゃ好きなの」

「そうだな」

「なのに、最近ミキったらあっきーとばっかり楽しそうにしてたから」

「は」

「だから、ヤキモチやかせたいんだよねー!」

 

 耳に飛び込んできた、いたずらっ子のような明彦のセリフに俺は快楽から勃ちはじめていた自身が一気に萎えるのを感じた。

 

 それと同時に幹夫の口からよく出ていた『嫉妬?』という言葉が、なぜか今更ながらにリフレインした。

 

 少しだけ、幹夫の存在が懐かしかった。

 

「え!?何萎えてんの!?あっきー!」

 

 心底、驚愕している明彦の表情に、俺の中に押してきていた快楽の波が完全に引いていく。それはまるで、海辺で潮がみるみるうちに引くように。ただ、海と異なるのは、そこには余韻すら残っていないという事だろうか。

 

「いやいや、待て。お前はそれを本気で言っているのか?ヤキモチを焼かせたいから?本気でそれだけの為に?」

「うん!ミキには俺だけ見ててほしいからね!」

 

 俺はやっと理解した。

 俺が理解していると感じていた明彦への理解は、まったく明彦の本質には触れられていなかったのだ。

 

 それはそうだろう。

 俺は、何かしてあげた時に見せてくれる明彦の笑顔に心地よさを覚えていただけ。

 明彦の事を理解したいとも、しようとも思っていなかった、ただ長年傍に居ただけの俺では太刀打ちできよう筈もない。

 

「そんな理由で……」

「あっきー?」

 

 明彦は恵まれた容姿の中、他者からの注目を浴びながら生きてきた。

 ただ、愛する相手が大多数とは違っていた為、愛したいのに愛する機会を得る事ができなかった。

 

 だから愛する事に慣れていない、下手くそなんだ、と。

 

 俺の頭の中には、いつだって泣きじゃくる明彦の幼い姿が居る。

 小さくて、誰からも理解されなくて、俺を無心に頼ってくれる、可愛い弟のような存在。

 

 愛したいのに、上手く愛せない。

 可愛そうな男の子。

 俺が守ってやらないと。

 

 そう思っていた。

 けれど、それは大きな間違いだった。

 

 俺は少しずつふつふつと湧き上がってくる、あまり経験のない感情に、押し倒された格好のまま拳を握りしめた。

 もう、目の前に居るのは泣きじゃくる小さな子供ではない。

 こんなにも体だけが、大きくなってしまった。

 心を"あの日"に置いたまま。

 

「明彦、お前。自分しか見えてないヤツだったんだな」

「え?」

「お前はわがままだ。自己中心的だ。なんで自分しか見てほしいといいながら、お前こそ相手の事を全くみないじゃないか」

「な、なんだよ……あっきー、怒ってるの?」

「お前は肝心の相手を見てないから、ヘタクソなんだよ」

「は?は?下手ってなに?そんなわけないじゃん」

 

 俺は明彦から押し倒されたまま、明彦は俺を押し倒したまま。

 少しずつ空気はおかしなものになっていく。

 

 明彦が言うように俺は今怒っているのだろうか。

 いや、そんな筈はない。

 俺は怒ったりしない。

 誰の気持ちにも寄り添えないのだから。

 

 俺は他人の気持ちが分からない、冷たいヤツだ。

 

 ただ、俺は初めて今ここで明彦の言う事に頷いてはいけないと、心の底から思った。

 

 あぁ、よかった。

 あのまま流されずに思考を諦めないで。

 未だに明彦の事は理解できなが、理解しようとも思っていないが。

 

 ここで俺が思考を手放したら、受け流して受け入れてしまったら。

 

 明彦はこのままでは、いつか一人になってしまう。

 幹夫はこのままでは、明彦に傷つけられてしまう。

 

「俺はヘタクソじゃない」

「は」

「俺はセックスが上手いんだ!」

「はぁ!?」

 

 どうやら、俺の論点と明彦の論点は、いつの間にか真向から交差し交わる事のないところまでズレてしまっていたようで。明彦は俺を押し倒す力を強めると、俺の気持ちなどおかまいなしに、またしても指を後ろに突っ込んできた。

 

「明彦、やめろ!俺もお前も、どうしてこうなったんだ!」

「あっきーうるさい!俺はヘタクソなんかじゃない!」

 

 俺達は必死だった。

 喧嘩など、お互い今まで一度だってした事がなかったから。

 

 だから気づかなかった。

 

 

「ねぇ、何してるの?」

 

 

 幹夫がいつの間にか玄関を通り越して、この、寝室まで入ってきていたことに。

 

「ミキ!」

 

 最初に反応したのは明彦だった。

 先程まで、俺を睨みつけていた表情が一切消えた。そして、次に浮かんだのは、信じられない事に満面の笑みだった。

 

「おかえり!待ってたんだよ!」

 

 どうしてこの状況を見られてこんなにも笑顔になれるのか。

 そういえば、先ほど明彦は言っていた。

 

 幹夫にヤキモチを焼かせたい、と。だから、この行為は明彦にとっては心の底から裏切りでもなんでもない、純粋に幹夫が好きだからこその行為。

 

 だから、見られても何とも思わないのだろう。

 どこまでいっても、自身の視点しかない。

 

「このやろう……」

 

 俺は未だにフツフツとした感情が収まらぬまま、俺の上から飛びのいて幹夫の元にかけていった明彦の背を追うように体を起こした。

 好き勝手触られてローションでドロドロの尻が気持ち悪い。

 

 ばちり。

 

 音がした気がした。

 これは、もう幹夫の目力の賜物。幹夫と目が合った時、俺の中にだけ響く音。

 

「っ」

 

 ただ、その時合った目は、初めて出会った時の幹夫が俺を見ていた時のソレとは比べ物にならない程、冷たいものだった。

 

「…………」

 

 無理やり此処から出しておいて。

 いつでも帰ってこいと言っておいて。

 

 そして、やっと帰ってきた場所で見たその光景が先ほどのものだとしたら、幹夫はどう思うだろうか。

他人の気持ちが分からない俺にだって、予想くらいはできる。

 

「出ていけよ」

「…………」

 

 俺に裏切られたと、そう、思うだろう。

 冷たい目で、けれども、どこか泣き出しそうなその顔。

 声は僅かながら震えを帯びていた。

 

「お前なんか嫌いだ。気持ち悪い、出ていけ」

 

 幹夫のその絞り出されるような、その言葉に、俺は先ほどまで明彦に対して募っていた謎の感情がしぼんでいくのを感じると、もう、ただただ苦しくなった。

 

 当の明彦はというと、幹夫に嫉妬されたいという当初の目標が叶ったからだろうか。

 

 それはもう表情を隠せない程嬉しそうだった。

 あぁ、俺は、今どんな顔をしたらいいのだろう。

 

 「……」

 

 なんだか体から力が抜けるような感覚に陥ると、ベッドの上に脱ぎ散らかされている自分の下着とパンツをひっつかんだ。

 

 ここは早く出た方が良いだろう。

 今はきっと何を話しても、きっと幹夫には伝わらない。

 

 入口に立つ幹夫の隣を通り過ぎる瞬間、幹夫が手にビニール袋を持っているのに気がついた。

 そういえば、帰ってくると幹夫から連絡がきたときに、俺が頼んでおいたのだ。

 

 はちみつを買ってきてくれないか、と。

 

 治った記念にハニーカフェラテを作るか3人で飲もうと、そう言っていたのだ。

 

「ごめんな」

「っ」

 

 隣を通り過ぎざまに言えたのは、それだけだった。それが精一杯だった。

 後ろ手に寝室の戸を閉め、俺は深く溜息をついた。

 ともかく尻が気持ち悪いので風呂に行こう。

 

 そう、俺がリビングを通り過ぎて風呂に向かおうとした時だった。

 

「あ!」

 

 俺は微かに視界に映ってきたカレンダーに一瞬にして目を奪われた。

 

「……そういや、今夜からゼミ合宿じゃん」

 

 昨日の夜まではしっかり覚えていた筈だったのに、色々ありすぎてすっかり忘れていた。

 これはカレンダーを見なかったら、絶対行くのを忘れて友人からの連絡で冷や汗をかくとろこだった。

 

 セーフと言えばセーフだが、もうこの際だから思い出したくなかった。

 今は皆と仲良く合宿と言う名の楽しい大学生活の1ページを彩る気にはどうしてもなれなかった。

 

 しかも、金銭面の問題が多大に、出発が夜中で移動は夜行バスときた。

 そこまでして合宿をする必要がどこにあるのだろうか。

 

「でも、これ行かないと単位が……」

 

 俺は必修科目であるゼミの単位と、今の疲れを天秤にかけると、すぐさま単位の方が重要だと結果をはじき出した。

 

 だってそうだろう、前回色々とあり先生の温情で2回目の発表の機会をもらった俺だったのだが、結構本気で取り組んだソレも評価はCだった。

 ギリギリ1回目と比べて-が取れただけの結果しか残せなかった俺に、先生企画のゼミ合宿をサボるなんて選択など取れよう筈もない。

 

 そう、背に腹は代えられない。

 疲れと気分は、どう頑張っても単位には代えられないのだ。

 

「ひとまず、今から風呂入って準備、だな」

 

 まぁ、唯一の救いは合宿先が別府だという事だ。

 温泉たくさんあるだろうし、ゆっくりしてこよう。

 

 幹夫も、しばらく俺の顔は見たくないだろうし。

 俺に関して言えば、珍しく明彦の顔を見たくない気分だった。

 もし合宿がなく、普通に数時間後に顔を合わせていたら、生まれて初めて拳が出ていたかもしれない。

 

 そうか、やはりこれが喧嘩というものか。

 

 俺はそそくさと旅行の準備に取り掛かると、部屋から聞こえてくる、何故かいつもより激しい嬌声に、小さくため息をついた。