34:おふろそうじ

 

 

 おふろそうじ?

 

 そういえば、先程からこのメスは“せんとう”とか“おふろ”とか言っている。

 俺は一体これから何をするのだろう。

 猫の手はどこに必要なのだろう。

 俺は今、人間の手だが大丈夫なのだろうか。

 

「今からニート君にはお風呂掃除をしてもらいます。ニート君の国では銭湯なんて無いだろうから、簡単に説明するわね。ここは味坂銭湯。50年前からずーっとある、地元のお風呂屋さんよ」

「味坂銭湯?お風呂屋さん?」

「そうそう。外国じゃシャワーで体を洗って流すだけでしょうけど、日本ではね、体を洗って、髪を洗って、体を綺麗にして、あったかいお湯に浸かる習慣があるの」

「体を洗ってお湯に浸かる?」

「そうよ。特にこの辺はね、三国ケ丘大学も近いし、学生も多いから風呂ナシのアパートも……まぁ少なくはないわけ。それに、昔は一家に一つのお風呂なんてなかった時代もあったから、お年寄りのお客さんも多い。もちろん若い人も多いわよ。みんなで、大きなお風呂で体を洗ってゆったり浸かって疲れを取る!それが銭湯よ」

「みんなで入る……ゆったり浸かって疲れをとる。それが、銭湯」

 

 “お風呂”はなんとなく聞いた事があった。

 

 人間は俺達猫と違って体のよごれを舐めて落としたりしない。

 人間は水浴びをする事で汚れを落とすのだ。

 

 どうやら、ここは人間が集まって体を綺麗にする為の水浴び場らしい。

 

「で、ここが脱衣所。服を脱ぐところよ。脱いだ服はそこらへんに籠があるでしょう?それに入れて、体を洗う為のタオルを一枚持って、さぁ、お風呂へ!見た方が早いからこっちいらっしゃい!」

「は、はい!」

 

 俺はまたしても体が俺なんかよりも小さい筈の女に腕を引っ張られて、だついじょの奥にある扉まで歩いた。

 

 少しだけ胸のドキドキが大きくなる。

 別に走ってるわけでもないのに、とてもドキドキする。

 きっと尻尾があったらピーンと立ってることだろう。

 

 俺はきっと今楽しい気持ちなのだ。

 にこにこだ。

 

「はい、ここがお風呂です!」

「っう、わー!」

 

 ガラガラと横に開かれた扉の先には、俺が今まで見た事もない光景が広がっていた。

 驚いた俺の声が、ぼおおんと変な感じに響き渡る。

 

「すごい……!すごいなぁ!」

 

 まず俺の目に飛び込んできたのは、一番奥の壁に書かれた大きな山の絵だった。

 

 上が白で、下が青色の山。

 どーんと音が聞こえてきそうな、その大きな山の下には大きな四角い窪みがある。

 

 そして、手前にはたくさんの四角い椅子のようなものと、壁にくっついているピカピカに光るもの、そしてその脇には長い太い紐のような先に備え付けられた変な形のもが壁に引っかけられている。

 それらが、俺達の立つ方から奥に向かってずら―っと並んでいるのである。

 

 生まれて初めて見た、これが人間の水浴び場。

 これが、銭湯。

 

「すごいでしょ?これぞまさしく日本の銭湯よ!」

 

 そう、メスは驚く俺の隣で得意気に笑ってみせる。

 俺は初めて見る光景と、何をどう使うのかという好奇心で思わず入口からピョンと跳ねて中に駆けだそうとした。

が。

 

「ったい!」

「浴場は滑るから走らない!若くったって腰打ったら下手すると立てなくなるわよ!」

 

 俺は突然横から飛び出してきたメスの平手に頭の後を叩かれた。

 

 どうやらお風呂の中では走ってはいけないらしい。

 確かにもう転ぶのは嫌なので、俺は「はい!」と返事をすると、そっと一歩お風呂場の中に足を踏み入れた。

 

 足の裏がヒヤリとする。

 確かに地面が少し濡れている。

 このツルツルの人間の足では、確かに走ったらすぐに転がってしまいそうだ。

 

 ひたひたひた。

 一歩ずつ前へ進む。

 

 初めてみる珍しいものばかり。

 毛がぶわっと逆立つようだ。

 俺がちょうど大きな絵の前の窪みまできたところで、突然あのキンキンのメスの声が響き渡った。

 

「そろそろ本題に入るわよ!」

 

 ぶぉぉんという変な響き方と共に俺の耳をくすぐる。

 俺は急いで「はい!」と振り返ると、そこには先程まで笑っていたメスの顔ではなく、きりっとした顔のメスが立っていた。

 

「ニート君にしてほしいのはこのお風呂のお掃除!綺麗にしてもらう事!今日バイトで入る予定だった学生が急に来れなくなっちゃったからキミが代打です。猫の手貸します、なんて初めて聞いた自己PRだったけど、私は嫌いじゃなかったわよ!」

「はい!」

「そんなに難しい事じゃないけど、掃除は心をこめてしっかりと!けど、サクサク素早くも忘れずに!やり方は私が今からざっと説明するから一回で覚えて!」

「はい!」

 

 そこまでキンキンのメスは俺にまくしたてるように言うと、獲物を前にした猫のような目で俺の顔を見て来た。

 

 そんなキンキンのメスの目に俺はブルリと体を震わせた。

 毛がぶわっと立つような感覚。

 

「しっかりお仕事してもらいます!キミは猫の手なんだからね!」

「っは、はい!」

 

 俺は思わず背筋を伸ばして大きな声で返事をした。

 人間の手だけど、俺はこれから猫の手で。

 

 

 そして、俺は生まれて初めての、おしごとをする事になったようです。