322:人生の手綱

 

 

「へぇ、意外だね。君はもう権力には飽き飽きしているのかと思ったけれど」

「あぁ。飽き飽きしていたさ。権力に手綱を引かれる人生にはな」

 

 ベストはピンと背筋を伸ばし、ヴァイスに対して一歩も引くことなく言葉を紡ぎ出す。眉間に皺はない。自分の意思で未来を選び取った人間は、襲ってくる荒波にのまれ、生きたまま死ぬ事はないのだ。

 

 足掻いて、もがいて、死んでなるものかと、苦しくても生き続ける事が出来る。

 まぁ、それを不幸だと言う人も居るだろう。けれど、そんなのはたくさんの選択肢に囲まれて、自分の未来を選び取って生きて来た人間の贅沢な不幸でしかない。

 

 自分の意思で選び取れる未来がある事は、それだけでもう“幸福”なのだ。

 

「俺は今度こそ、権力も、金も、俺自身に対しても、完全に手綱を握ってみせる。もう、俺の人生で勝手はさせない。選びたくても選べなかったなんて、そんな言い訳を自分以外のモノになすりつけて気持ちの良い不幸で自分を慰めたりしない。俺の人生は俺のモノだ。だからこそ、選択も責任も、それに伴う苦痛も、全部俺のモノだ。俺はもう、俺のしたいようにするし、それを邪魔する奴は、教会だろうと国家権力であろうと絶対に許さない」

 

 ベストは一気に言い終えると、慣れないお喋りに喉が渇いたのか、目の前のルビー飲料に手を伸ばし、一気にその中身を飲み干した。

 おぉ、いい飲みっぷりである。

 

「もう、誰にも俺の大切なモノを、家族を、バカにはさせない。あんな屈辱は、もうたくさんだ」

 

 そう言って、ルビー飲料を飲み干し、空になったグラスを勢いよくテーブルに叩きつけるベストの目は、そりゃあもうゴロゴロと雷鳴が轟いていた。

 

「……絶対に、アイツらは全員許さん」

「ベスト」

 

 あんな屈辱とか、アイツら、というのがベストの中で一体何で、誰を指すのかは分からない。あの役所での出来事なのか、それとも学窓で子供達三人に言われた事なのか。

 まぁ、思い返せばベストの前で、俺達は何度「マナ無し」と他人からバカにされたかしれないので、本当にどれの事だか分からない。けれど、その隣でベストがこんなにも腹を立てていたなんて知りもしなかった。

 

 なにせ、ベストはいつだって俺達の隣で静かに相手を見つめていただけだったから。

 

「あ」

 

 そう、静かに見ていた。

 その瞬間、俺はベストが学窓で三人の子供達相手に初めて声を上げた時の事を思い出した。

 

——-お前らの顔はもう覚えた。逃げても無駄だぞ。

 

「そっか」

 

 ベストは相手をずっと静かに見つめていた。ソレは全て、絶対にその相手を忘れてなるものかという、そんな強い意思の表れだったのか。ベストはずっと、バカにされる俺達の隣で、彼なりに腹を立ててくれていた。

 

 いやはや、俺は父親なのに、ベストのそんな気持ちにも気付いてやれていなかったとは。

 

「ふふ、俺達はあんなの別に気にしちゃいないよ」

「いやだ。俺はあんな事を周囲に言われても、気にせずに生きなければならなかったこの世界を絶対に許さない」

 

 ベストに俺達の事は気にせず未来を選べとは言ったが、まぁ、それはさすがに無理だったようだ。

 そりゃあそうか。親の影響を全く受けずに育つ子供なんて、そうは居ないだろう。

 そして嬉しい事に、ベストにとってはプラスだけでなく、俺も家族だと思ってくれているらしい。

 

「良かった、良かった。君のその賢明な選択のお陰で、僕とアウトが拳を交える必要は無くなったよ。一時はどうなる事かと思ったね」

「拳、ねぇ」

 

 そうニコニコと笑うヴァイスの姿に、俺はなんだかヴァイスの本質を少しだけ垣間見た気がした。

 

「ヴァイスってさ」

「ん?」

 

ヴァイスは一見、その出で立ちや言動から、傍から見ると大いに自由人のように見えるが、実際はそうではない。

 

 

——-階級上、僕はキミよりも大いに立場が上である事を忘れないでおくれよ。

——-必ず神官学窓への編入が義務付けられているんだ。

———つまり、彼に選択肢は無いんだよ。

 

 

 ヴァイスは、規律と組織の中に生きる人だ。

 

「……ヴァイスって、実は完全に組織人だよね」

「へぇ。面白い事を言うね。僕ほど自由を愛している人間は居ないと思うんだけどなぁ」

「それって、自分が自由から遠い場所にあるから憧れているだけで、ヴァイス自身は全然そうじゃないじゃん。それに、教会のことも大好きだし」

「大好き……ってのは語弊があるけど、まぁ、嫌いじゃないよ」

 

 ヴァイスは一瞬驚いたように俺の方を見ると、スルリと俺の視線からその深い緑色の目を逸らした。あぁ、これは物凄くヴァイスらしくない姿を見てしまった。

 どうやら、ヴァイスは照れているようだ。

 

「大好きなら大好きって言えばいいじゃん」

「……違うよ。まぁ、強いていうなら、この組織は僕が作った僕の子供みたいなものだからね。記憶の継承をする度に、こうして変化しつつも存続し、成長している姿を、僕は嬉しく思っているのさ。今更アウトに消されちゃうのは惜しいってだけ」

「だから、それが大好きって事でしょ。俺がベストを大好きなのと同じじゃん」

「ちーがーうー」

 

 もう、と口を尖らせつつ、本気で恥ずかしさを感じているのだろう。ヴァイスは決してその顔を朱に染め上げる事はしなかったが、それまで身に纏っていた教会の法衣を瞬く間に消し去った。

 

 今は既に、いつものあの、鳥のような吟遊詩人の格好へと戻っている。

 

「もう、アウトの語彙じゃ、僕のこの複雑怪奇な心模様を表すなんて無理だね。大好きなんて陳腐過ぎるよ!」

「人間の気持ちなんて、自分が勝手に複雑に見せてるだけで、お腹の真ん中にある気持ちはいつだって簡単で陳腐だと思うけどなぁ」

「……アウトの癖に、深い事言うじゃん」

 

 いつだったか、ヴァイスは自分が気まぐれで出した禁書庫がもたらした教会の変革に対して「責任を感じている」なんて軽口を叩いていた。

 あの時はまったくそんな事思っていない癖にと思ったものの、いや、確かにヴァイスはヴァイスなりに、教会の成長に対してずっと責任を持って見守っていたのだ。

 

 そうでなければ、ヴァイスだって転生を繰り返す身でありながら、こうして定期的に禁書庫の発現が記録される事なんてないだろう。

 

「ヴァイスにとって教会は大事な我が子、なんだね」

「まぁ、そうだね……。時々悪さをするから、目が離せない。本当に手のかかる子だよ」

 

 時々悪さをする。

 その言葉を口にした時、ヴァイスは物凄く切なそうな表情を浮かべた。悪さをしても、ヴァイスはコラ!と叱る訳でもなく、ただ存続し、変化を続ける組織を長い間見守ってきた。

 そういう“親心”も、確かに存在するのだろう。

 

「もうこの話は終わり。ともかく、そんな訳だから、僕は君の入教を心から歓迎するよ。べ、ス、ト?」

 

 そう、ヴァイスがテーブルに肘を突きながら得意気な様子でベストの名を呼ぶ。

もしかして、たった今、初めてヴァイスはベストの名を口にしたのではないだろうか。

 そんなヴァイスにベストは完全にその眉間に深い皺を刻んだ。

 

「……俺を教会に入れた事を、心から後悔させてやる。俺はお前の子供を腹から蝕む毒になってやろう」

「そりゃあ楽しみだ。アウトが言うように本当に教会が僕の“我が子”であるなら、ベスト。今からキミも大切な我が子さ。僕が長きに渡る年月と英知を費やして作り上げた我が子が、ベストによってどう変化させられるか。楽しみに見守っているよ?」

「黙れ、畜生ジジイ」

 

 お喋りの苦手なベストが、ヴァイスの減らず口で敵う筈もない。なにせ、ベストには減らすほど、口はないのだから。

 ベストは苦し紛れに、飲み干した筈のグラスの中にある、ジワリと解けた氷の水をカラリと音を立てて無理やり飲み下した。まったく、あれじゃあ足りないだろう。

 

 そろそろ、ウィズにベストとヴァイスの“おかわり”をお願いしないと。

 

 そう、思った時だ。