345:子育てって大変!

 

 

——–さぁ、アウト。器は、広さだけじゃない。深さも、見定めなきゃならないよ。キミのように世界と同じだけ広い器を持つ人も居れば、世界の裏側にまで届きそうな程、深い器を持った人も居る。

 

 キミは、それをどこまで見極められるかな?

 

 

 俺は落っこちながら、耳元で楽しそうに囁くヴァイスの声を聞いた気がした。

 

『ヴァイス?』

 

けれど、俺の傍で共に落っこちていたのはベストだけ。

 

 さては、ヴァイスの奴。俺だけを落っことして、自分は安全な所から俺に“どーき”しているんじゃないだろうか。

 

『っていうか。ここは、どこだ?』

 

 ともかく、居ない人間の事を気にしても仕方がない。俺は、ひとまず泣きわめくベストを抱きかかえながら、落ちても落ちても辿り着かない暗闇の底を目指した。

 

 その途中、目を背けたくなるような記憶の本流に、俺は酷い吐き気を覚えた。

それは本当に、酷い光景だった。

 

『……ヴァイスの、言っていた通りだ』

 

——-マナが少なければ、多いヤツの奴隷として扱われるし、無ければもっと酷い。教会内で自由の無いまま飼い殺されて、強制労働と性欲処理の道具さ。

 

 あんな事は、既にどこの教会も禁止されているとウィズは言っていた。けれど、どうやら西部地方の教会では、少なくともプラスが教会を破壊するまでは、当たり前のように行われていたようだ。

 

『インに、似た子が……』

 

 俺はやっぱり落っこちる腹の底のゾワリとした感覚とは別に、酷い吐き気に襲われた。俺も、下手をするとあぁなっていたかもしれないのだ。俺は、たまたま運が良かっただけだ。生まれた場所もそうだし、それに、俺の傍にはお父さんやアボードが居た。

 

 “アウト”を、選んでくれた人が居たから、俺は今、ここで“生きて”いられる。

 

 俺は落っこちながら、滝のように勢いよく雪崩れ込んでくる記憶の本流にひたすら耐えた。耐えろ、耐えろ、耐えなければ。

 だって、俺にはベストが居る。俺よりもずっと苦しそうな我が子が腕の中に居るのに、感情のまま、取り乱す訳にはいかない。

 

 俺は、ベストのお父さんなのだ。

 お父さんはちょっとくらい苦しくったって泣かない。強いところを見せなくちゃ。

 そう、俺が思った時だ。

 

『……ん?』

 

 俺は視界の片隅で、一瞬だけキラリと光る“何か”を見た気がした。あの光はなんだろう。ただ、物凄く見た事がある気がする。

 そう、よく見る、あれは――。

 

『……あれって、インの懐中時計じゃないか?』

 

 いや、見間違いだろう。フワリと見えたのは一瞬だったし、いや、さすがに。

 

——–マスター!いつになったらベストって子を紹介してくれるの?ここ、小さい子が少ないから会いたいよ!外に居るんでしょ!早く連れて来てよ!それか、俺を外に連れてって!

 

『……』

 

 俺はつい最近、マナの中でインがゴロゴロと駄々をこねていたのを思い出した。でも、いや、さすがに。

 

『まさかね』

『あぁぁぁっ!!やめろーー!うぁあぁっ!!』

『っベスト!?』

 

 俺がベストを抱きかかえながら落ち続けていると、またしてもベストが大声を上げて泣きわめき始めた。しかも、今度のは、ちょっと今までとはその声質が違う。

 なにやら、怒り狂っているようだ。

 

『っどうしたの!?ベスト!』

『するーにっ!ぷらすにっ!さわるなぁぁぁっ!』

 

 そのベストの地鳴りのような叫び声と共に、俺の中に勢いよく雪崩れ込んで来た記憶の本流。その中身に、俺は完全に固まってしまった。

 

『っ!!』

 

 神官をしている筈のプラスが、何故か奴隷服姿で、何やら非常に金持ちそうな男と、とても口にするのは憚られるような事をしていた。それも、何度も、何度も。

 

『う、うわぁ……』

 

 しかも、よく見ればその男。スルーがずっと心の中で呼び続けていた“ヨル”という男ソックリではないか!

 

 ヨル。

 それは、スルーがずっと想っていた相手。

 スルーはヨルを愛していたし、ヨルだってスルーを愛していた。それこそ、二人はヴァイスの書いた【金持ち父さん、貧乏父さん】そのものだった。

 

 そして、その“ヨル”こそが、今、俺の腕の中に居る、

 

『やめぇろぉっ!クソクソクソクソッあぁぁぁぁっ!』

『いだっ!いだだだっ!あっ、暴れないで!ベスト!蹴ったら!そこは蹴ったらいけないところだよ!?大事な所だからねっ!?っいだぁっ!』

 

 ベストなのだ。

 時系列なんてお構いなしに流れてくる、スルーとプラスの記憶。その中で、ベストはマナの中に飛び込んでからずっと、強い後悔と悲しみを爆発させるように大声で泣き続けていた。

 

 けれど、今はどうだ。

 俺は初めて、ベストがここまで我を忘れて怒り狂う姿を見た。いつものあの、スンとした表情のベストはどこへ行ってしまったんだ。最早、懐かしいとさえ思える。

 

 涙を流し続けているものの、今ベストの中にあるのは純然たる“怒り”だ。ベストの瞳孔は開き切っており、雷鳴が絶え間なく轟いている。

 

 そして、一番たまらないのは――。

 

『あばれないでっ!ベスト!足!足をバタバタしない!しないよ!?男の子ならわかるよね!?わかるよねっ!?物凄く!痛い所に当たってるよ!?』

『ふーっ!ふーっ!殺す殺す殺す!!ちぐじょうっ!』

『ぐはっ!』

 

 足をばたつかせて暴れ散らかすベストの小さいながらも凶器と化した足が、俺の大事な大事な部分を蹴ってくる事だ。あとは、拳で俺の胸を殴るのも止めて欲しい。

 

 でも、離せない。だって、俺はベストの“おとうさん”なんだからっ!

 

『っぐす、ウィズぅ。子育って大変だよ……だすけてぇ……いでっ!』

『あぁぁぁぁっ!!』

 

 俺は『ヨル、ヨル』と甘えたような声で、ヨルに似た男に縋りつくプラスの記憶に流されながら、ともかく怒り狂うベストを必死に抱きしめて最深部を目指した。

 そのせいで、ベストの大暴れを宥めすかすのに必死になっていた俺は、先程のキラリと光ったモノの事などすっかり忘れてしまっていた。

 

『ックソォォォォッ!』

『いったぁぁぁぁぁっーー!』

 

 

        〇

 

 

 そして、俺がベストを抱きかかえて地面に降り立った時、最早、俺は心も体も満身創痍だった。きっと、今の俺は、その昔、俺とアボードが二人して熱を出して寝込んだ後の、次の日のお父さんの姿そっくりだろう。

 

 あぁ、お父さん。お父さんって凄いね。

 男の子二人も相手にして、いや。本当に、凄いや。

 

『……どうしたものか』

 

 シクシクと泣き続けるベスト。『良い子、良い子』と言い続け、ベストの頭を撫でてやる満身創痍の俺。

 周囲は真っ暗。見渡しても、どこまで世界が広がり、どこからが行き止まりなのかも分からない。上を見上げても、それは同じだ。

 

『ぅーぅー』

『あぁ、もう。こんなにこすって。目に傷が付いたらどうするの?』

『ぅー』

『ほーら』

 

 俺は、先程までとは異なり、大人しくシクシクと泣き続け、果ては俺のシャツにその顔をこすり付けてくるベストに、疲弊しきっていた心が“きゅん”とするのを感じた。

“きゅん”は胸を打つ時に使う言葉。そう、アバブに教わった。

 

 今、俺は我が子の可愛さに胸を打たれて“きゅん”としたのだ。

 

 プラスにも、見せてやりたいな。

 そう、俺がベストの“おかあさん”でもあるプラスの事を思い出した時だ。

 

 

『可愛い子供の声がする!しかも!その声は男の子の声だな!』

『へ?』

『やぁ、こんな所でどうしたんだ?何か困った事なら、俺に言ってみろ!このスルーは子供を泣き止ませるのが大得意だからな!』

 

 

 自らをスルーと名乗る、とても陽気な男が、俺達の目の前に踊り出たのであった。