344:落っこちた先

 

 

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 街に到着した時、俺の体はボロボロだった。

 食う事も、寝る事もせず駆け抜けた道のりの中、俺はひたすらに自分を殺す方法だけを考え続けていた。

 

 そうでもしなければ、死んだと分かっている相手の元へなど駆ける事など出来ない。

 そんな無意味で、無価値なこと。

 

『…………スルー、どこだ』

 

 ただ、もう居ないと分かってはいても、俺はスルーの影を求めて街の中を駆け回った。

 しかし、その街はもう、あの、俺が居た頃の名残など、一切残してはいなかった。そう、此処へやって来る道中も、街道は補整され、到着するのに二日とかからなかったのだ。

 

 この街には、俺とスルーの居た頃の面影は欠片もない。

 

『スルー、スルー』

 

 けれど、少しでもいい。

 スルーの足跡を見つけたくて、俺は街の中を駆け回った。

 

『……なぁ、どこに居る?』

 

 しかし、その考えは甘かった。

 スルーの死後、あのボロボロだった、アイツの家はすぐに取り壊されてしまっていた。

 元々何もなかったかのように平に均された土地。その場所だけ見ると、まさかこの場所に四人もの家族が身を寄せ合って暮らしていたなんて、信じられない程に、そこは狭かった。

 

 では、あの原っぱはどうだ。

 あの大岩は。

 あの森は。

 あの川は。

 

 そうやって、俺はスルーとの思い出の場所を縋るように歩き回る。けれど、歩き回れば歩き回る程。そんな場所など、そもそも無かったのではと思える程に、俺の記憶と、この場所は乖離してしまっていた。

 

 もう此処はあの日の、あの村ではない。

 立派で、美しく、そして人々が豊かに暮らせる、交通の要所。

 そうなるように、俺が願いを込めて作った場所なのだから。

 

『……無駄だった』

 

 けれど、願いを込めて作ったその場所に、最も幸せになって欲しかった人は、もう居ない。

 

『俺のやってきた事は、何の意味もなかった。スルーが居なければ、こんな発展など……意味がない』

 

 俺は、体を引きずるように歩き続けた。

 ただ一つ、変わっていないであろう、あの場所を目指して。

 

 

——-あぁ、あの家の人の事?知ってるわよ。気味の悪い人だったわ。

——-もう、目も見えてなかったみたいでな。可哀想だが、いつかはこうなるだろうと思っていたよ。

——-あの家の男について?あぁ、夜中もブツブツ何かを言いながら徘徊して女房も子供も怖がってたからな。言っちゃ悪いが、死んでくれて少しホッとしたよ。

 

 

『くそ、くそ、くそ、くそ』

 

 目が見えていない?そんな事、どこにも書いていなかった。

 近所のどいつに尋ねても、お前を“スルー”と言う名である事を知る者は、誰一人として居なかった。

 

 本当に、スルーはずっと一人だったのだ。

 目が見えなくなりながらも、崖に行って身を落とす事もせず、決して自ら死を選んだりはしなかった。

 

 そんなの、スルーらしくない。

 けれど、それは同時に。

 

——-ヨルー!またなー!約束を忘れるなよー!

 

 

 どこまでも、スルーらしかった。

 

 

 その日、俺はやっと自らで選択をした。

 スルーと見た、あの美しい光景の前に、俺はやっと自らの人生の手綱を握ったのだ。

 

 

『スルー、愛しているよ』

 

 

 俺は心のままに呟くと、その身を自由の中へと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 落ちていく、落ちて行く。

 どこまでも、落ちて――。

 

 俺は温かい腕の中で、地面に膝をついて座っていた。

 座って、それはもう、大声で泣き喚いた。

 

『ぁぁぁぁぁっ!』

 

 深い深い、真っ暗なマナの底。ここはあの崖の谷底なんかよりもっと深い。

 俺が落ちて来た場所は、スルーのマナの最深部だった。

 

『っあぁぁぁっ!!』

『ベスト。泣かないでー。にしても、ここはどこだ?ヴァイスは一体どこに行ったんだよ、もう』

『っうぇっ、っひく……ぁぁぁぁあ』

『あぁっ!ほらほら、ベスト。よしよし。良い子だから。ベストは良い子良い子』

 

 スルスルと頭の上に走る、柔らかい感触。

 俺の頭は、その優しい声の“誰か”に撫でられていた。そして、ギュッと強く抱き締められる、温かい感覚もそこへ加わる。

 

 ベスト、と呼ぶその声は、どこまでも優しい。

 けれど、俺はその優しい腕の中にも関わらず、呼吸もままならぬ程の涙の本流に、大いに飲み込まれていた。

 

『いいごじゃないっ!おれなんが!おれなんが!』

 

 俺は、良い子なんかじゃない!クソ野郎だ!畜生以下だ!もう、こんなクソは死んだ方が良い!

 だって、俺のせいで、スルーは、スルーはっ!

 

『しんじまえっ!おれなんが、じんだほうがいいっ!』

 

 死ね死ね死ね。

 そうでなければ、俺は俺を許せない。スルーはやっぱり、ずっと俺を待っていたのだ。俺の手紙に手を引かれ。寂しさと苦しさと辛さの中を。

 

 ずっと、ずっと、ずっと!

 一人ぼっちで!

 

——-ヨルとの約束を守れなかった。

——–ヨルは嘘つきだ。会いたいなんて思ってないくせに。

——–ヨル、これでいいよな。

——–なんで、俺はヨルみたいに上手にできない?

——–ヨル、助けて。

——–ヨル、ヨル、ヨル。会いたい。

 

『ベスト……。そんな事、言わないで。俺、ベストがそんな事言うと、悲しくなるよ』

『おれがっ、ぜんぶ、ぜんぶっ!ぅぅっ』

 

 落ちている間、俺の頭の中には沢山の“アイツ”の記憶が流れこんで来た。ずっと、知りたかったアイツの、スルーの、プラスの、全てを。

 温かくて、楽しくて、辛くて、苦しくて、寂しい。その全てを、俺はこの身に受け止めた。

 

『ぅぅぅぅっ!』

 

 そして、俺の想像していた通り、スルーはもう俺の知っているスルーではなくなっていた。死んで、プラスになったスルーも、それは同じで。

 

 でも、やっぱりどうなってもスルーはスルーだった。プラスになっても、その本質は何も変わっていない。

 不器用で、寂しがり屋で、優しくて、幼い者や弱い者を慈しむ。慈しんだ分だけ、傷を負う中で、不器用なアイツはずっと、人間達の中で不器用に生き続けていた。

 

 そして、辛くなる度に、アイツは心の片隅で“ヨル”の名を呼んでいた。待っても待っても、一度だって会いに来なかった男の名を。

 

『なんでぇっ、おれはっ、あいずの、そばに、いでやらながっだんだ!』

 

 死ね、死ね、死ね、俺なんか死んでしまえ!

 

 そればかりを繰り返す俺に、俺を抱き締めていた温かい腕の人。

 アウトは、とても困ったように、ただひたすら『よしよし』を繰り返した。そうして、呼吸と涙で震える、俺の肩と背中を撫で続けてくれる。

 

『ベスト、よしよし』

『ぅぅぅぅぅっ!』

『……ふう。どうしたものか』

 

 アウトが困っている。

 泣き止まねば。そう、泣いていても何も始まらない。早く泣き止んで、この世界で、スルーを、プラスを見つけ出さねば。

 そう、思うのに。

 

『っふ、うぅ、ぇぇん』

 

 今の俺は、アウトの腕の中に居るからこそ、感情を制御できなかった。走り出した心が止まらない。剥き出しの心が叫び続ける。

 何故だろうか。ここが俺にとって“甘えられる場所”だからだろうか。

 

 こんなクソで、畜生で、死んだ方が良い奴の俺に、この腕は余りにも温かすぎる。抜け出さなければならないのに、俺は更にアウトの服にしがみ付いて、涙をその体にこすりつけた。

 

『ぅーぅー』

『あぁ、もう。こんなにこすって。目に傷が付いたらどうするの?』

『ぅー』

『ほーら』

 

 すると、それまで俺の泣き声と、アウトの宥めすかす声しか響いていなかったこの真っ暗な世界に、俺達とは別の声が響いた。

 

『ん?珍しいな、こんな所で可愛い子の声がするぞ』

 

 俺はその瞬間、泣いていた声をピタリと止めた。

 

『へ?』

 

 俺の頭上では、アウトの戸惑うような声が聞こえてくる。俺はその聞き馴染みのある、けれどとても懐かしい声に、心臓がドクドクと地響きのように鳴り響くのを感じた。

 

 この、声は――。

 

『やぁ、こんな所でどうしたんだ?何か困った事なら、俺に言ってみろ!このスルーは子供を泣き止ませるのが大得意だからな!』

 

 そう言って、自信あり気に胸を張って現れたのは、あの頃となんら変わらない“スルー”の姿だった。