1:こんにちは!赤ちゃん!

 

 

 その日、俺達の職場に天使がやって来た。

 その天使は、全てが小さくて、全てがふわふわで、全てが、全てが、全てが――

 

「っっっっっ!」

 

本当に、可愛かった!

 

 

【ウィズとアウトの赤ちゃんこんにちは!赤ちゃん会議】

 

 

 

「シンスさん久しぶり!ありゃあっ!可愛い子!」

「シンスさんそっくりじゃない!」

「名前は?」

「今、何カ月くらいだっけ?」

「息子もこんな頃があったわぁ!可愛すぎ!」

 

 

 育休中のシンスさんが、赤ちゃんを連れて職場にやって来た。俺達の働く事務室に、シンスさんが現れた瞬間、もう俺達は仕事どころではなくなった。

皆、久しぶりのシンスさんに一気に歓声を上げて、机から立ち上がる。普段なら、さすがに上司の目を気にするところだが、まぁ、今回はその上司も多目に見てくれる雰囲気を、既に醸し出している。

 

 だから、俺も立ち上がる皆に続き、これ幸いとシンスさんへと駆け寄った。

 

 なにせ、シンスさんの腕の中には可愛い可愛い小さな生き物が抱かれていたのだから!

その小さな子は、急に群がってきた俺達大人に目が覚めてしまったのだろう。その閉じていた瞼を、薄く開け、口を大きく開いた。

 

あくびだ!あくびをした!かわいい!

 

「あっ!あっ!赤ちゃんじゃないか!なんてことだ!ほら!早く俺に抱っこさせてくれ!」

「プラスさん、まずはシンスさんに自己紹介しないと。初めて会うでしょう?」

「そうだったな!自己紹介もなく抱っこしようなんて、俺はとんだ無礼者だった!こんにちは、小さな天使!俺はプラスだ!歌が上手だから、抱っこさせてくれたら、素晴らしい子守唄を歌ってあげよう!」

「お願いですから、赤ちゃんだけじゃなくて、少しくらいシンスさんの方も見てあげてください!」

 

 隣で巻き起こるプラスとアバブの喜劇のような会話が、俺の中でスーッと通り抜けていく。プラスの気持ちも分からなくはない。だって、この子はもうその黒い大きな目をパッチリと開けて、俺達大人をクルクルと見つめているのだ。

 そして、次の瞬間――

 

「笑ったあぁっ!」

「笑ったな!」

 

 赤ちゃんが、笑ったのだ。

 もうこの世のありとあらゆるモノの全てが、この笑顔の前には、どうでもよくなってしまう。ふわふわの頬がクイと上がり、目が細められる。もう、可愛すぎて頭がクラクラした。「可愛い」って思い過ぎて「可愛い」って、一体何がどういう事か分からなくなってきた程だ。

 

「ふふっ、こんなに喜んで貰えるなんて思わなかった」

 

 そんな俺達を、シンスさんが赤ちゃんソックリな笑い方で見てくる。最初こそ、急に現れた初対面の男であるプラスに驚いていたようだが、すぐに慣れたようだ。今はもう、その目に“初対面の男”という驚きも警戒心もない。

 

 なんだか、シンスさんから俺達へ向けられるその目は、まるで自分の息子でも見るような温かささえある。

 シンスさん。本当に“お母さん”になったんだなぁ。

 

「かっわいいなぁ!嬉しくて踊りたくなる可愛さだ!」

「俺も!かわいくて、たくさん射出砂で描画したい!」

「いいよ?」

 

 そんな俺達に他の皆も、今や赤ちゃんではなく俺達二人を面白そうに見ているようだった。

 

「いやぁ、気持ちは分かるけど、男二人が本気で赤ちゃんにはしゃいでるのも、また良いわねぇ」

「アウトとプラスも……なんか、なんだっけ?アバブがよく言うヤツ」

「尊い……」

「ソレ!って、また祈ってるし。でも気持ち分かるわ!」

「この世は美しいモノで溢れてます……圧倒的、感謝」

 

 どうして皆、こんな可愛い赤ちゃんが居るのに、俺達なんかを見て祈るのだろう。多分、仕事で疲れておかしくなったのかもしれない。

女の人って、色々大変だから。

 

「ほーら、可愛い可愛い赤ちゃん。俺はプラスだ。よろしくなー!」

「プラス。あんた、抱き方上手いわね」

「思いました!私、赤ちゃんを投げ飛ばしやしなかとヒヤヒヤしてたのに!」

「そんな事しない!赤ちゃんは大切に大切に抱っこするんだ!だって、大切だから!」

 

 そう口にするプラスの赤ちゃんの抱き方は、本当に様になっていた。さすが、前世でインとニアを育て上げただけの事はある。

 

「すごい……!私以外が抱っこすると大泣きするのに」

「きっと、俺をお母さんだと思ってるんだな!よしよし、今日から俺がお母さんだ!」

「それはさすがにおこがまし過ぎます」

 

 すかさず、アバブが調子に乗るプラスを諫めにかかるが、いや、しかし、だ。

先程まで、キョロキョロとしていた赤ちゃんの視線が、ジッとプラスの方を見ていではないか。

 

「いいなぁ。プラス。羨ましいなぁ。俺の方も見て欲しいなぁ」

「俺は世界の赤ちゃんのお母さんだ!」

「プラスさん。また、そんなとんでもない事を言って……」

「プラスばっかりズルい!羨ましい!羨ましい!」

「こんなに、赤ちゃんに対して明け透けに羨ましがる人って初めて見たかもです」

 

 あんまりにもプラスと赤ちゃんが見つめ合っているのが羨まし過ぎて、俺は思わず赤ちゃんの握り締められている手に、ちょんと人差し指で触れてみた。予想通り、焼き立てのパンみたいに柔らかい。

 

「へ?」

 

 すると、どうだろう!赤ちゃんが俺の人差し指をギュッと握り締めてくれたではないか!

 

「……あ、ぁ、」

 

 俺はパクリと小さな掌で食べられてしまった俺の人差し指に、呼吸すらまともに出来ない状態だった。

 一本一本の指もこんなに小さく、爪もちょっぴりしかない。それなのに、その手は俺なんかよりも物凄く温かくて、むしろ熱くて、力いっぱいだった。

 

 そして、何よりギュッと握った拍子に、赤ちゃんが俺の方を見たのだ。黒いクルリとした目が、俺をハッキリと映す。そして、音もなく、けれど世界の全てが開けるような笑顔を、俺に向けてくれた。

 

「っっっっ!」

「アウトが感激してるー」

「あ、あ、ありがとうございます」

「ぶはっ!涙目になりながら感謝してるっ!なんかもう良いわー!」

 

 笑う先輩達の中で、俺は何故だか本当に泣けてきてしまって、ブワッと溢れ出てくる涙を止められなかった。そんな俺につられてか、プラスも赤ちゃんを抱っこしたままブワッと泣いた。

 

 そして、

 

「あぁああぁぁあっ!」

 

 赤ちゃんも泣いた。

 

「あはははっ!三人で泣いてる!訳わかんないっ!」

「ほーら、よしよし。赤ちゃんが可愛すぎて涙がでちゃったわねぇ。アウト、私がよしよししてあげるわー」

「がわい゛いっ」

「プラス、そろそろ赤ちゃんをシンスに返しなさいよ。涙が赤ちゃんにかかってる」

「いやだぁぁ!はなでだくだいっ!」

「まったくもう」

 

 こうして、大騒ぎの中、眠りだした赤ちゃんにシンスさんは「休憩の時に食べてね」と、お菓子の箱を置いて帰って行った。

 けれど、俺とプラスはシンスさんと赤ちゃんが帰った後、ちっとも仕事が手につかなくなってしまった。そのせいで、その後上司に何度も何度もミスを上げ連ね叱られたのだが、その声は俺にもプラスにも、一切響いてこない。

 

 なにせ、あのふわふわの存在が、もう俺達の心を掴んで離さなかったのだ。

 

「赤ちゃん……」

 

 俺が昼休みの昼寝すら忘れて、あの、赤ちゃんに掴まれていた指を眺めていると、それまで黙って木の実をつまんでいたプラスが、勢いよく立ち上がった。

 

「俺は、絶対に赤ちゃんを作る!」

 

 その言葉に、俺は、それまで赤ちゃんの暖かさを思い出しながら眺めていた指をプラスに移す。すると、プラスのその言葉に周囲に居た女性陣が「おぉ」と、昼食の手を止めて歓声を上げた。

 

「プラス、妊活宣言きたわねー!いいわよ!頑張れー!」

「ここ、経験者いっぱいだし、産休も取りやすいからいいわよー」

「アウト!あんた頑張ってあげなさいね!」

 

 そう、人差し指を立てる俺に、先輩の一人が勢いよく背中を叩いて来た。地味に痛い。背中がジンジンする。

ていうか、なんで俺が頑張らなきゃならないんだ。

 

と、そんな事を、俺が思っていると、それまで持参した弁当二つをペロリと平らげたアバブが、またしても俺達に対して心身深く祈りを捧げ始めた。

 

「私に食べられないモノなのありません。Ω×Ωの百合BLも大好物っすよ」

 

 その瞬間、俺の背中を叩いてきた先輩が「あ」と、目を丸くして俺を見た。そして、一言。

 

「アウト。そういや、アンタもΩだったわね」

——-じゃ、無理じゃない。

 

 先輩は心底気の毒そうな目を、俺とプラスを見てくると、そこからは優しい同僚達が、何故だか「同バース婚でも最近子供作れるらしいわよ?」とか「αの精子提供だって普及してきたし」と、様々な代替案らしきモノを提示してくれた。

 

 それを、俺とプラスはポカンとしながら頷きつつ、そうこうしているうちに、その日の昼休みは幕を閉じた。

 そして、その日の帰りプラスはハッキリと意思の固まった目で俺に言ったのだ。

 

「俺は、絶対にベストと赤ちゃんを作るぞ!!アウトもウィズと作って来るといい!」

 

 さも当たり前のように言い放つプラスに、俺は恋人の姿を思い浮かべ、それと同時にシンスさんの連れて来た赤ん坊の笑顔を思い出して、思わず顔を覆った。

 

「……そっか。そっか!」

 

 そうか!俺もあんな風にウィズの赤ちゃんが産めるんだ!

 思い至った瞬間、まだ発情期にはまだほど遠い筈なのに、俺の腹の底がズクリと疼いた気がした。

 

オメガ性で良かったなんて、この時俺は初めて心の底から思ったのだった。