だって、仕方がなかったんだ。
ずっと、ずっと、寂しくて、会いたくて堪らなかった。
『ヨル……』
俺は、もうこの世界に居る筈のない相手の名前を、ソッと呼んだ。
呼び続けた。歌に乗せて!
『ヨルヨルヨルヨール』
——ふふっ。そう、何度も言わずとも聞こえている。
呼んでも返事なんか来ないって分かっていたけれど、お腹の中のヨルに返事をして貰えるだけでも、俺は大分心がよしよしされた。
だから、俺は何かあれば、すぐにヨルの名前を口ずさんだ。
でも、俺だってちゃんと我慢もしたんだ。昼間は神官の仕事があるし、アイツらのせいで全然ヨルを呼ぶ気になんてなれないから。
だから、俺がヨルの名前を呼ぶのは、決まって真夜中に教会を抜け出した夜だけ。
真夜中。
深い深い濃紺の夜空に浮かぶのは、あの頃と変わらない素敵で素晴らしい星と月。あぁ。昼間は汚くて腹の立つ事ばかりだが、夜だけはやっぱり俺に優しい。
まるで、ヨルみたい。
『ヨルー』
それを眺めて、その名を口にすれば、まるで“今”を“あの頃”であるかのように感じる事が出来た。
だから、俺は“スルーの頃”のような、子供達と同じ粗末な奴隷服を着て、裸足で夜の街へと飛び出すんだ。飛び出したら、その時の俺は、もう神官なんて腐った仕事に就く“プラス”ではない。
夜を駆ける俺は、ただの“スルー”だ。
夜を駆け、夜に歌う。
この時だけは、俺の心は――、
『ヨルはどこへいったの、やくそくやぶりとは、もう、あってくれないのー』
星空と歌で自分を慰め、大好きな人の影を追って、また日の光を浴びて絶望する……ただの、滑稽な一人の人間だ。
そう。
その日も、そんないつもと変わらぬ夜の筈だった。
けれど、違った。
『良い声だ』
『っ!!』
声が聞こえて振り返ってみたら、そりゃあもう驚いた。驚き過ぎて、思わず歌の音階を外して変な声が出てしまった程だ。
『その格好……貧民街の売春婦か』
『……ぁ』
『今日はお前を使う。たまには趣向を変えてみるのも良いだろう』
そう、目の前にはヨルが居た。
あの日のままの、ヨルが、ヨルの姿で夜を背負って俺の前に現れたんだ。素敵で、格好良くて、可愛い可愛い俺のヨル。
俺は心臓がドクドクするのを止められないまま、物凄く期待して口を開いた。
『……ヨル?』
そう、俺がそろそろとヨルみたいな男へと近寄って名前を呼んでみると、男はその瞬間、物凄く不愉快そうな表情で俺を見た。
『夜?お前、何を言っている。いくら顔と声がよくとも、頭のおかしな奴は御免だ。やはり田舎はいかんな』
ヨルが、初めて会った時でもしなかったような、まるで汚物でも見るような目で、俺を見てくる。その瞬間、俺は悟った。
『……ちがった』
『は?』
よく聞いてみれば、なんだか声も違う。
ヨルの声は、この男の声よりも少しだけ月明かりが増したような、ほんの少し高い声をしている。この男の声は、ちょうど雲で月が隠れたみたいな、沈み込むような低さ。
全然違う。
それに、ちょっとヨルよりも、一度に放つ言葉の量が多い気がする。
何かを説明する時ならまだしも、ヨルはどちらかと言えば、俺の言葉を待って、伺ってくれていた。
それに、それに!ちょっとヨルよりも早口だ。
ヨルはゆっくり歩くみたいな口調なのに、目の前の男は少しだけ一歩を踏み出すのが早い。そんな、感じ。
ぜんぜん、ちがった。
コイツは“ニセモノ”だ!
『でも、顔はヨルだ』
『……気色の悪い。やはり、趣向を変えてこんな場所になど、来るべきではなかったな。貧しい奴には、まともな人間が居ない』
ごちゃごちゃとニセモノが何かを言っている。聞けば聞くほど、ヨルとは違う声。ヨルとは異なる早さの口調。顔はヨルなのに、変なの。
『戻るか』
『……なぁ』
『……もう俺にお話しかけるな。汚らわしい』
『なぁ』と声を掛けた俺に、ヨルのニセモノは、その目に侮蔑の色を濃くした。こんな目、ヨルから向けられた事なんてない。
本当のヨルではないが、顔だけはソックリそのままのヨル。俺は、背を向けて離れて行くニセモノの後ろ姿に、一度、大きく息を吸った。吸って、長いこと触れていなかった部分が、ジンと熱を持つのを止められなかった。
——-スルーっ、スルーっ。あぁっ、するー。
耳の奥で、熱く蕩けるようなヨルの声が響く。
その声が、その記憶が、俺の頭の中を埋め尽くしていた“寂しい”を、少しだけ埋めた。ジンと体が疼く。
『……よる』
俺は少しだけ踊るような足取りで偽物の前へと飛び出すと、心底怪訝そうな表情でこちらを見てくる、本当に……ヨルそっくりの顔へソッと手を伸ばした。
俺の伸ばされた手に、ニセモノが一瞬だけ身じろぐ。
『おいっ』
『金はいらない……、こんな良い夜だ。きっと良い時間が過ごせる』
『……っ』
俺は頬に伸ばした自身の手を、ニセモノへと触れるか触れないかの位置で止めた。きっと“今”触れたらこの男は怒る。汚らわしいと、まだその目が言っている。
だから、触れない。触れずに、傍に寄せ、ただ視線で触れる。
ニセモノの顔。
けれど、どう見ても“ヨル”の顔をした、男。
その眉、目、鼻、頬、首の筋、喉、そして、唇。
特に、ヨルは首筋に舌を這わせると物凄く喜んでくれた。あとは、口付け。顎の裏を舌で舐められるのも、ヨルは大好きだった。だから、ニセモノだと分かっていても、男の首筋、ゴツゴツとした喉の膨らみ、そして薄く色付く唇を見ると、今にも舐めてしまいたくなる。
『……っはぁ』
あぁ、ヨルヨルヨルヨルヨル。
どこだ、俺は今もお前に会いたくて堪らない。傍に居て欲しくて、抱きしめて欲しくて、助けて……欲しい。
寂しい、寂しい、寂しい、寂しい……寂しい!
『……お、前』
ニセモノが震える唇で、息を吐く。ハァとその呼吸は既に熱を帯びていた。先程までの、嫌悪に満ちた視線が一気に色を含み、雄の狼みたいな目になった。
あぁ、そんな所まで、ヨルにそっくりなんて。顔だけなら本当にヨルだ。
俺はその熱い視線を、相手からの承諾とみなした。
あぁ、そうだ。早く触れろと、その目はハッキリと俺に語りかけてくる。俺ももう限界だ。焦らし過ぎは良くない。
『なぁ』
『……ぅ』
俺は、触れるか触れないかの位置で止めていた指先を、ニセモノの首筋、喉、そして唇へと順番に触れていった。ソッと、そして、今にも離れて行きそうな触れ方で。俺は餌だ。目の前の狼の餌。
このニセモノの狼は、俺の“寂しさ”を喰ってくれる。
『なぁ、一緒に良い夜にしよう?』
『……っ』
『おいで』
はっはっと、短い呼吸を繰り返す雄は、もうここまで来たら目の前にきた獲物を、みすみす逃す事なんて出来ない。雄とは本当に、単純明快な生き物だ。
俺も、ヨルも、
このニセモノも。
『……っ来い!』
『ん』
乱暴に掴まれた腕に、俺は、またしてもガッカリしてしまった。
だって、ヨルは左利きだったのに、この男は右手で俺の腕を掴んだのだ。全然、違う。
『時間がもったいない。さっさと歩け』
『……あぁ』
こうして、俺はヨルにソックリのニセモノに沢山種を蒔いた。そりゃあもう、お互いもう種は出せないって所まで出しきったな。
粗末な売春宿で、全てが終わる頃には真夜中だった夜は終わり、空は白み始めていた。
俺は立て付けの悪い窓の隙間から漏れ出る光に目を細めながら、この男がヨルとは全然違う事を思い出して、本当にがっかりしっぱなしだった。
口付けの仕方、気持ちの良い場所、種を蒔く時の反応、俺への触れ方、呼吸の間の取り方。それに、雄の形も。全部、全部、ぜーんぶ違った!
でも、
『……ヨル』
俺の隣で、光に照らされて眠る姿だけは……どこまでもヨルだった。俺は眠るニセモノに髪の毛に指を通すと、この時だけは隣に眠るのがヨルなんだと、自分に言い聞かせて心の隙間を埋めた。
これが、俺とその男。
“マヨナカ”との最初の出会いだった。
分かったか?ベスト?