これは俺こと、有明 海(ありあけ うみ)と彼との共依存の話しである。
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へいちゃんとぼく(1)
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俺が小学3年生の頃の話である。
都会に住んでいた俺は、小学3年に上がると同時に、山奥のド田舎へと引っ越す事になった。
当時の俺にはよくわからなかったが、大人の事情というやつである。
引っ越し先の小学校はとても小さな分校で、全校生徒50人。
そんな小さな学校だから、そこに通う全員が互いの名前と顔を知っていたし、言ってしまえば皆ご近所さん、みたいなアットホームなところだった。
アットホーム。
別名、排他的とも言うその空間。
身内にはとても温かい環境であったが、余所者にはとても厳しいところだった。
余所から来た俺を、受け入れる雰囲気は皆無だった。
子供だけではなく、それは大人も同様で、先生も近所の人もそれは同じだった。
両親は基本的に仕事で家にはおらず、もとより近所付き合いなどするような両親ではなかったので、その厳しい現実にぶち当たったのは俺だけ。
そんな排他的な空間の中で、元より異分子、いや“厄介者”として扱われている子供がもう一人居た。
筑後 平弥(ちくご へいや)
彼は俺と同じ小学3年生で、片親の男の子だった。
母親は彼が5歳の頃に家を出て行ったらしい。
原因は父親の暴力。
故に、平弥はその頃から体には傷が絶えなかった。
加えて、父親は碌に働かないらしく、平弥は給食費も払えず、風呂も入る事ができない。
衣食住という基本的な部分に大きな欠損を持つ子だった。
そして、そんな彼は父親に似たのか、すぐに手を上げる子供で有名だった。
よく回りの子供から「クセェ、クセェ」とからかわれ、いじめを受けていたようだが、彼は必ず暴力でやり返していた。
そして、勝っていた。
近所の人からも、学校からも疎まれる存在。
故に、平弥は余り学校に来ていなかった。
しかし、そんな事、引っ越してきたばかりの当時の俺は知る由もなく。
転校したての俺は、あまり学校に来ない平弥など見た事もなかった為、その存在自体認識していなかった。
俺は毎日一人だった。
そんな孤独な学校生活の中、俺は平弥と出会った。
その日は遠足だった。
裏山まで全校生徒で歩いて行くという、都会育ちの俺には考えられない程、質素な目的地。
俺は朝起きて、準備されていたコンビニ弁当をリュックの中に詰め込むと、ずっと下を向いて登校した。
行っても楽しくない事は目に見えていたから。
校庭に集まる全校生徒。
その学校の遠足は、出発から到着まで二人で手をつないで山を登ると言う決まりがあった。
上級生が下級生の手をつなぐ。
が、俺は見事その輪から外されていた。
俺と手を繋いでくれる上級生なんて誰も居なかったのだ。
俺は誰からも繋がれる事のない自分の手を見て、なんとも自分が情けなく惨めだと思った。
転校してきて辛い事はたくさんあった。
けれど、俺は一度だって泣かなかった。
泣いても解決しないし、余計惨めになるだけだと、小学生ながらに知っていたからだ。
しかし、この時の俺は、何故かとても泣きたい気分だった。
そんな時だった。
「有明君は筑後君と手を繋ぎなさい」
そう、いつもは俺の事を無視する先生が俺に言った。
筑後君、という初めて聞く名前に俺は顔を上げた。
「……ぁ」
そこには、薄汚れたタンクトップと半ズボンに身を包み、体の至るところに傷をこさえる、一人の男の子が立っていた。
ムスっとした表情で、チラリとも此方を見ようとはしない。ギュッと握りしめられた拳。けれど、その大きくて真っ黒な瞳は、周囲を明らかに警戒しており、手負いの獣のようだった。
それこそが、当時小学3年生の平弥だった。
皆、遠足という事でリュックを背負っているのに、平弥は何も持っていなかった。
周りのクラスメイト達は平弥に向かってクスクスとバカにしたような笑みを浮かべていた。
中には「ほんとにアイツクセェ」と声高に叫んでいる子供も居る。
「……」
けれど、その時の俺には周りの声なんか全然聞こえてなくて、ただ、俺にも手を繋いでくれる相手が居るという事に、とても感動していた。
俺は泣きそうになるのを必死に我慢すると、平弥の、そのきつく握りしめられた拳にそっと触れた。
「っ」
「手、手を……つな、がなきゃ」
すると、それまでムスっとしていた平弥は、とても驚いたような顔をして俺を見た。
俺はその顔に、なんだかとても嬉しくなって「よろしくね」と笑って言った。平弥は答えなかったけど、でも見間違いじゃなければ、小さく頷いてくれたと思う。
確かに、平弥はちょっとだけ、いやけっこう臭かった。
それもそうだろう。
この時の俺は知らないが、平弥の家は水道を止められてしまっていたのだ。だから、平弥はたまに公園の水道で体をすすいでいるだけで、お風呂になんて入っていなかった。
けれど、俺にとっては匂いなんて、汚いことなんて全く気にならなかった。
そんなの風呂に入れば綺麗になる。匂いなんてなくなる。
俺にとっては手を繋いでくれた平弥が、まるで神様に見えた。
俺と平弥は一番後方に並んで山を登った。
時折、クラスメイト達が俺と平弥を見てからかったり、なじったりしていたようだ。
けれど、俺は平弥とポツポツながらも会話を成立させていたので気付かなかった。
平弥はずっと彼らを睨んでいたようだけれども。
「ぼくね、有明 海っていうんだ」
「筑後 平弥」
「へいちゃんって呼んでもいい?」
「かってにすればよか」
平弥、その頃の俺は「へいちゃん」と呼んでいたのだが、へいちゃんの返事はとてもぶっきらぼうで傍から見れば楽しそうになんて見えなかったと思う。
けれど、へいちゃんは俺の手を離さなかったし、少しだけ耳が赤かったし、それになにより俺が話しかければ絶対に返事をしてくれた。
それが俺には嬉しくてたまらなかった。
「へいちゃん、いっぱい怪我してるけど、痛くない?」
「痛くなか」
「ほんとう?ぼくの家、ばんそうこうあるよ」
「ふーん」
「遠足おわったらうちにおいでよ」
「……オレ、クセぇから怒られっぞ」
「だれに怒られるの?」
「お前の親に決まっとるやん」
「おかあさんもおとうさんも仕事でいつも家には居ないよ。へいちゃん、うちにおいでよ」
今思い出せば、俺は凄く強引だったと思う。
初めて会ったばかりの子なのに、俺はへいちゃんを家に呼ぼうと必死だった。
俺は、泣きはしなかったものの、結構堪えていたのだ。
学校でも、家でも一人ぼっちの環境に。
だから、この手をつないでくれたへいちゃんなら家に来てくれるんじゃないかと、俺は藁にもすがる思いだったのだ。
「よかよ」
「ほんと!へいちゃん、ありがとう」
俺は嬉しくて、へいちゃんの手をぎゅっと握った。
そしたら、へいちゃんもぎゅっと握り返してくれた。
へいちゃんの耳は赤かった。
全然楽しみじゃなかった遠足は、俺にとって引っ越してから一番楽しい学校行事だった。
山の上に到着して、俺はリュックの中にあったビニールシートを地面に敷くと、当たり前のようにへいちゃんを隣に呼んだ。
へいちゃんが何も持ってきていないのは知っていたから、俺はリュックから取り出したコンビニ弁当を開けて、開けたフタにへいちゃんの分を取り分けた。
それを、へいちゃんはずっと不思議そうに見てたけど俺が「へいちゃんの分」って言って渡したら、黙って耳を真っ赤にしていた。
もともと、コンビニの大人用のお弁当だったから、量も多くて俺一人じゃ絶対に食べ切れそうもなかったのだ。
だから、へいちゃんが居て本当に助かった。
へいちゃんにお弁当を渡すとへいちゃんはゴクリと唾を呑みこみ、ガツガツと一気にお弁当を食べてしまった。
やはり、その頃の俺は知る由もないのだが、この頃、へいちゃんは家でまともなご飯を食べさせてもらえてなかったのだ。
「……すごいなぁ」
「………」
へいちゃんが余りにもおいしそうに食べるから俺は、嬉しくなって俺の分のお弁当もへいちゃんにあげようとした。へいちゃんは「いらん」って言ったけど、俺が「もうお腹いっぱい」と言ったら、やっぱりガツガツ食べていた。
その遠足で、俺はへいちゃんとたくさん話した。
へいちゃんは余り喋るほうじゃないみたいだけど、俺はへいちゃんとおしゃべりするのが心地よかった。俺もたくさん早く喋れる方じゃないから、こんなにもちゃんと自分の話が、焦らずに出来たのは初めてだったのだ。
へいちゃんも最後の方には笑ってくれるようになっていたから俺はもっと嬉しくなった。
笑うと、へいちゃんの犬歯がチラチラ見える。俺は、強そうなへいちゃんにピッタリだなぁと思ったのを、今でもハッキリと覚えている。
遠足が終わって、へいちゃんを俺の家に呼んだ。
もう夕方だったから「お母さんとかは、大丈夫?」って聞いたら、へいちゃんは気まずそうに「オレの家も親おらんけん」と目を逸らしながら言った。
俺はへいちゃん家も同じなんだと思えて、とても嬉しかった。
俺の家に来たへいちゃんは最初はコソコソしてたけど、途中から慣れてきたのか俺の家で笑いながら一緒にテレビを見た。
そして、少し暗くなってきて俺はやっとへいちゃんを家に呼んだ理由を思い出した。
「へいちゃん、けが痛そうだから、しょうどくしよう?」
そう言ってへいちゃんの体に触ろうとすると、へいちゃんは俺から顔を逸らして「オレ、きたなかけん、触らんほうがよか」なんて言ってきた。
へいちゃんが自分の事を汚いとか臭いというのが、俺はどうしても気に入らず、俺は風呂場へ走って浴槽に湯を溜めた。
「よごれは、洗えばなくなるよ」
「っ」
俺がそう言って手を引っ張ったら、へいちゃんはまた手を繋いだ時みたいに驚いた顔をして、今度は小さく「うん」と頷いてくれた。
その日、俺はへいちゃんと一緒にお風呂に入って、一緒に夜ご飯を食べた。一人ぼっちじゃない時間。
泣きたいくらい幸せな、へいちゃんとの出会いの1日だった。