その日から、俺はへいちゃんとよく喋るようになった。
それまで、学校では空気のように扱われていた俺は“会話”というものに、これほど飢えていたのかと思える程、へいちゃんとのお喋りが楽しくて仕方がなかった。
でも、へいちゃんは毎日学校に来るわけではない。
良くて週に3日くらいしか来ない。
理由は、この時の俺にはわからない。
それでも、遠足の後からは以前と比べて大分へいちゃんは学校に来るようになったらしい。
そう、クラスメイトがへいちゃんが居ない時にコソコソ喋ってるのを聞いた。
できれば、へいちゃんにはできるだけ学校に来て欲しい。
俺が一人で寂しいというのもあるが、俺はへいちゃんと居るのが心地良くて大好きだったのだ。
「へいちゃん、へいちゃん。明日はがっこう来る?」
「……わからん」
「へいちゃんが居ないと、がっこうつまんないや」
学校からの帰り道、俺がへいちゃんにそう言うと、へいちゃんは黙って耳を真っ赤にした。
皆、へいちゃんは臭くて汚くて乱暴で近寄りたくないという。
けれど、へいちゃんだってちゃんとお風呂に入れば汚くないし、臭くないし、それに乱暴なんて嘘だ。
へいちゃんは、あんまり喋らないけど優しい。
俺と居てくれるし、一緒に喋ってくれる。
みんな、俺を無視するけれど、へいちゃんは俺を無視した事なんて一度もなかった。
「そうだ!へいちゃん!今日もうちでごはん食べて行きなよ!一緒にお風呂もはいろ!で、テレビ見る!ね!へいちゃん!」
「うん」
「やったー!今日はね、カレーだよ!れとるとの、あっためるやつ!辛いのと甘いのとちょっと辛いの、へいちゃんどれがいい?」
「辛いと」
「へいちゃん、辛いのかぁ。大人だね。でも、よかった。ぼく、甘いのしか食べれないから」
そうやって、その日も俺はへいちゃんと俺の家に帰って、そして一緒に宿題をしたり、テレビを見たりした。
夜ご飯はレトルトカレー。
この頃の俺は、基本食事と言えばコンビニ弁当か、カップ麺か、レトルト食品だった。そのくらい、親は毎日忙しく、そしてすれ違いの生活が続いていたのだ。
しかし、今になって思えば、あの異常な程の親の無帰宅状態は、夫婦の関係悪化を暗に示していたのかもしれなかった。
しかし、幼かった俺はそんな事全然わかっておらず、こうやってへいちゃんと好き勝手やれるならば、家で一人も悪くない、なんて思うようになっていた。
「海」
「なに、へいちゃん」
「オレが学校おらん時、海はなんしよる」
レトルトカレーを食べながら、珍しくへいちゃんから話しかけてくれた。
俺はそれがうれしくて、はしゃいだように答えた。
「んとね、一人で図書室で本読んだり、一人で学校の中探検したり、一人でおえかきしたりしてる!」
「……オレ以外の友達とかおらんと?」
「へいちゃん以外?」
そう、へいちゃんに言われて俺は、へいちゃんと会う前のずっと一人だった学校生活を思い出した。
へいちゃん以外に友達など、居る筈もない。
友達どころか、誰も俺を認識しようとさえしてくれなかったのだから。
「……っ海!」
「っうええ…っうう」
そう思うと、俺はなんだかとても苦しい気持ちになって、へいちゃんがもし居なくなったら俺はまたあの一人ぼっちの寂しい毎日になるのかと思うと、怖くて涙がこぼれた。
そんな俺に、へいちゃんは驚いたように目を見開くと、カレーを食べるのを止めて俺の隣に座った。
心配そうな顔をして、俺の顔をかがみながら見て来る。
こうやって、へいちゃんが俺に至近距離まで近づいてくれる事はつい最近までなかった事だ。
へいちゃんは他のクラスメイトからは臭いとか汚いと言われれば怒って殴りかかるのに、俺には自分でそう言って余り近寄って来ないのだ。それが俺には寂しくて悲しかったが、最近やっとへいちゃんは俺に近づくのを躊躇わなくなった。
「海?海?どげんした?オレ、なんか悪かこつ言った?ごめん、ごめん」
「ぅぅぅええ、へぇえちゃんっ」
俺は本格的にウエウエと涙が止まらなくなると、へいちゃんは見るからに焦りながら困ったように俺の顔を覗き込む。
へいちゃんが悪い事なんて一つもない。
むしろ、へいちゃんは俺にとって神様なのだ。
そう、俺は伝えたかったが、それはしばらく叶わなかった。
「海、海。ごめん。ごめんな」
情けなく涙を流す俺を、へいちゃんは謝りながらずっと背中をさすってくれた。
へいちゃんの手は、やっぱり暖かくて、それがとても心地よかった。
しばらくして、俺はやっと涙が止まって、まともに話せるようになった。
なんと情けない事だろう。へいちゃんが学校に居なくなった時の一人を想像して、俺は勝手に泣いてしまったのだ。
「ぼくっ、へいちゃん以外ともだちなんか居ない」
「……っ」
「へいちゃん以外、居ない。ぼく、ずっと一人だ。へいちゃん居ないと、ぼく学校さみしい。つまらん。行きたくないっ」
「オレ、ごめん。そんな、つもりやなかった。オレの事、まわりから、なんかいろいろ言われよらんかっち思って」
「知らない。周りなんか知らない。ぼく、へいちゃんしか居ない」
俺がまた泣きそうになりながら言うと、へいちゃんは耳を赤くして、でもどこか嬉しそうな表情で俺を見ていた。
そして、次の瞬間俺はへいちゃんに抱きしめられていた。
「へいちゃん?」
「海、オレ。できるだけ、学校来るけん」
「っ!ほんとう!?へいちゃん、ほんとう?」
「うん」
へいちゃんは月曜日と同じ服を着てて、多分月曜日俺と風呂に入った日から体を洗ってなかったんだろう。
今日は木曜日だから3日前。
へいちゃんはちょっと臭かった。
それに、学校を休んで学校に来るたび、へいちゃんの体にはいろいろな傷が増える。
今も、へいちゃんの首のところに、月曜日にはなかった火傷みたいな傷があった。
へいちゃんが休むと、俺は一人ぼっちで寂しい。
へいちゃんに会えなくて悲しい。
そして、へいちゃんに傷が増えて苦しい。
へいちゃんが居ないと嫌な事ばかりだ。
だから、へいちゃんが学校に来てくれると、それだけで俺は幸せだった。
「へいちゃん、ごはん食べよう」
「うん」
「そして、ごはん食べたらお風呂はいろう」
「うん」
「ぼくね、水ってっぽう練習したんだよ?へいちゃん見てね」
「うん」
そう言ってる間中、へいちゃんは俺から離れなかった。
ごはん食べないとなぁと思ってはいたけど、へいちゃんからこうやって抱きしめられるのは嫌じゃなかったので、俺とへいちゃんはしばらく二人でぎゅーっと抱きしめ会っていた。
その日から、へいちゃんは今までが嘘みたいに、毎日学校に来るようになった。