3:平弥(小学3年生)その1

 

 

これは俺こと筑後 平弥(ちくご へいや)とアイツとの共依存の話である。

 

 

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海とオレ(1)

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俺が5歳の頃の話である。

俺の母親と呼ばれる女は、俺が5歳の誕生日を迎えると同時に家を出て行った。

 

当時の幼い俺にもその原因はよく理解できる。

親父の家庭内暴力というやつである。

 

母親が出て行った後の俺の家庭は、それはもう酷い有様だった。そんな酷い家庭だからこそ、近所の人間達は皆俺の家庭の状況を知っていたし、当時5歳の俺の置かれている状況もよく理解しているようだった。

 

しかし、だからと言ってソイツらが何かしてくれるわけではない。

 

無関心な人々。

別名、赤の他人とも言うその人間達の集団。

彼らは自分達に利のある者達にはとても親身で親切であったが、面倒事を持ちこむ者にはとても薄情な人間達だった。

 

面倒事を抱え込む俺を、助けてくれる手はそこには皆無だった。

大人だけではなく、それは子供も同様で、先生も近所の人もそれは同じだった。

そんな環境の中、俺は父の暴力に耐えながら、明日の食うモノにも困る生活を送っていた。

 

5歳の幼い子供が、よく成長するまで生きてこれたものだと今は感心するばかりだ。

 

そんな厳しい環境の中、俺が小学3年の頃、突然、余所者、いや異分子と呼ばれる子供が俺達の小学校に紛れ込んで来た。

 

有明 海(ありあけ うみ)

 

アイツは俺と同じ小学3年生で、都会からやって来た子供だった。

両親共に共働きであいつはいつも家では一人だった。あの頃は平弥も理解できていないようだったが、既にその頃には夫婦の仲は冷え切っていたようだ。故に、海の両親は共に家庭の外に安楽の地を求めていた。

 

言うなれば、両親共に外に女、もしくは男を作っていたという事だ。

海は俺同様、家族というものに大きな欠損を持つ子供だった。

 

そして、そんな余所者の海は、余所者に厳しいこの排他的な村で一人孤立していた。

当時の俺は、他人と言う者は得てしてやっかい者に関しては無関心を決め込むものだと思っていたので、それが村全体の余所者に対する排他的な風潮であるとは思いもよらなかったが。

 

海はどこに言っても透明人間だった。

悪く言われる事もないが、話題に上がる事もない。

 

無関心。

 

近所の人からも、学校からも認識してもらえない存在。

故に、海はその幼い体で一人、その異様な孤独に震えていた。

 

しかし、そんな事、当時父親の暴力が激しく余り学校に行けていなかった俺が知る由もなく。あまり学校に顔を出さない俺は、転校生である海の事など知らず、その存在自体認識していなかった。

 

俺は生きるために戦っていた。

そんな過酷な日常生活の中、俺は海と出会った。

 

その日は遠足だった。

裏の山まで全校生徒で歩いて行くという、うんざりするほどいつものつまらない行事だった。

 

しかし、その日が遠足など、俺は知りもせず、朝起きて部屋を見れば家には父の姿が見えなかったので、久しぶりに学校に行く事にしたのだ。

 

昨日の父はいつにも増してイライラしていたようで、タバコを腕に押しあてられ、あまつさえコードで首を絞められた。

いくら俺でも、その日はもう駄目かもしれないと思ったが、今日もどうやら俺は無事に生きている。

 

生きてて良かったとは思わない。

生きてたって楽しくない事は今までの人生で理解していたから。

 

学校に到着した俺は、いつもと違う学校の様子に眉をひそめた。

校庭に集まる全校生徒。

ジャージのような服装の教師達。

 

そこで俺はやっと、その日が遠足である事を理解した。

 

やってしまったと思った。

学校に来たのだって、昨日から碌に何も口に入れていない為、給食を目当てに来たのだ。

遠足という事は、給食だってない。

 

昨日からとんだ災難だ。

 

すると、俺の登校に気付いた他のガキが俺に向かっていつものように「べちょきん平弥が遠足だけ来よった!」と大声で叫んできた。

 

べちょきん。

小学校の頃、黴菌とか不潔とか汚いというニュアンスで使われていた悪口。

わかっている。

 

その時の俺の格好は1週間前からずっと同じ洗濯もしていない服を着ているし、風呂が沸かなくなってからまともに体すら洗えていない。

俺は誰からも汚いと罵られる自分の体を見て、なんともカッと体が熱くなるのを感じた。

 

汚いのも臭いもの痛いのも。

お前らに何がわかるというんだ。

生きていたって良い事なんか一つもないのに、俺は生きるのに毎日必死だ。

 

その矛盾が、俺にはその時おれは辛く感じた。

目がしらが少しだけ熱くなる。

 

けれど、俺は泣かなかった。

泣いても解決しないし、余計惨めになるだけだと知っていたからだ。

 

しかし、この時は俺は何故かとても苦しくて仕方がなかった。

 

薄汚れた己の体。

そして、あの父親と同じ血が流れる汚れた遺伝子。

 

「くせぇ、くせぇ!」と叫ぶ周りのガキどもに、俺は思わず拳を握りしめた。殴らなければ、己の尊厳を守るために、俺は暴力をふるわなければ。

 

そんな時だった。

 

「有明君は筑後君と手を繋ぎなさい」

 

そう、いつもは俺の事を邪見に扱う教師の声が聞こえた。

 

有明君、という初めて聞く名前に俺は顔を上げた。

 

そこには、どこか泣きそうな顔をして、頼りなさそうな雰囲気を醸し出す、当時小学3年生の海が居た。皆、俺はべちょきんで汚れていて近寄りたくないというのに、何故か海は俺の方へと躊躇いなく近寄って来た。

 

周りのクラスメイト達は俺に向かってコソコソ何かを言ってはクスクスと笑っていた。中には「ほんとにアイツクセェ」と声高に叫んでいる者も居る。

 

あぁ、やっぱりぶん殴らなければ。

 

そう、俺が再度拳を握りしめた時だった。

俺のきつく握りしめられた手にそっと何か温かいモノが触れた。

 

驚いて顔を上げると、それまで泣きそうな顔をしていた海が、心底嬉しそうな笑顔で俺を見ていた。

 

俺はその笑顔に無性にたまらない気持になって、黙って頷く事しかできなかった。

こんな事初めてで、どうしていいのかわからなかったのだ。

 

海は俺の汚れた手に平気で触れて来る。

きっと匂いだって海にとっては臭かったに違いない。

 

ただ、海は嬉しそうな顔で、心底俺と居て楽しいという顔で、俺に話しかけてくるのだ。それまで、地獄だと思っていたこの世界が、海の笑顔のおかげで少しだけ輝いた気がした。

 

俺にとっては俺に笑いかけてくれた海が、天使に見えた。

 

俺と海は一番後方に並んで山を登った。

時折、クラスメイト達が俺を見てからかったり、なじったりしてきた。

 

やはり、何発かぶん殴ってやらねば気が済まないと、何度も拳を作って飛び出そうとしたが、そのたびに海は何もわかってない様子で、俺に向かって話しかけて来る。

だから、俺はポツポツながらも成立する海との会話を壊してまで、あいつらを殴ろうとは思わなかった。

 

それに、海はずっと俺の手を握り続けてくれた。

その手を、俺は離せる筈もなかったのだ。

 

「ぼくね、有明 海っていうんだ」

「筑後 平弥」

「へいちゃんって呼んでもいい?」

「かってにすればよか」

 

その頃の俺は海に「へいちゃん」と呼ばれていたのだが、海はぶっきらぼうな俺の返事など気にした様子もなく嬉しそうに話しかけ続ける。

 

俺はずっと他人から攻撃されてばかりだった為、他人との会話の仕方など知らなかった。

だから、俺は海の会話にあれでも必死に答えていたつもりだ。俺は海の手を離さなかったし、この暖かい手を離したくないと思った。

 

笑ってくれる海が俺には嬉しくてたまらなかった。

 

「へいちゃん、いっぱい怪我してるけど、いたくない?」

「いたくなか」

「ほんとう?ぼくの家、ばんそうこうあるよ」

「ふーん」

「遠足おわったらうちにおいでよ」

「……オレ、くせぇから怒られっぞ」

「だれに怒られるの?」

「お前の親に決まっとるやん」

「おかあさんもおとうさんも仕事でいつも家には居ないよ。へいちゃん、うちにおいでよ」

 

今思い出しても、やはり俺の返事はかなり乱暴だったと思う。

初めて俺を家に遊びに来いなどという相手に、俺はどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。

 

俺は本当に戸惑っていたのだ。

この当たり前のように、言葉と温もりをくれる存在に。

 

だから、そんな暖かさを与えてくれた海ならば、こんな俺でも“人”として扱ってくれるのでは、と少しばかり高揚していた。

 

「よかよ」

「ほんと!へいちゃん、ありがとう」

 

俺は俺の手をぎゅっと嬉しそうに握ってくる海に、なんとも胸の中が暖かくなるのを感じると、俺も思わず海の手を握り返していた。

あぁ、その手がなんとも、柔らかくて暖かくて。

 

俺は殴られてもなじられても出てこなかった涙が、一瞬溢れそうになるのを感じた。

 

泣かなかったけれど。