2:二時間の天国

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 幼い頃、俺には毎日、二時間の天国が存在した。

 

 

『かっけーー!』

『すっげーー!』

 

 

 そう、夕方六時から八時までの約二時間。

 あの頃は、お茶の間が賑わう時間帯に大量のアニメのタイトルが軒を連ねていた。今では、不朽の名作なんて呼ばれるアニメも、その時間帯に生まれた。

 

 今では考えられない事だ。

 学校から帰ってテレビを付ければ、続けざまにアニメが放送されるなんて。これを天国と言わずして何と呼ぶ。

そんな毎日二時間近くの日本アニメの英才教育は、俺を完全にアニメ大好きな子供に育て上げた。きっと、俺のような子供は日本中に山ほど存在したに違いない。

 

『今週のビットもすっげー面白かったな! なぁ、サトシ!』

 

 そう、例に漏れず俺の隣でテレビに齧りついていた幼馴染もまた、その英才教育を完全にその身に受けて育った一人だ。その横顔は、アニメ【自由冒険者ビット】に興奮しているのか、頬が完全に上気している。

 

あぁっ、わかるわかる! めちゃくちゃ分かるぞ!

 

『うん! マジで最高だった! 特にビットの最後の台詞な! あれは……めちゃくちゃカッコよかったな!』

『わかるっ! えっと、なんだったっけ? オレは……オレは、ぜったいに……なんだっけ?』

 

 首を傾げてくる幼馴染に、俺は得意気に腕を組んだ。

 

『“俺は絶対に負けない! 俺が管理されたこの世界を変えてやる! 誰かに支配されて生きるなんてっ、まっぴらだ!”』

『すっげーーー!サトシ! 似てる! 似てる! なんで、そんなに上手なん⁉ もしかして、サトシが“ビット”なんっ⁉ 声、似てるし!』

 

 俺はあの頃、本当に自分が世界を変えられると思ったし、何にでもなれると思っていた。どんなアニメのヒーローだって、俺にかかれば全員難なく演じられると思った。

 

 俺に出来ない事はない。

やれない事はない。

 

そんな俺のバカで愚かな勘違いを、この頃の俺は恥ずかし気もなく思っていた。

そして、それを助長させたのは、隣で俺の声真似に目を輝かせる幼馴染に他ならなかった。

 

『バーカ!そんな訳……ありまーす!』

『すっげーーー!サトシ!もっかい言って!』

 

 『もっかい!もっかい!』と、それこそバカの一つ覚えのように、俺にビットの台詞をねだってくる幼馴染。

俺の都合なんてお構いなし。声変わり前のその声は、どんな壁だって突き破って前へと進む、澄み切った強さで溢れていた。

 

 そんな声の持ち主。

 山吹 金弥。ヤマブキ キンヤ。

山吹色は金の色。名は体を表す、を地で行く程、金弥はいつもキラキラと輝く瞳を携えていた。

 金弥は俺の家の隣に住む、幼稚園から付き合いのある幼馴染である。

 

『わかった、わかったから!キン!耳元で叫ぶな!あとっ!お前またポケットに石ころ入れてただろ!そこ、落ちてる!』

『おー!これは俺の大事なツヤツヤの石だった!』

『何が大事だよ!いっつも俺ん家に置いていく癖に!絶対に持って帰れよな!お母さんが怒るからっ!』

『あーい!』

 

コイツのポケットの中には、何故かいつも小石や砂が入っていた。靴を脱げば中から大量の砂が顔を出す。お陰で、コイツが家に遊びに来ると、いつも部屋は砂だらけだった。迷惑極まりない。

 

『なぁ、なぁ! サトシ! サトシは、マンガの声を出す人になるんだよな⁉』

『声優だ! 声優! あぁ! なるぞ! 俺は高校生になったら、バイトしながら養成所に入って、その後はプロダクションに所属してー』

『そうそう! せーゆう! サトシがなるなら、オレもせーゆうなろっかなー!』

 

 にししっ、と歯を見せて笑う金弥の歯には、給食で出されたひじきが挟まっていた。真っ白なその歯はひじきの黒と相反して目を引く。まぁ、金弥の歯に何かくっ付いているのなんていつもの事だ。そうそう、昨日はネギがついていた。

 

『お前なぁ。そんなに声優の世界は甘くねーんだぞ! あと! 前歯! ひじき付いてる!』

『へー! でも、きーめたっ! 俺もサトシと一緒にせーゆうなーろおっ!……むぐぅ、どこぉ』

『もちっと、左』

『わっかんねーよ! サトシとってー!』

 

 そう言って、あろうことか俺の目の前に、ニッと歯を見せながら近寄ってくる金弥に、俺は『げ』と表情を歪めた。誰が取ってなどやるものか。

しかし、次の瞬間、眉をヘタラせ『とってよー!』と人懐っこい笑みを浮かべてくる金弥に、俺は『あーもう!』と言いながらも、前歯のひじきに手を伸ばしてしまっていた。

 

『とれたぞ』

『ん! じゃあ、いただきます!』

『うわっ!もう指まで舐めんなよっ!きったねー!』

 

悲鳴を上げる俺に、金弥は自分で切ったせいでガタガタになってしまった前髪を揺らしながら大笑いした。

 

『ったく! あんまし汚ねー事してると、また女子から怒られるぞ!』

『別に女子とかしらねーもん!どーでもいーし!オレ、サトシと遊べれば、それでいーし!』

『……』

 

いつもこうだ。

 俺は結局、いつも金弥の頼みを断れない。自分で取れよって言えば済む話なのに。いっつも『仕方ないなぁ』って困った顔で、でも心の中じゃ、全然困ってなんかいないのだ。

 

うちの母親もそう。

金弥の持ちこんだ砂や小石を『もう』とぼやきながら掃除しつつ、最終的には『キン君は愛嬌があるからね。可愛くて許しちゃうのよ』と、うちには、いつも金弥の好きなおやつが準備されていた。

 

『ありがとぉ! サトシ!』

 

 そう、金弥はバカで可愛いやつなのだ。

 俺や俺の母親だけじゃない。皆が金弥に対しては“そう”なってしまう。

 だから、いつの間にか金弥の周りには人が集まる。キラキラの光に思わず手を伸ばしてしまうように。

 

 金弥が口を開けば、いつの間にかその通りになる。なってしまう。

 

『なぁ、キン。またお前、お化けマンしただろ。また首のとこヨレヨレになってる!』

『あははっ! ヨレヨレの方が着る時カンタンでいいから、いいんだー!』

『なんだ、ソレ』

 

 いっつも服を着る途中で「お化けマン」なる、襟を頭に引っかけて走り回る遊びをするせいで、金弥の洋服の襟はいつもヨレヨレだった。

 制服も体操服も。

 

 よく金弥が着ていた、主人公みたいな真っ赤なパーカーも。

 

『なー! そんな事よりさ! オレもせーゆうなるから! な? な? いーだろ?サトシ!』

『……あのなぁ。声優ってのはそんなに簡単になれるもんじゃないって言ってるだろ?  一握りの、選ばれた人間しかなれないんだ! 養成所に入るのだってお金がかかるし、そしたら』

『あははっ、じゃあ選ばれるまでやるー!』

 

 本当にわかってんのか。まったくコイツはいつだって人の話を最後まで聞きゃあしないんだから!

 

『だってさぁ。サトシがせーゆう目指すなら、オレも一緒に目指してたほうがさぁー』

 

 けれど、金弥はこうしていっつも俺の後を追いかけて、すぐに俺の真似をする。このキラキラした大きな二重の目と、どこまでも届きそうな程、存在感に満ちた声は、いつだって“俺”に対して向けられていたのだ。

 

『ずっとサトシと一緒に居られるじゃん!』

 

 俺の家のテレビの前。夕飯の香りの立ち込めてくる時間帯。その金弥の声は、本当にどこまでもどこまでも真っ直ぐで、ズシリと俺の心に重く響いた。

 それは、俺の夢が、この声と共に走り始めた瞬間だった。

 

『そんなんでなれるかよ、バーカ!』

『なるなるー! サトシがなるなら、オレもなるー! 絶対にせーゆうになるー!』

 

 まるで、アニメの主人公みたいな金弥。けれど、この頃までは、俺にとっては金弥も、ただの背景の一部だった。

世の中の全てが、俺にとっては全部、ぜーんぶ背景。主役は俺!

 だって、まるで主人公みたいな金弥が、俺を見てこんな顔をするんだ。こんな事を言ってくるんだ。

 

『じゃあ、今日から一緒に声優になる特訓するか?』

『するー! サトシとなら何でもするー!』

 

 それが、俺には誇らしくて、だからこそ俺は勘違いをしたまま、少しずつ、その思い込みに現実という陰りが見え始めるのを、直視出来なかった。