1:目覚め

 

 

 腹の下に走っていたゾクリとした落下特有の嫌な感覚。そりゃあそうだろう。俺は実際に“落ちて”いた。

それなのに――。

 

「……っ!」

 

 しかし、どうだろう。その感覚は、一瞬にしてなくなった。なくなった代わりに、次の瞬間、俺の顔には冷たい何かがぶっかけられていた。

 目と鼻に冷たいモノが勢いよく入り込んでくる。そのせいで、一気に呼吸が乱れた。

 

 つーか、鼻の奥いってぇっ!

 

「っげほっ! げほっ! なっ、えっ?!」

 

 あれ?俺はもう落下して川に飛び込んでしまったのだろうか。でも、息は出来る。体も、どうやらしっかり自分の足で立っているようだ。

 

「なんで、みず……? え?」

 

 目に入った液体を俺が両手で拭いながら、それがただの水である事を理解する。それと同時に圧倒的に昼間と思わしき明るい光を認識し、一体何がどうなっているのだと一気に混乱するしかなかった。さっきまでは夜だった筈だ。明るいといっても月明かり程度だったのに。

 

「え……、は?なんだ、ここ?」

 

 そう、思わず口にした時だ。

 

「おいっ! 人間! 上官の前で寝ぼけるなんて良い度胸してんじゃねぇか!」

 

 響き渡る怒声と共に、再び俺に向かって冷たい水が襲い掛かってきた。今度は先程のような、顔だけ濡らすような水量ではない。体全体をガッツリ濡らす程の大量の水だった。

 

「っげほ! けっほっ! うぇっ! な、えっ?」

「次、寝ぼけた事言ったら、水流壁に頭ぶち込ませてやるからな!人間!」

 

 すいりゅうへき。

 どこかで聞いた事のあるような音の羅列と、耳の中にまで入り込んできた冷水のせいで、相手の怒声がどこか一枚壁を隔てたような違和感をもって耳の奥に響く。しかし、次の瞬間、いつもの癖が出てしまった。

 

「もっ、申し訳ございませんでした……!」

「なんだぁ?急にえらく畏まるじゃねぇか。いいから、さっさと来い!新人の癖にボケっとすんな!」

 

 とっさに謝罪が口を吐いて出る。

あぁ、反射的に「申し訳ございませんでした」が口を吐いて出る国民性を持っていて助かった。

 

つーか、ここどこ。一体、何だ。いや、ほんとマジで⁉

 

「……と、仲本聡志は混乱するしかなかった」

「あ?」

「いえ。すみません。少し頭がフラついてしまって……」

「ったく、あんまり遅ぇと、お前らはすぐ死んじまうだろうが!」

「……はぁ」

 

 一体、どんなスピード感の人生だよ。

 上司のこういうノリ、ほんと反応取りずれぇな。端的に言うと、クソつまらん。

 

「えーっと」

 

 そう、俺が濡れた顔を腕で拭いつつ反応に困っていると、次の瞬間、俺の周囲から大きな笑い声が響き渡った。

 

「っははは! 違いねぇ! おら! 早死に野郎! さっさと走れ!」

「おらおら! そりゃ差別用語だろうが! 命短し儚く散りゆく刹那の一族って言ってやれよ!」

「ぶっは! そりゃ、なげぇよ! そんなモン、呼んでる間に死んだらどうすんだ!」

 

 え、なになに⁉ あれってそんな笑える感じのネタだったの⁉

 最近流行ってるネタ的なヤツですかね! 俺には反応の取りずらい上司からの絡みにしか感じなかったんですけど!

 

「……ぁ、えっ?」

 

 そう、戸惑いつつ笑い声のする方を見てみれば、そこには、俺を怒鳴ってくる男以外にも、たくさんの人が居た。

 

「っ」

 

どいつもこいつも青い隊服らしき一律の制服を身に着け、腰にはまさかの剣がぶら下げられている。

 

「……うわ」

 

腰の剣にも驚きだが、もっと目を見張るのは彼らのその見目だった。

明らかに、その誰もが日本人ではない。

 

どこからどう見ても外国籍。

金色や銀色の長髪の髪の毛が、キラキラと太陽の光に照らされて光り輝いている。男にも関わらず、長髪で髪を結い上げている者が多く見受けられるが、違和感を感じる事はない。

 

似合っている。

きれいだ。でも、

 

「声が汚ねぇな」

 

もう少し、マシな発声は出来ないモノだろうか。

特に二番目の奴。声質は悪くないのに、あのこもった喋り方はいかがなモンだ。呼吸を意識して腹からハッキリ声を出せば、伊藤さんのような若いハイトーンボイスで、学園モノのガヤの仕事くらいは回ってきそうなのに。

 

 あぁ、もったいねーな。

 

「……と、仲本聡志は思った」

 

 再び、今度は誰にも聞こえないような声で、そう呟く。

 先程から、自然といつもの“コレ”が出てしまう。当たり前だが、俺は消える事なく胸の中に住まうその混乱に対し、ともかく“いつもの事”をする事で、どうにか騒ぎ出しそうになる心をおさめていた。

 

 マジで一体ここは何だ。

 頼むから、何かヒントになるようなモンはねーのか!

 

 そんな俺の思考の隙間を縫って、未だに続く俺に対するモノと思われる嘲笑は続く。

 

「人間ってやつは、気付いたら寿命で死んじまってるからなぁ? もしかして、もう寿命か?」

「おうおう、短命ご苦労さん!」

 

 いやいやいやいや!

だから、ソレなに⁉ マジで意味わからん! 悪口⁉ 悪口って事でオッケー⁉ そういう認識でいいのかな⁉

 

俺は今、悪口を言われていますか⁉

 

「……仲本聡志は、ともかく混乱していた。混乱し過ぎて中学英語の和訳のような言葉を口にしてしまうくらいには、完全に混乱しきっていた」

「えーっと、お前の名前は……」

 

 口の中で消えるだけのか細い語り部は、未だに続く。すると、俺をベシャベシャにした上官らしき男は、俺を前に、板に固定された紙をペラリと捲った。

 

「えーっと、お前の名前は、と。サ、トシ・ナカ、モト……か。ったく、ゲットーの奴らの名前は、いつまでも言い慣れねぇな。言い辛ぇこった」

「……え」

「あ? なんか文句でもあんのか?」

「いえ、なにも……」

 

 サトシ・ナカモト。

 予想に反して俺の名前がそのまま呼ばれてしまった事に、むしろ戸惑った。ここまで圧倒的に世界観の違う場所に立たされて、名前はそのままとは一体どういう了見だ。

 

設定雑過ぎか。

 

「さて、昨日、一人の人間がたった三十年で仕事を辞した。理由は“老い”だ。たった三十年で、お前ら人間は職務をまっとうできなくなる」

「……あ」

 

 俺の混乱など、周囲も、この俺の目の前に立つ上官らしき男も一切鑑みない。

 ただ、この時になってやっと俺は、とある二つのあり得ない事象に目を剥いた。

 

それこそ、この訳も分からない展開と、この世界の重要なヒントとも言えるモノだった。

 

「そこで、今度は新人のお前に、この大任が下ったという訳だ」

「……仲本聡志は目を見張った。その先にあったのは、人間では考えられない程尖った耳、そして」

 

 語り部のせいで、上官らしき男の言葉に集中できない。

なにせ、この上官の男の声は、偉そうなセリフの割に揺らぎが凄い。それと、間とテンポが絶妙に耳障りだ。まぁ、そういうのを“個性”と言うのだろうが。

 

 いや、じゃなくて⁉

 

「サトシ。お前には……このクリプラント国。第一位の王位継承権を持つ、イーサ王子の部屋守を任ずる。とても栄誉な仕事だ。せいぜい、立っていられなくなるまで、静かに部屋守としての任をまっとうしろよ」

 

 クリプラント。

 イーサ王子。

 そして、そして、そしてっ!

 

 

「彼の胸にあった紋章。それに、仲本聡志は大いに見覚えがあった。なにせそれは、まさに」

 

 まさに――

 

 

「俺がオーディションに落ちた、“あの”イーサ王の統べるエルフの国、クリプラントの、国章だった」