20:魔のイヤイヤ期

 

 

 俺は、今、非常に困っている。

 いや、まぁ、ね。俺は、この世界に来て、だいたい困っている事が多いのだが。まぁ、飽きる事なく、今回も困っている。

 

「で?俺はこの演習とやらの為に、一体何をどう準備すりゃいいんだ?」

 

 俺は先日イーサから訳してもらった掲示板の文字を目で追いながら、何度目ともなる「はて?」を繰り返していた。

 


 

【大規模軍事演習並びに結界保護強化に掛かる辞令】

森の薫り始める季節。重く渦む大気のヴェールをめくり、喜びと共に、女神リケルは今年も我らの元へとくだった。

我らが偉大なる父ヴィタリック王の命により、震え漂うマナの集積任務と、汝らが兵者として、我が国の一片の側壁とならんとする為の場を設ける。

 


 

 

 冒頭がコレである。

 

「まっっったく意味が分からん」

 

 俺は少しだけ白みはじめたらしい外光を、廊下の壁の上部にある窓から感じながら呟いた。

廊下に灯されたランプの灯りが、その光のせいで、その灯りとしての存在意義をじょじょに失い始めている。

 

「これは……アレだな。最初のは、うん。絶対に意味ないヤツだ。手紙でいうところの……なんとかの、そうろう……とか、そういうの。完全になくても困らんヤツ。ったく、書くなよ。こういうの。混乱するわ……くぁ」

 

 欠伸が漏れる。そう、今日は夜勤だった。

 なので、昨晩も俺とイーサは、二人して何気ないやり取りを交わしつつ、いつも通りの夜を過ごした。

そう、いつも通りの夜。しかし、コレがまた新たな問題を生んだ。最近、イーサに夜更かしの癖が付いてしまったようなのである。

 

『イーサ、そろそろ寝ろ』

コンコン。

『はぁ?嫌じゃねぇよ。なんだ?眠くないのか』

コン。

『はぁっ、仕方ねぇな。一つお話ししてやるから。終わったら寝ろよ』

コン。

 

 まさに、ずっとこんな調子だ。

 こんなのまるで、寝かしつけの必要な子供と同じじゃないか。

 しかも性質の悪い事に、子供ならばいつかは睡魔に誘われて眠りにつくであろうところを、決してイーサはそうならない。なにせ、相手は精神年齢こそいざ知らず、体は完全に大人なのだ。

 

『はい、今日のお話終わり。寝ろ』

コンコン。

『はぁ?約束しただろうが!』

コンコン。

『ノリノリで叩いてんじゃねぇ。その音、ぜんっぜん眠くなってねーな!?ひとまず!このドアから離れてベッドに行け!布団に入らないから眠くならないんだ!』

コンコン。

 

 と、完全にノックのテンションが「イヤイヤ」と、駄々をこねる子供……三歳児程度にまで坂を転げ落ちてしまったようだ。ついこないだまで、斜に構えていないその素直さが「八歳児」だなんて思っていたが、なんという事はない。

 

 今の俺の印象では「イヤイヤ期も板に付いてきた完全なる三歳児」である。確か、姉ちゃんの子供が、ちょうど同じ年の頃だった筈だ。正月に会ったが、そりゃあもう壮絶な「イヤイヤ」が発動されて、姉ちゃんの目は完全に死んでいた。

 

 まさに親にとっては魔の成長期である。

 そう、俺は他人事のように思っていたのだが……。

 

『イーサァ、もう寝ろって。ホントに朝起きれなくなるぞ』

コンコン。

 

 あぁ、もう本当に「コンコン」じゃねぇよ。

そうなのだ。こうやってイーサが俺と一緒に夜更かしをするせいで、イーサは予想通り、朝飯の時に起きれなくなっていた。

 

『頼むよ。お前が起きてこないと、俺があのメイドさんに睨まれるんだ』

コンコン。

 

 そんなの、知ったことか。

 そんな意味でも込められたような二度のノックに、俺はもう何度ガクリと項垂れたかしれない。そして、きっとこうしてイーサが朝起きられないのは、俺のせいだと完全にあのメイドにはバレている。

 

『……部屋守の仕事だけなさい、と。そう、何度言わせるのかしら』

 

 そう、完全にクールツンの時の声優さんの声で、俺は既に何度か怒られてしまっているのだ。どうやら、俺が夜勤の時以外は、イーサはきちんと朝起きてきているに違いない。

 

「俺のせいじゃ……俺のせいかぁ?」

 

透明感のある美しい、けれど機械人形のような声でそんな事を言われてしまえば、ともかく俺の心臓はギュウッと握り潰されるような心地に陥ってしまう。有り体に言えば、普通に怖い。

俺は、あのメイドに対し……心底ビビっている!

 

「……なぁ、イーサ。今日はちゃんと起きてくれよ」

 

 白み始めた空を、小さな窓からぼんやりと見つめる。もうすぐ朝だ。

 

「……ねむ」

 

 眠る直前までイーサにおとぎ話を聞かせてやり、一睡もしないまま朝を迎える。そんな夜勤の中で、この空の白み始める時間が、一番睡魔に襲われる時間帯だ。

どうせ誰も来やしない。だから、別に寝たって問題はないのだろうが、もし寝過ごして、起きた瞬間、あのメイドさんが立って居たりしたらと思うと、おいそれと仮眠も取れやしない。

でも、今日は本当に、

 

「ねみぃ。……と、仲本聡志は、いつもよりも激しく襲ってくる、その強烈な眠気に気を失いそうになっていた」

 

 と、眠すぎてセルフ語り部をしてみたが、やはり眠気は過ぎ去る事はない。まだ明け方だ。そう大きな声を出す訳にもいかない。

さて、どうしたものか。

 

「ん?」

 

そう思った時、俺の視界の端に、整ったイーサの文字で書かれた文章が入り込んできた。

 

「……森の薫り始める季節」

 

 俺は睡魔を追い払う為に、イーサに訳してもらった訳の分からない掲示板の始まりの文字を口ずさんでみる事にした。意味はわからないが、この言葉は、なんとなく綺麗で良いと思う。まるで詩のようだ。

 

「重く、渦む……大気のヴェールをめくり」

 

 俳句で言うところの季語のようなモノだろうか。

なんとなく、これは春を謳ったものだと分かる。なにせ、今の気候が、本当に春のようにうららかだからだ。

 まぁ、このクリプラントに四季の概念があるのかは分からないが。けれど、俺にとって今は春だ。

 

 あぁ、ちくしょう。ねむい。

 

「喜びと、共に、女神リケルは、今年も……我らの元へ、と、くだった」

 

 もう、限界だ。

 俺は観念して目を瞑ると、眠りが深くならぬように、扉を背にして敢えて顔を上げて目を瞑る事にした。そう、出来るだけ、意識の半分をこちらへ置いていくように。

 

 俺は、眠気の手に誘われながら、一歩だけ眠気の浅瀬へと足を踏み出した。