19:急がば習え

 

 

「えっ、えっ!よ、読める!な、なんで!?」

 

 

 俺は自らの手の内に戻ってきた記録用紙の中身に、思わずギョッと目を剥いた。なにせ、あんなに訳のわからない線と曲線の交わりでしかなかった文字が、今や完全に読めるのだ!

 

「これは……!」

 

 いや、読めると言ったら語弊がある。

 厳密に言えば、元々の俺が書き写してきた方の文字は、未だに意味の分からないままだ。

 ただ、訳の分からない文字の上に、俺ではない別の筆跡で文字が新しく追記されている。

 

そちらが読めるのだ。

 

「え?コレ、イーサが書いたの!?」

 

 俺が勢いよく、再び閉ざされた扉に勢いよく話しかけると、扉の向こうからは控えめに「こん」と言う、一度のノックが返ってきた。

 まぁ、そうだろう。この扉の向こうにはイーサしか居ない筈だ。

 

「す、すげぇ……でも、なんで」

 

 俺は見覚えのある文字の形に妙な懐かしさを覚えると、未だに一切読めないクリプラントの文字を交互に見て、ハタと一つの可能性に思い至った。

 

「もしかして、俺が読めなかったのって、クリプラントの……エルフの文字を習ってないから?」

 

 コン。

 

 別に尋ねたつもりもない、その微かな呟きにすら、イーサが返事を返してくれた。そうか、単純に、俺は人間だからエルフの文字が読めないだけだったんだ。じゃあ、他の“人間”も同じように読めないという事だ。

 

「なぁんだ。俺だけじゃなかったのか。そう、仲本聡志はホッとしていた」

 

俺はここに来て自分だけが文字を読めない理由にハッキリと裏付けが取れてスッキリした気がした。

 決して、俺が主人公補整のないモブキャラだからではなかったのだ。

 

確かに会話や言語の聞き取りは、幼い頃からその国に住んで生活を営んでいれば、自然と習得する事は可能だろう。

 しかし、識字となると話は別だ。“教育”という、ワンランク上の知識行動を受けなければ、普通に生活しているだけでは、理解はなかなか難しい。

 

と言う事は、このクリプラントには人間に対し義務教育なるものは存在していないのかもしれない。普段の扱いを見れば、なんとなく理解は出来る。きっと“人間”というだけで、様々な権利がエルフより圧倒的に与えられていないに違いない。

 

「文字が読めない事。ソレは、仲本聡志が特別に変な訳ではなかったのだ」

 

 その事に、酷くホッとした。

 どうやら、俺は自分がモブで“主人公補整”が無い事を嘆いていた訳ではないらしい。ただ単に、周囲と圧倒的に異なる場所に立つ自分に、酷く怯えていただけらしかった。

 

「ダッセ。コレだから、俺はキンとは違ってタダの一般人なんだ」

 

 俺はなんだか非常にスッキリした気持ちになると、手元の記録用紙につらつらと書かれている文字列に目を細めた。あぁ、懐かしい。理解できる文字が目の前にあるだけで、酷く安心する。

 

「イーサ、お前は人間の国の言葉も書けるんだな。字、凄く上手じゃないか」

 

 俺が思ったままに言ってやれば、向こうからは何も聞こえない。きっと、これは照れているのだろう。そう、いつもの調子で口にして、俺はハタと思い出した。

 

「あ」

 

そう言えば、イーサは子供ではなかった。

思わず脳裏に、この扉の隙間からヌルリと出てきた、あの骨ばった大人の男の手が過る。

 

「なぁ、イーサって……大人?」

 

 思わず口をついて出た、あまりにもあんまりな質問に、扉の向こうからは未だにシンとした沈黙が返される。この沈黙の意味は……そうだな。きっと俺の質問の意味を図りあぐねているとでも言っていいだろう。

 

 確かに、これは俺の質問が完全に悪かった。

 

「えっと、なんだ。実は、俺……お前の事ずっと子供だと思ってたんだ」

 

 続く沈黙。

 色々思いあぐねると会話にならないので、俺は思ったまま話す事にした。

そう、イーサとの会話なんて、いつもそんなモンだ。大人か子供かなんて余り考えて離していた訳ではない。そう考えると、別に何が変わった訳でもないと思えるから不思議だ。

 

「ただ、さっき扉を開けてくれた時に見えた腕がさ、白くて綺麗で、でもガッシリしてて……格好良いなと、思ったから。この扉の向こうに居るお前は、きっとカッコ良い王子様なんだろうなーと、」

 

 思ったわけだよ。

 そう、俺は、つらつらと書かれたイーサの掲示板の訳に目を通しながら、途中、つまらんとページを雑に飛ばして捲った。

 

 どうやら騎士の演習をかねた、マイナの守でのモンスター狩りと、結界の張り直しを行うとかなんとか書いてある。

まぁ、なんだ。チュートリアルみたいなモンだろ。

 

「ん?」

 

 俺が「これは後でしっかり読むか」と記録用紙を閉じかけた時だ。

 未だに扉の向こうに沈黙が続く中、俺の視界は一つの文字へと釘付けになった。

 

「っふは」

 

 俺がこれまで書いて来たお話会の台本の頁。その中で、ついこないだイーサを泣かせてやった【人魚姫】の台本の最後の頁に、こう書いてあったのだ。

 

≪王子様、きらい≫

 

 それは、完全にイーサによる人魚姫の感想だった。しかも頁をめくれば、そこかしこに落書きのようにイーサの文字で、好き勝手に書いてある。

 その感想のどれもが「王子様、きらい」のような、本当にイーサが純粋に物語に向き合って感じた言葉ばかりで、なんだか見ていてむず痒かった。

 

そして、やっぱり俺は改めて思ったのだ。

 

「イーサはまだ子供だな」

 

コンコン!

 

 それまで静かだった扉の向こうから、激しく二度のノックが放たれる。先程は「大人か?」と聞かれて何も答えられなかった癖に、「子供だな」と言われれば、腹を立てる。

 まったく、これじゃあまるで子供扱いをされて怒る……子供じゃないか!

 

「ま、俺も同じだよ。結局、大人なんて、体の大きくなっただけの子供だ!この世に居るみーんな、みーんな、まだまだ子供だ!大人のフリをしてるだけ!」

 

 俺は無邪気に書かれたイーサのお話会への感想に目を通しながら、片手で扉を一度だけ叩いた。

 

「ありがとな、イーサ!助かったよ!」

 

 腹から空気を吸い込んで、めいっぱい扉に向かって声をかける。少しの間の後、俺の耳には静かに一度だけ、戸をノックする音が聞こえた。