22:もしも、あの時頷いていたら

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『なぁ、サトシぃ』

『んぁ?』

 

 俺は背中に掛かる重みに、思わずそれまで閉じていた目をパチリと開けた。開いた目の中に、一気にくすんだ蛍光灯の光が飛び込んでくる。

 眩しい。

 

『なに?寝てた?』

『……そーみたい』

『バイト。昨日も遅かったん?』

『帰ったの夜中の二時』

『居酒屋バイトの掛け持ちなんて辞めりゃいいのに。キツいだろ』

『でも、時給良いしさ。家賃とかの事考えたら、辞めらんねーの』

 

 そう、言ってチラと周囲に目をやると、そこは見慣れた俺の部屋があった。狭い。狭い癖に、壁には本棚がズラリと並んでいる。そして、その棚には様々な本や雑誌がぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。

どれもこれも、俺のお気に入りだ。ずっと大事で、離れられないモノ。

 

狭くて、どこもかしこも、せせこましい。ゴチャゴチャとしている。

 この狭い場所が、俺のお城であり、世界の中心だった。

 

『家賃かぁ。確かに、家賃きちぃよな』

『だなぁ』

『あー、きちぃ、きちぃ』

『は?なに笑ってんだよ』

 

 きちぃと口にした時のキンの声は、俺からすれば全然キツそうには聞こえなかった。むしろ、少し弾んで聞こえる。俺の背中に伝わる振動も、心なしか笑っているように細かい鳴動を響かせていた。

 そう、金弥はいつも、うつ伏せになって雑誌や本を読む俺の背中を枕にするのだ。クッションはもう一つ用意してあるのに、絶対にそれを使おうとはしない。

 

金弥の枕はいつも俺。

俺の部屋での、仲本聡志と山吹金弥の“いつもの光景”が、そこにはあった。

 

『なー、サトシぃ。一緒に住も。したら、家賃も折半すりゃいいし』

『ヤだよ。お前、ぜってー掃除しねーもん。なんかゴミとかその辺に置きっぱなしにしそうだし』

『しねーよぉ』

『なんか、石とか砂とか持って帰って来そうだし』

『はぁ?もう、いつの話してんだよ。なぁ、俺、ちゃんとするから』

 

 背中の一番なだらかな坂の部分に、金弥の頭があるのが分かる。何やらゴソゴソと動いているようだが、正直重くて苦しい。

 

『一緒に住んだら、飯代だって半分で済むんじゃね?したら、食費も節約になる』

『とか言って、結局俺が飯を作る羽目になんだろうが』

『ちゃんと俺も作るからぁ。なぁ、サトシぃ。一緒に住もうってば。なぁ?』

 

 背中に感じる金弥の頭がゴロリと動いた。どうやら横向きになったらしい。あ、この体勢は。

 

『おい、だからソレ止めろって』

『なにがぁ』

 

 半分面白がるような声を上げながら、金弥が、ユルユルと俺の尻を撫でた。コレもいつもの事だ。

金弥は俺の背中で横になると、すぐに尻を撫でてくる。正直、コレをされると俺は心底落ち着かない。

 

なにせ、コイツはいつか絶対にヤると確信しているからだ。

 

『ぜってー、カンチョーすんなよ』

 

 カンチョーを。

 子供の頃、よく金弥にされたその行為に、俺は今でも自身のケツへの不安が絶える事がない。

 

『はぁっ、サトシってほんとガキの頃から変わってねーよなー』

『お前に言われたくねーし!』

 

 そうやって俺が抗議の声を上げる間も、金弥の手は止まる事なく俺の尻を撫で続けた。サスサス、スルスルと、金弥の掌や指先が、何かを企むように俺の尻を行ったり来たりする。

 きっと、金弥は、俺が慣れて油断した頃に勢いよくカンチョーをかましてくる気に違いない。俺には金弥の考えている事なんて、手に取るように分かるのだ。

 

 伊達に二十年以上、幼馴染をやっていない。

 

『なぁ、一緒に住も。そしたら、俺達、いつも一緒に居られんじゃん。サトシもバイトの掛け持ちなんかしなくて済むだろうしさ』

『……いつも一緒って。殆ど今もそうだろうが』

『じゃあ、いいじゃん。何も変わんないのに、家賃は減る。最高じゃん。って事で、一緒に住もー。住むって言うまで、ここから動かねぇ』

 

 あぁ、もう。

コレは、本当に定期的に金弥を乗っ取る悪いオバケだ。その名も、「一緒に住もうお化け」。金弥がコレになると、しばらく延々と言い続けるから面倒なのである。

 俺は脇に挟んだクッションに爪を立てると、深く溜息を吐いた。

 

 別に、俺は金弥と住む事を心底嫌がっている訳ではない。金弥の言うメリットも分かる。合理的だとも思う。

ただ――。

 

『……一緒に住んで、お前に彼女とかできたら、俺はどこに帰ったらいいんですかね』

 

 唯一の懸念がコレだ。

そして、一番悔しくて口にしたくない言葉でもある。幼馴染の異性関係の話なんて、精神衛生上したい訳ではない。むしろ、触れたくない。ただ、俺は仕方なしに口にする。

 

そう、金弥はモテるのだ。俺と違って。学生の頃から、常に女の影は堪えなかった。あんなに馬鹿で、鼻血で、砂と石ころ収集に余念のないお化けマンだった癖に。

 

『それさー、サトシいっつも言うけどさ。俺、彼女とか作る気ねーし。つーか、居た事すらねーってずっと言ってんじゃん』

 

 金弥の口から、ウンザリしたような声が漏れる。その言葉に、俺は更にウンザリした気分になってしまった。

 

『……もう、そう言うのいいって』

『は?何だよ、その態度!女作ってる暇なんて、俺達にはねーだろ!?』

 

金弥の口から放たれる声が、少しだけ低くなった。

 

怖い。

 

 いや、別にビビッてる訳じゃない。ただ、金弥の低音は、俺にとって“宿敵”なのだ。

 俺が真に恐れる、金弥の真骨頂ともいうべき、朗々と響く低音。俺には天地がひっくり返っても出せない。こんな声を、耳元で出されたら、きっと女の子はイチコロに違いないだろう。

 

『……彼女居た事ねぇとか。ウソつけ』

『ウソじゃねーよ。だって俺、童貞だし。……サトシもだろ?』

『……止めろよ。もういいって』

『サトシっ!話聞けよ!俺、彼女作ったりしねーから!約束する!だから、俺と一緒に……』

『別に、お前に彼女作って欲しくねー訳じゃねーよ』

『作んねーってば!』

 

 もう本当にこのやり取りも何度しただろう。

 俺は、なにも嫉妬からこんな言いがかりのような事を言っている訳ではない。俺は、何度も見ているのだ。

 

——あ、キン。

 

金弥が自分の部屋に、何度も何度も女の子を連れ込む所を。

 街で、知らない女と歩いているところを。

 

『……もう、この話止めよ』

『なんでっ!?』

 

 そして、金弥はそれを頑なに俺に隠す。意味が分からない。そして、何度も目撃している事を、俺も金弥には直接言えずにいる。

 

『別に、今のままでいーだろ』

『俺は今のままじゃ嫌なんだよ!』

 

 金弥の必死な声。この声は、本当に俺の劣等感を煽る。あの低くて、俺には真似できない……鈍いけれど、深みのある、腹の底がジンと響くような……。

 あぁっ、クソっ!

 

『キン、お前もう今日はかえ、』

 

 もう金弥の声を聞いていたくなくて、俺が体をよじらせて背中に乗っかる金弥へと声をかけた時だった。

その瞬間、俺の尻の穴に凄まじくも、懐かしい衝撃が走った。

 

『うぎゃっ!』

『……色気ねぇ』

『はぁ!?人にカンチョーしといて何言ってんだ!このクソキン!』

 

 金弥の指が俺のズボン越しに勢いよく突っ込まれていた。

 

コイツ、やるなつったのにカンチョーしてきやがった!

 俺は逸らせていた背中から、そのまま体を起こそうとすると、何故か目の前がグラリと揺れた気がした。

 

『っは、』

『なぁ、サトシぃ』

 

 揺れる、揺れる。

 遠くにキンの甘えるような、縋るような、小学生の頃のような声が、俺の名前を呼ぶ。

 

『ずっと、俺と一緒に居ようよ』

 

 何言ってんだ。キン。

「……ずっと、いっしょに、いるじゃねぇか」

 

 

 

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 俺は口にした声が、ハッキリと自身の耳に響くのを感じると、パチリと目を開けた。あぁ、目を開けたという事は、俺は――。

 

「……おはようございます。部屋守の仕事は、どうされたんですか」

 

 これ以上ない程に冷たい声が俺に降り注ぐ。

 どうやら、俺は完全に寝入っていたらしい。