『イーサ?』
かちゃ、と食器を盆に置く音がした。俺はしばらく黙って様子を窺う。数拍の間。耳を澄ましても、食器同士の擦れる音は、もうしない。どうやら、食べ終わったらしい。
『食べた?』
こ、ん。
控えめに放たれる一度きりのノック。食べ終わったら、俺が此処から離れてしまう。それが分かっているからだろう。本当にその音は寂しそうだった。
イーサには悪いが、その寂しそうな音が、俺には嬉しくてたまらない。
『はい、じゃあ両手を胸の前に合わせて』
扉の向こうなので、実際にやっているかは分からない。分からない筈なのに、イーサの事だ。きっと律義に、何の事だと頭を傾げながら、両手を胸の前に合わせているに違いない。
『ごちそうさまでした』
食事の終わりを告げる挨拶と共に、俺は座っていたその場所から立ち上がった。
さて、いくらイーサが一人で寂しかろうと、俺も眠い。それに、多分なんか、よくわからん訓練の為に、準備とやらが必要なようなのだ。
そっちの事も、そろそろ本気で考えなくては。
『人間……お前、一体王子に何をした』
『なにをって……暇だから、話してただけですよ』
『……それで、こんな風になるものか』
『なるものかと言われても……なってるし』
振り返った先いたテザー先輩が、俺を怪訝そうな目で見てくる。相変わらず、朝にもかかわらず、その声はどこか疲労感を帯びており、アンニュイだ。
『……しかし、』
『……もう、何なんですか。くぁ……ねむ』
気だるげなテザー先輩の声が、俺の眠気を更に助長させる。いかん、この人の声を聞いてると眠くなる。俺は一刻も早く、ベットに入りたい。
『……』
『……先輩。もう俺、部屋に戻っていいですか。マジで眠くて』
『……好きにしろ』
テザー先輩は、その美しい容姿を少しばかり歪ませると、顎に手を添えイーサの部屋の扉を見つめた。一体何をそんなに考え込んでいるのやら。
俺は、この先輩の立ち位置が、イマイチ分からない。まぁ、全然興味ないから分からなくてもいいけど。
『……じゃ、失礼します』
『待って』
突然、俺は女神の声によって呼び止められた。
その瞬間、優勢だった眠気が、一気に劣勢になる。
『な、なんでしょう』
俺はその透き通った声のする方に向かって、体ごと振り返った。そこには、もちろん、あの金髪ポニーテールのメイドが居た。イーサの奇行に、共に戸惑い合った、機械人形から生き物になった……あの可愛いポニーテールのメイドさんが!
『……何度も悪いのだけれど、その』
『……イイ声だ』
『え、なに。何か言った?』
『いえ、いいですよ。気にしないでください。と、言いました』
『あ、そう。ありがとう』
音声システムのような、一定の音調しかなかった声に、感情という緩急がついたメイドの声。
あぁ、生っぽい。生きてる!最高に良いじゃないか!ホント、速水さんっぽい!って言うか、速水さんでは!?いや、でも速水さん程の声優を、こんな一介のメイド役に使うか?
いや。もう、可愛いから何でもいいけど!
『もう少しだけ、ここに居てくれない』
『……イイッ』
『良かったわ。私じゃ、不測の事態にどう対応すればいいのか分からないもの』
またしても、俺の心の叫びが会話と奇跡的にガチ合う。
—–もう少しだけ、ここに居てくれない?
あぁっ!なんて台詞を口にするんだ!最高か!俺はギャルゲの主人公にでもなったんじゃないだろうかっ!
陰で上品な印象はそのままに、けれど戸惑いを帯びた今の声は……最早最強。最高の透明感が、そのまま声になっている。
『じゃあ、早速いいかしら?』
『なんでしょう!』
『アレは……どうすべき?』
メイドの声と差す指先に従い、俺がチラとイーサの扉の方を見た時だ。
『あ、』
またしても、微かに扉が開いていた。
そして、開いた扉からソッと盆が差し出されている。どうやら、手渡した時と同様に、食べ終わった皿を返すのも、自分でやる事に決めたらしい。
『エラいじゃん。イーサ……!王子』
思わず呼び捨てにしそうになるのを堪える。
なにせ、視界の端には突然開いたイーサの部屋の扉に、目を見開くテザー先輩が居るのだ。呼び捨てなんかにしているのがバレたら、怒られるかもしれない。
まぁ、今更過ぎるかもしれないが。
『お、全部食べてんな?偉い偉い』
『……』
片腕だけ盆の下に滑り込ませ、差し出された食器を見てみれば、スープもパンも綺麗に食べ尽くされている。
まぁ、盆を自分で手渡すのも、食事を残さず食べるのも、別に「エラい」訳じゃないが、まぁ、イーサの場合は一つ一つ褒めておく事にする。
そうする事で、早く「イヤイヤ期」が終われば良いなという、微かな希望を込めて。
『はい、ごちそうさまでした』
『……』
差し出された盆の下に手を添える。メイドからどうすれば良いかと尋ねられたからではないが、何となく分かってしまう。この盆は、俺が受け取らねばならない事を。
『イーサ?もう、手。離していいぞ』
『……』
しかし、俺が盆の下に手を添えたにも関わらず、イーサは自身の腕を引こうとしない。
『どうした?イー』
サ。
そう、俺が開いた戸の隙間を見上げた時だ。
キラリと黄金色に光る長い髪の毛が、チラリと俺の目に映った。それと同時に、盆の下から手が引かれる。
『っ!』
『……』
腕に盆の重みを感じる。それと同時に、俺の腕をヒンヤリとした手が、二、三度サスサスと撫でた。それはどこか、お気に入りのナニか、ヌイグルミにでも触るような……そんな親しみの籠った触り方だった。
『ぁ』
バタンと、何事もなかったかのように締まる扉。
デジャヴ。
『やっぱり良かったわ。私が取りに行かなくて』
『……一体、これはどういう事だ』
背後で、何やらゴチャゴチャと言葉を放つ二人のエルフ。そして、その時の俺にとっては完全にモブ、否、背景達。
そう、先程まで可愛いと悶えていたメイドさんの声すらも凌駕する程の感情が、俺の中にはハッキリと芽生えていた。
キラリ、サラリと流れた金色の髪の毛。
それしか見えなかったにも関わらず、その印象は凄まじいモノだった。メイドさんの金髪とは、また違う。そう、レベルが違う。
『キレー』
収穫直前の稲穂のような赤身を帯びた黄色の中に、輝かんばかりの太陽の光を溶け込ませた高貴を纏った色。そんな色を、さも当たり前のように身に纏うイーサ。そう、その黄金色を前に、俺は思った。
確かに俺はコイツのオーディションを受けたのだ、と。そして――、
「彼が、確かに“王”なのだと、仲本聡志は思い知ったのだった」