幕間1:ずっとイラついていたものの

 

 

 夏休みに入って、敬太郎と全然会えなくなった。

 教師と生徒だ。まぁ、仕方がない。

 

 でも、それにしたって、俺の誘いを全部断るなんて、あんまりじゃねぇか?敬太郎。もう、お前と同じ教室に居られるのは今年が最後なのに。

 

 それなのに、アイツと来たら!

 

——–お前、先生だろ!少しは周りの目を気にしろよ!

 

 毎回毎回そんな事ばっか言いやがって!イチローとばっか遊びやがって!

 

 そんな苛立ちが最高潮に達した時だった。

 嫌な夢を、見たのは。

 

 

 

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幕間:ずっとイラついていたものの

(いつしかそれは、不安に変わった)

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「あー、クソッ」

 

 

 俺は夏の暑さと、一日動き回った疲労で、無意識につく悪態を止められなかった。

 

「……一郎先生、こわいね」

「おこってるのかな」

「機嫌悪いね」

 

 周囲から、気づかわしげな生徒の声と視線が俺へと向けられている。どうやら、怖がらせてしまっているらしい。

あぁ。いけね。俺、教師だった。

そして、今は自然体験学習の引率者の一人でもある。

 

「……はぁっ。みんな、カレー食ったら、ちゃんと使った道具は自分達で洗うんだぞー」

 

 無理やり気力を振り絞って声を上げてみるが、どうにも本調子ではない。そりゃあそうだ。この俺をこんな風にした原因は、未だに取り除かれていないのだから。

 

 

『野田先生。敬太郎君まだ少し気分が悪いみたいなので、事務室でカレーは食べさせますね』

『は?』

『大丈夫です。私が付き添いますし、こちらの応援には、もう一名スタッフを付けさせますので』

『……それなら、俺が付き添いますよ。担任ですし』

『担任だから、ですよ。野田先生は、“皆の”先生ですからね。皆の事を見て上げてください』

 

 

 敬太郎が、童子と今も一緒に居る。

 その揺るぎようのない事実が、俺の不機嫌の最大にして、最強の原因だった。

 

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 正直、初めて会った瞬間から鼻に付く奴だとは思っていた。

 

 童子 喜一。

 顔がイケメン過ぎるのも、妙に甘ったるい態度も、慇懃さを失わない、その隙のない口調も。そのどれを取っても、気に食わなかった。

 

 そして何より気に食わないのが――。

 

『かわい』

 

 そう、俺に見せつけるように口にされる、敬太郎へのあからさまな態度だ。いや、俺は此処に来て最初にアイツの顔を見た時点で、本能的に察してはいた。

 

童子の嗜好が子供に対して向けられているという事が。そして、アイツは、それを俺に対して隠そうとはしなかった。

 

『“教師”って、いいですねぇ。こんな可愛い子達と毎日関われるなんて、俺も大学の時、面倒臭がらずに教職課程も受講しとばよかった』

『あ?』

『だって、野田先生も“お仲間”でしょ?あ、でも一応言っておきますけど、先生のように子供に手は出しませんよ。私の嗜好は鑑賞止まりなので』

 

 “お仲間”と言いながら、一郎と敬太郎のじゃれあう様子に、うっとりとした視線を送る童子に、俺はとっさに自分が教師である事を忘れた。

 

『テメェと一緒にすんなや、このド変態が』

 

 いつもの悪い癖だ。頭に血が上ると、一旦思考して冷静に考えるという事が出来ない。

 けど、今回のは仕方ねぇ。完全に許されて然りだ。

 

 俺の事を、何故だか勝手に小児愛好者のド変態教師にしてきた事も許せないが、それを最高に凌駕するレベルで許せないのは、あの気色の悪い目が、俺の幼馴染に向けられている事だ。

 

『……別に言いませんよ。何であれ、貴方はお仲間ですから。ふふ、子供って可愛いですよねぇ』

『仲間じゃねぇっつってんだろうが』

『もう、敬太郎君は特に可愛い。最高です。あの本格的な成長を前にしたアンバランスで小さな体、日焼けの跡。柔らかく色付いた頬。首の傾げ方なんか小鳥みたいで、でもやっぱり一番可愛いのは目ですよね?……はぁ、いいですねぇ。野田先生は。あんな可愛い子と付き合えて』

『おい、殴られねぇと止まんねぇか。その口は』

『ふむ、現職の先生ともなると、やっぱり口が堅い。まぁ、バレたらヤバイですもんねぇ。だからこそ、敢えて私は教職には就かなかったようなものです』

 

 予想以上にヤベェ奴だった。

 鑑賞止まり、なんて言ってやがるが本当かどうかあやしい。敬太郎に向けられる、その舐めるような視線に、俺は正直、怒髪天状態だった。もう、後先考えずに、学生時代のように殴りかかって良いだろうか。

 

——–一郎!お前、先生だろ!?

 

 敬太郎の声が耳をつく。あぁ、分かってるよ。

 

『おい、お前。アイツに手ぇ出してみろ。警察に突き出してやる』

『無駄ですよ。私を叩いても何も出ません』

『じゃあ、俺個人でお前をブチのめしてやるよ』

『という事は、やっぱり敬太郎君は野田先生専用の子なんですね?』

『……そういうレベルの話をしてんじゃねぇっ。ぶっ殺すぞマジで。誰が自分の生徒に手なんか出すか』

 

 そうだ。敬太郎は俺の幼馴染だ。

 色々あって、年齢差なんてものが出来ちまったが、それでも俺と敬太郎は――。

 

 

——–なに?野田先生。

 

 

『っ!』

『野田先生?』

 

——野、田くん……?

 

 その瞬間、俺の脳裏に、昨日の嫌な夢が過った。それは、実際にあった過去の記憶と共に生成された、俺の抱える“不安”そのものだった。

 背筋に、嫌な汗が流れる。

 

 

——-野田先生、なに?おれ、わかんないよ。

——-先生が、おれの幼馴染?何言ってるの?

——-おれの幼馴染はイチローだよ。先生じゃない。

 

 

 敬太郎が、俺に向ける筈もない警戒したような声でそう口にする。そうだ、あの夢の中の敬太郎にとっては、俺は、“野田一郎”は、ただの教師なのだ。

 幼馴染だった記憶など欠片もない。

 

 ただの、教師と生徒だ。

 

 そんな、嫌な夢を、俺は見てしまった。

 

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 

 

——-野田先生。ヘンだよ。

 

 

『あの、野田先生?』

『っ!』

 

 思考が一瞬飛んだ。

 気付けば、目の前には童子が、その口元に甘ったるい笑みを浮かべて俺の方を見ている。

 

『じゃあ、頂いていいですか?』

『は?』

 

 童子の問いかけに、俺は一瞬『何を』と思った。

しかし、その問いが俺の口を吐いて出る事はなかった。その問いの答えが、俺の方へと主張を露わにしてきたからだ。

 

 

『あははっ!やめろってっ!あははっ!もうっ!くすぐったい!イチロー!』

 

 

 俺の耳を駆け抜ける、イチローとじゃれ合う敬太郎の楽しそうな声。

 

 あぁぁぁぁっ!クソっ!どっちを向いても腹が立つ!

 っつーか!?敬太郎のヤツ!

何も知らねぇでイチローと楽しく騒ぎやがって!

 

『っくそ!』

 

 だいたい!なんだよ、アイツ!

夏休み、俺からの誘いを全部断りやがるし!俺が休み中に学校に居る日だって事前に全部教えてやってるのに、顔を出してもすぐに、イチローとどっかに行きやがる!

 

『……いいわけねぇだろ』

『ん?』

『いいわけねぇっつってんだよ。このド変態が』

 

 俺はそれだけ言うと、童子への答えを示すように、騒ぐ敬太郎とイチローに向かって拳を落としてやった。

そう、この拳には込められているのである!

 

『いってぇぇぇ!』

『いったぁぁぁ!』

 

 俺の生徒に手を出したら、お前も同じ目に合わせてやるよ、という宣戦布告の強い意思が。

決して、じゃれ合う二人に嫉妬した訳ではない。

 

 決して!

 

『……ったく』

 

 頭を抱えて痛がる二人の生徒を前に、俺はもう、何をどんな気持ちで受け止めればいいのか分からなくなっていた。

 

——-なぁ、なぁ!一郎!夏休み何する!?

——-ん-、プールも行きてぇし、カブトムシも捕まえてーよなぁ!

——-じゃあ、紙に全部書いて計画立てよ!じゃなきゃ忘れそうだもん!

——-だな!そしたら、今から敬太郎ん家に行こうぜ!

——-うん!

 

 

 遠くで、懐かしい声が聞こえた気がした。

 

 俺はただ、敬太郎と昔のように一緒に居たいだけなのだ。

俺も敬太郎も、中身はあの頃と何ら変わりない。それは去年の夏、共に敬太郎の家に行った時に確認し合った筈なのに。

 

 

———お前!先生だろ!少しは自分の立場を考えろよ!

 

 

 そんな事ばっか言って、俺との間に一線を引いてきやがる。教師という立場だからこそ、敬太郎に再び会う事が出来た。けれど、今じゃその立場が、俺と敬太郎の関係を、正直言って苛立つモノにさせているのは確かだった。

 

——“教師”って、いいですねぇ。

 

 馬鹿言え。

 俺は、今や完全に“教師”を辞めたくて仕方がねぇってのに。

 

『……辞めるか?教師』

 

 自分でも、本気か冗談か分かりかねるこの思考。

 ひとまず俺は、このキャンプの間中、俺の生徒をあのド変態の手から守る事だけを考える事にした、

 

 

 筈だったのに!

 

——

———

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 俺は、泣きじゃくる敬太郎を抱きかかえ、俺の前から去って行った童子の後ろ姿に、またしても拳を握りしめた。

 あのド変態が、敬太郎と二人きり。

 

 正直、何が何でも止めなきゃならなかったのに、またしても邪魔をしたのは“教師”という肩書。

 

——–野田先生は、“皆の”先生ですからね。

 

 あぁぁぁっ!クソッ!今から辞表でも何でも書いてやろうか!?

 

 そう、俺が片付けを行う生徒達を横目に頭を掻きむしった時だった。

 

「先生!」

「ん?どうした?」

 

 突然、俺の前へ、何故か俺以上に怒りをあらわにした女子が、後ろにもう一人、気弱そうな女子を引き連れてやってきた。

 杉と上木。この二人は敬太郎の一郎の班のメンバーだ。

 

「イチロー君が、敬太郎君の所に行くって勝手に片づけもしないで行っちゃいました!!もうっ!サイテー!」

「……きっと、敬太郎君と童子さんの居る、事務室に行ったんだと思います」

 

 その二人の証言通り、四班の炊事場に目をやってみれば、そこは一番片付けの遅れた……というか、一切行われていない状態の炊事場が、見るも無残な姿で放置されていた。

 

「ったく、イチローのヤツ」

 

 俺は頭を掻きむしっていた手で、そのまま顔を覆った。きっと、周囲の大人達からは「一郎先生も、大変だな」とでも思われている事だろう。

 いや、もう本当に、まいった。

 

「イチローのヤツ。勝手な事ばっかりしやがって」

 

 極めていつもの俺を演じながら、疲れたように言ってのける。しかしその実、その手で覆われた表情の下には、放たれた言葉とは似ても似つかぬ表情で彩られていた。

 

 おいおいおい!

イチロー!お前本当に……最高じゃねぇか!?

 

「二人共、ちょっと今から先生がイチローを連れ戻して来る。悪いが、出来る片付けをしててくれないか」

「わかりました!」

「はい」

 

 勝手な行動をする生徒をとっ捕まえに行くという大義名分を得た俺は、周囲に居るスタッフの一人に、チラと視線を向けた。すると、相手は「わかってますよ」と言わんばかりの表情で、俺を労うような目で見てくる。

 

「じゃ、お前らちゃんと片付けしとけよ。じゃなきゃ、この後の肝試し。二組だけ参加できなくなるからな!」

 

 急にテンションの上がった声で周囲の生徒達に言ってのけると、俺は、そのまま後ろを振り返る事なく、大股で敬太郎と童子の居る事務室を目指した。