105:恋しさ、劣情、欲情

 

        〇

 

『なぁ、サトシ?』

『ん?』

 

 金弥は聡志の横顔を見て思った。

 あぁ、これは明日にでも熱を出すぞ、と。

 聡志は先程から繰り返し繰り返し、手にしていたお茶を口に含んでいる。そして、きっと無意識だろう。片方の手で、何度も喉に触れていた。

 

『サトシ、喉痛いだろ』

『は?別に痛くないし』

 

 そう言ってスルリと金弥から視線を逸らす聡志に、金弥は確信した。これは絶対に、寝込むだろうな、と。

 

『サトシ。熱出たら連絡してよ。俺、看病するからさ』

『は?いいよ。つーか、何もないし。お前、明日、朝からバイトだろ?今日は早めに帰れよ』

『あぁ、バイト。確かにそうだった』

『おい。なんでキンのシフトを俺の方が覚えてんだよ』

 

 そう、呆れ顔で口にする聡志だが、言い終わった後、すぐにまたお茶を飲んだ。

 

 大人になり、聡志が喉をやられて熱を出す事は、少なくなっていた。けれど、それでも一年に一度か二度は、必ず体調を崩す。それもこれも、サトシが無理をするからだ。喉が痛かろうが、体調が芳しくなかろうが、聡志は頑張ってしまう。

 自分もきつい癖に、シフトを代わってやったり、事務所からのどんな小さな依頼も、絶対に率先して受けていく。

 

 そうやって、当たり前みたいな顔をして無理をする。その結果、やっぱり熱を出すのだ。

 

『サトシは?明日バイト?』

『いや、明日はない。いーだろ?』

『ちぇっ、いーなぁ』

『久々の休みだー。明日何しよっかなぁ!』

 

 そう、金弥の隣で背伸びをする聡志を、金弥は目を細めて眺めた。どうして、わざと平気なフリをしてみせるのか、金弥には欠片も理解できなかったのだ。

 その日『じゃあな』と言って聡志と別れた後、金弥はバイト仲間に電話をした。

 

 体調が悪いので、明日のシフトを代わってくれ、と。

 金弥も声優を長年目指してきた人間だ。電話越しでの演技など容易かった。二つ返事で了承の返事を引き出し、労いの言葉まで貰った。

 

『これで大丈夫だ』

 

 勿論嘘だ。体調など悪くない。金弥は昔から丈夫だ。熱なんて本当に、人生で数える程しか出た事がなかった。

 

『別に、“誰の”とは言ってねーし』

 

 こんな事で、金弥は良心の呵責に苛まれたりしない。

 目的があって、やりたい事がある。その為にしなければならない事もハッキリしていた。だから、それをした。ただ、それだけ。何に心を痛ませる必要があるというのか。

 

『……サトシは優し過ぎなんだよ』

 

 その辺、聡志は妙に相手の気持ちを慮るせいで、色々と下手くそだ。聡志は誰にでも優しい。見ていて、苛立つ事も多い。

 

『でも、それがサトシだ』

 

 金弥は必要そうなモノを買い込み、時が過ぎるのを待った。聡志の家の鍵は、もう持っている。

 

『そろそろ、だな』

 

 聡志が体調を崩すのは、決まって夜中だ。夜中に一番熱が上がる。そうやって、聡志が体調を崩し切った頃、金弥は聡志の部屋に向かう。

 あの、小学生の頃のように。

 

 ソッと、扉を開いて。

 

 熱にうかされる聡志の元へと近寄り、その顔を覗き込む。

 

『はぁっ、はぁっ。うぅ』

『さとしぃ、なんで俺に連絡しねーの?連絡しろっつったじゃん』

『っぅ、はぁっ』

『いっつもサトシは約束破るよな?平気そうなフリしてさ。この嘘つき』

 

 聡志の吐く息が熱い。ソッと金弥は聡志の首元に手を這わせてみた。熱いのだろう。その肌は汗でしっとりと汗ばんでいた。指に、肌が吸い付く。

 

『サトシ、あついね』

 

 幼い頃に、腹の中にあった恋しさが“劣情”に変わり、そして今はハッキリとした“欲情”に変わった。もう、聡志への色欲に、後ろめたさなどない。

 だって、それもこれも、全部、聡志がくれたものだ。

 

『キン君が、治してやるよ』

『っはっは』

 

 金弥はそのまま自身の唇を、微かに開いた聡志の口の中にねじ込んだ。苦し気な聡志の呼吸が、二人の唇の隙間から微かに漏れる。

 

『っんぅ』

 

 聡志の声が、耳の奥までねっとりとこびりつく。堪らない。この声を、金弥はずっと聴いていたかった。

 

『っはぁ、サトシ』

 

 必死に、脇目もふらず金弥は聡志の熱を全部受け取る。しかし、何をどうしたって聡志の熱が金弥に移った事は、一度もなかった。

 

 

 

 

 

『すぅ、すぅ、すぅ』

 

 聡志の寝息が聞こえる。

 

『さとしぃ。なんで、キン君に。助けてって言ってくれねーの?』

 

 眠る聡志の隣で、金弥はただひたすら聡志の体を撫でながら、熱い息を吐いた。やはり、その日も聡志の熱は、聡志の中に留まり続け、金弥の元へは来てくれなかった。