「……なぁ、お前さ。こんな声っつったら……もしかして、出せる？」
「え？」
「いや、無理だとは思う。ただ、お前だったら……少しは、似せた声で言って貰えるかもって思ってさ」
そう、先輩が、煮え切らない様子でボソボソと告げる。どうやら、先輩には出して貰いたい声の人が居るらしい。
「どんな人ですか？あ、いや。エルフですか？」
「……人間だ」
俺から視線を逸らし、両肘を膝につけ手を組む。先輩の尖った耳の先端は、少し赤かった。まさか、先輩から“人間”の声を所望されるとは思わなかった。てっきり、先輩は“人間”が嫌いだと思っていたが。
「あ」
——-アイツと、同じことを。……人間、だからか？
いつだったか、俺が先輩に名前を呼んで貰えて喜んだ時、先輩はそんな事を言っていた。「アイツ」と同じことを、と。もしかして、先輩は、そもそも“人間”がキライなワケではないのではないだろうか。
「それは、どんな人だったんですか？」
「……昔、俺の屋敷に飼われていた人間の男だ」
「飼われていた、」
「そうだ。父が、飼ってきた。そして、末っ子だった俺に与えられた」
何やら平然と凄い事を言われている気がする。そうか、確かにエーイチも言っていた。人間のオスは、金持ちの間ではそういった売買に使われる事もある、と。
「父から俺に、初めて買い与えて貰ったのがソイツだった。ペットとして、きちんと育てるように、と。俺は昔から、末っ子で甘えていると周囲から言われていたからな。何かを育てさせる事で、責任感を持たせたかったのかもしれない」
テザー先輩は懐かしさを噛み締めるように、つらつらと語り始めた。色気のある独特の声調が、俺の耳に静かに馴染む。やっぱり先輩の声は、良い声だ。
「その人は何て名前だったんですか？ペットって言うくらいだから、先輩が付けてあげたとか」
「いや、……まぁ、俺もまだ幼かったからな。ペットと言って与えられたソイツが、自分と同じ姿カタチをしているせいで、いまいちピンとこなかった。だから、知らずに尋ねたんだ。『お前の名前は？』と。そうしたら、アイツは……何故か酷く驚いていたな」
「あぁ」
その人間の驚きとやらが、俺にも少し分かった気がした。
このクリプラントでは、本当に“人間”の扱いは下の下だ。俺だって、ここに来た当初は、当たり前のように「人間」なんて呼ばれていたせいで、自分の存在が曖昧に感じる程だったのだから。
「アイツは名前を“ベイリー”と言った」
「ベイリー？」
「そうだ。そう言われたから、俺はもちろんそう呼んだ。ベイリーと。すると……たった、それだけの事で、アイツは泣いて喜んだんだ」
先輩が懐かしそうに言う。
あぁ、だからか。
だからあの時、俺がテザー先輩に名前を呼んで貰って喜んだ時に、先輩は驚いていたんだ。それこそ、『何故、ベイリーと同じような反応をするんだ？』と。
「名前って大事ですよ。呼ぶのも、呼ばれるのも。どっちも」
「……俺には、未だによく分からん感覚だ」
「でしょうね」
それは、先輩が昔から“テザー”と、名前を呼ばれるのが当たり前だったからだ。きっと俺も、ずっと向こうの世界に居たら気付かなかっただろう。
人は名前を呼ばれながら、名前の通りに扱われながら。
そして、“その名の者”になっていくのだから。
「それから、俺はベイリーの世話をするというより、ベイリーから世話を焼かれるようになった。まぁ、ペットと言ってもアイツは人間の大人だったからな。……ベイリーは俺を心の底から愛してくれた」
「へぇ」
先輩の声が、ドロドロと甘えたような色調を含み始めた。その声を聞いていると、何故だろう。イーサを思い出してしまう。
「俺なんて、ステーブル家の子供っつっても、八番目だからな。扱いなんて、そりゃあ雑なモンでさ。そんな風に扱って貰えたのは初めてで、俺もひたすらアイツに懐いた……その頃の俺は、ベイリーさえ居てくれれば、それで良いと思っていた」
先輩の言う“懐いた”が、一体どこまでの感情を含むモノだったのか。それは、俺にも分からない。
ただ、何となくこの話は他人事とは思えなかった。
なにせ、テザー先輩にとってのベイリーが、もしかするとイーサにとっての“俺”に近いのかも、と思ってしまったからだ。
誰からも振り向いてもらえない場所で、唯一自分に手を伸ばしてくれた相手。孤独の中で差し伸べられた手程、輝いて特別に見えるモノはない。
「しかし、成長するにつれて、俺はベイリーと過ごす時間が、どんどん減っていった。しかも、俺が学生寮に入って、あまり会えなくなっているうちに、アイツは一人だけどんどん年を取っていったんだ。そして、」
ここに来て先輩の声が詰まった。
ここまで来ると、何となく察しがついた。この手の話は俺達人間にも、似たような経験をした者は多いだろう。
それこそ、飼い主とペットなどは、まさにそうだ。
これは、寿命の差から生まれる必然の運命なのである。
「まだ、三十年ちょっとしか一緒に居なかったのに、ある日帰ったら……アイツはもう居なかった」
「……三十年ちょっとしか、か」
三十年を“たった”と言ってしまう所に、やはりエルフと人間には、越えようのない時間の壁が存在する事を思い知った。
「こんなにすぐ……別れが来るなんて知らなかったし、知ろうともしなかった。でも、今思えば、俺は怖かっただけなのかもしれない。俺の感じるこの一瞬が、アイツの寿命のどれくらいを占めるかなんて……考えると、恐ろしくて堪らなかったから。だから、どこかでベイリーが年老いていくのを知りながら、見て見ぬ振りをしてきたんだ」
「……」
「俺は、あんなに大好きだったベイリーを……ずっと一人ぼっちにさせたんだ」
ベイリーには俺しか居なかったのに。
俺にも、ベイリーだけだったのに。
もう、殆ど泣いているような声で話し終えたテザー先輩に、俺は思わず腕を組んで考えた。先輩の希望は分かった。
——–あーぁ。サミシーサミシー。だから、こーして毎晩、ぬくもりを求めて夜の街をさまよっちゃうんだー！
先輩がしこたま酔っぱらった日の夜、確かに先輩はそう言っていた。
そう、そうなのだ。分かった。よく、分かった。
「よし」
「……なにがだよ」
先輩は、声だけでもいいから「ベイリー」に会いたいのだ。そして、甘えたいのだろう。「ベイリー」に。だったら、俺のやる事は一つだ。ベイリーについて知る事。何事も、知る事から全ては始まる。
「先輩は、そのベイリーに何て呼ばれてたんですか？」
「……っ」
尋ねてみるが、テザー先輩は俺からユルリと視線を逸らすと、そのまま濡れた髪の毛をタオルで拭い始めた。今更だ。
「……やっぱりいい。会った事もないヤツの声など、出来ないだろう」
「笑いませんよ、別に」
「……て、テザーだ」
「絶対に違いますよね、それ」
普通に名前で呼ばれていたなら、最初から口ごもったりしない筈だ。俺は、椅子から立ち上がると、カップを机に置いた。そして、今やベッドの上で完全に俯いてしまったテザー先輩の、真っ赤な耳を見下ろしながら再び尋ねた。
「何て、呼ばれてたんですか？」
「……ぐ」
テザー先輩の髪の毛を拭う手が、完全に固まってしまっている。先輩の似合わない呻き声と共に訪れるしばしの沈黙。しかし、その沈黙も、長くは続かなかった。
「タ」
「た？」
「タンタン、ちゃん」
「タンタンちゃん？」
「……ああ」
予想以上に意味の分からない呼び方だった。俺は、何度も音を確認するように「タンタンちゃん」を繰り返し、口の中で転がしてみた。
うん、本当に意味が分からない。
「……タンタンちゃん、か」
「っ」
ただ、呼び方に意味などいらない。小さい頃の呼び方なんてそんなモンだ。唯一つ、分かる事と言えば、テザー先輩が、ベイリーの前でだけは「タンタンちゃん」として、甘えられた。それだけだ。
「タンタンちゃん……タンタンちゃん……あの、テザー先ぱ、」
「もういいっ！この件は無しだ！帰れ！礼もいらん！」
急に先輩は真っ赤な顔で立ち上がると、肩で息をしながら俺を睨み付けた。いや、別に俺は先輩を揶揄って「タンタンちゃん」を連呼していたワケじゃない。
俺の中で、見た事も会った事もないキャラに声を当てる際に、これは必要な工程なのだ。
「先輩」
「うるさいっ！もう帰れ！帰ってくれ！」
「帰りませんよ。まだ俺は“ベイリー”になれてない」
「は？お前、何を……」
そう。これは、先輩の大切な“ベイリー”になる為のオーディションだ。選ばれるかどうか。ちゃんと、成り切れるかどうか。
“オーディション”なんて、いつも緊張して苦手だったけど、こうやって、キャラに思いを馳せて声を当てはめていく作業が……俺は嫌いじゃなかった。
いやむしろ、
「その男性は……ベイリーはどんな喋り方でした？声は高かった？低かった？話すスピードは？イントネーションは強かった？それとも平坦？あぁ、あと、何が好きでした？見た目は？身長は？」
「ちょっ、なっ」
「ベイリーの事、なんでも教えてください！俺、ベイリーの声やってみたいです！やらせてください！」
「はぁっ！？」
大好きだった。
あぁ、選ばれたい、選ばれたい！
選ばれるって嬉しいじゃないか。『貴方に決めました！』って、たった“一人”に選ばれる。そんなの、最高だ。そんな興奮他にない。
心が震える！
「お、おい。サトシ・ナカモト。お前、何を……」
「俺、ベイリーがやりたい！先輩！俺をオーディションしてください！」
「おーでぃしょん？」
「はい！オーディションです！」
未だに、濃いモヤの向こうに居るベイリー。
まだ、どんな姿カタチなのかも分からない相手だが、そんな彼に対し手を伸ばすように、俺はテザー先輩の腕を掴んだ。
「……っはぁ、う、ぁ」
真っ赤な顔。震える唇。泣きそうな目。そこには、俺が未だかつて見た事のないテザー先輩が居た。
「おれは、また、べいりーに会えるのか」
そう、尋ねてくる先輩に俺は大きく息を吐き出すように言った。
「善処します！」
