136:ベイリー役のオーディション

 

 

『タンタンちゃん』

 

 その呼び方は、幼いテザー先輩が上手に一人で“靴下”を履けなかった事から、そう呼ばれ始めたらしい。

 

「ベイリーの故郷では、靴下の事を幼い子供に言う際“たんたん”と呼ぶと言っていた」

「へぇ」

 

 だから、“タンタンちゃん”と言う呼び方が、二人の間で定着したワケか。

 と、こんな風にテザー先輩はベイリーとの思い出を、色々と話してくれた。最初こそ恥ずかしがっていたが、どうやら俺が本気でバカにしたりしないと知ると、むしろ進んで話してくれるようになっていた。

 きっと、テザー先輩もベイリーの事を、本当は誰かに聞いて貰いたくてたまらなかったのだろう。

 

「ベイリーは、薄いクリーム色の髪色をしていて、長さは……そうだな、今のお前くらいだった。瞳の色は濃い茶色。目は大きい方ではなかったが、垂れ目がちで、笑うと頬の、この部分が少しくぼむ。あと、いつも石鹸の匂いがしていた」

「うんうん。クリーム色の髪、濃い茶色の瞳。垂れ目、えくぼ。石鹸の香り……」

 

 三百年以上前に亡くなった人間の事を、そりゃあもうテザー先輩はよく覚えていた。なにせ歩き方の癖から、耳の裏にあるホクロに至るまで、ベイリーのありとあらゆる身体的特徴を淀みなく口にしたのだ。

 

「少し……変態っぽいな。そう、仲本聡志は腹の奥底で密かに思った」

「なんだ?どうした?」

「いえ、何でもありません。続けてください」

「そうか」

 

まぁ、それ程にまで、先輩の中の“ベイリー”は大きな存在だったのだろう。おかげで、俺の中でモヤの中に隠れていたベイリーのキャラデザ……いや容姿が、少しずつ姿を現していった。

 

「俺はベイリーに背中を撫でて貰えるのが好きだった。あぁ、確か……ベイリーもお前のように、すぐに床に座り込む癖があってな。基本、床にばかり座り込んでいた。俺はそんなベイリーの太腿に頭を乗せ、背中に手を回してよく抱き着いていた」

「うんうん」

「そうするとな、ベイリーは俺の背中を、上から下に撫でて……こう言う」

 

——–タンタンちゃんは、今日も甘えん坊さんで可愛いね。良い子、良い子。

 

 テザー先輩の口調が、少しいつもよりもゆっくりになる。声の調子も、いつものテザー先輩の声より少しだけ高い事から、多少なりとも似せて喋ってくれているのだろう。

 こういうのは、ありがたい。ベイリーの事を直接知っているのはテザー先輩だけなのだから。

 

「声調は高めで、ゆっくり。語尾は……どうだろう。伸ばすか、引くか。ベイリーの性格と、幼い子供を相手にしている事を前提で考えると、少し伸ばすか」

「……」

 

 よし。ある程度、声の的を絞った。

 あとは、声を出しながら詰めていくしかない。そろそろ、テザー先輩に声を聞いて貰った方がいいだろう。そこから細部は詰めていけばいい。

 

なにも、いつものオーディションと違って一発勝負というワケではないのだから。

 

「テザー先輩、そろそろ声を聞いてもらっていいですか?」

 

そう、俺が頭を上げてみると、そこには、どこかポカンとした顔で此方を見つめる先輩の姿があった。声を演じる時、俺の顔の情報は邪魔になるから見ないで欲しいのだが。

 

「あの、出来れば目を瞑ってて欲しいんですけど」

「あ、あぁ」

「いや、待てよ……そうだな」

「……」

 

 俺は腰掛けていた椅子から立ち上がると、最初にこの部屋に来た時のように床に座り込んだ。

 

「お、おい。サトシ・ナカモト。お前、なにをしている?」

「先輩、こっち来てください」

「は?」

「すみません。さっき先輩がベイリーにしていたって言ってたアレ、俺にしてもらっていいですか?」

「は?」

「あの、太腿に顔を乗せて、ってヤツです」

「はぁ!?」

 

 そんなに驚くような事を、俺は言っただろうか。俺は、自分の太腿を二、三度叩いてみせる。早くして欲しい。俺は早くベイリーになってみたいのだから。

 

「な、なっ」

「すみません。風呂に入ったのは昨日の夜なので、多分、石鹸の匂いはしないと思うんですけど」

「お前、何を言っているんだ!?」

「だから、俺の太腿に顔を乗せて背中に腕を回してくださいと言っているんですよ」

「……う」

 

 戸惑う先輩に、俺は今度こそ口に出して「早く」と、短く言い切った。すると、先輩は弾かれたようにベッドから立ち上がる。そして、そろそろと俺の元に近寄ってきたかと思うと、遥か上空から俺の顔を見下ろしたまま固まってしまった。

 

「はい、どうぞ」

「……これは、意味があるのか」

「ある。めちゃくちゃ、あります。これが、ベイリーの声を再現する為の肝と言っても過言じゃない」

「そう、なのか」

「そうです。先輩、ベイリーに会いたくないんですか?」

「っぐ」

 

 先輩はようやく観念したのか俺の前へと座り込むと、ゆっくり俺の正座した足の上へと体を倒してきた。尖った耳の先だけでなく、髪の間から覗く首筋も、今や真っ赤に染まり切ってしまっている。

 

「ちゃんと背中に手を回してください」

「あ、あぁ」

 

 そろそろと、俺の背中に先輩の腕が回るのを感じた。

そのせいで、先輩の頭がグッと俺の腹に押し付けられる。少し苦しい。きっと“タンタンちゃん”の時は、もっと小さくて丸かった筈だ。今、ここに居るのはまだ“テザー先輩”というワケか。

 

「よし、これでいい」

「……」

 

 おかしいな。俺は幼い頃の先輩なんて知る筈もないのに、何故か俺の腹に頭を寄せて抱き着いてくる先輩に、「大きくなったなぁ」なんて思ってしまった。

 

「ふーー」

 

 息を吐く。

 そう、こういうのは、必ずしも“完璧に”ベイリーの声と重なる必要はない。

 

 そもそも、俺はベイリーの声に、完璧になり切ろうなどとは思っていないのだ。俺は、先輩の記憶の中に居るベイリーの声に、“成り変わろう”としている。

 もうベイリーはこの世に居ない。ただ、テザー先輩の中に居る“ベイリー”というキャラクターに、今から声を当てる。

 

 三百年も前の、曖昧な記憶を“俺の声”で塗り替えてやる。

 

 よし、テザー先輩。今からしっかりと、

 

 

「……俺の声を聴け」