147:もし、俺が死んだら

 

 

 飯塚邦弘さんが亡くなった。

 

 

 その事を知ったのは、バイト終わりの更衣室だった。着替えながら、ふと見たスマホのニュース画面に、俺は釘付けになっていた。

 

 

・声優 飯塚邦弘 死去、声優達による追悼続々

 

 

『え、嘘だろ……?』

 

 確かに、最近声を聞く事はあまりなかった。でも、俺は辛かったり挫けそうになると、いつも飯塚さんの金言を思い出していた。だから、なんとなく俺の中での飯塚さんは、ずっと“現役”だったのだ。

 

 でも、現実ではそうではなかった。

 

『……そっか、もう八十五歳だったんだ。そっか。そうだよな』

 

 ニュースの詳細ぺージを読みながら、俺はなんだか立っていられなくて、その場に座り込んだ。

 

 結局、俺が飯塚さんに直接会う事が出来たのは、養成所時代に講師として来てもらった時の一度きりだった。でも、俺は飯塚さんの出演していたアニメをそりゃあもうたくさん見ていた。だから、本当に“初めて”だったのだ。

 

 他人の“死”というモノに、ここまで心を激しく揺さぶられたのは。

俺はロッカーから自分の鞄を引き寄せると、乱暴に一冊のノートを取り出した。

 

 パラパラとページを捲る。

 このノートは、俺が傍に置いておきたいと思った言葉を、一冊にまとめたモノだ。家にはもっと大量のノートがある。

 

 その中でも、このノートは特別。いつでも、どこでも持ち歩く。挫けそうな俺の心を支える松葉杖みたいなモノ。

 

 ピタリと、あるページで俺は手を止めた。

 

≪才能というのは、人生で幾度も巡ってくる機会を迷いなく掴み取る握力と、失敗した時に、そこから学べる冷静さだ。今、まさにベテランだ何だと呼ばれる奴らの殆どは、最速で失敗を繰り返し、それでも立ち上がって来た、神経のイカれた馬鹿共の事だ≫

 

『……飯塚さん』

 

コレを見て、何度、飯塚さんに背中を押してもらってきたか分からない。

何度やっても結果を出せない自分に対する、苛立ち、そして不甲斐なさ。続々とデビューしていく同期や後輩たちに対する焦り。

 

そして、なにより。

 

——–サトシー!一緒に台詞の読み合わせしようぜー!

 

 金弥に対する、嫉妬や劣等感は、日に日に抑え切れない程に膨れ上がっていた。そんな、自分の中から溢れ出しそうになる怪物を、必死に抑え込みながら、俺はこのページに何度も心を保たせてもらったのだ。

 

——–まだまだ、キミはこれからじゃないか。

 

今、俺の感じているこの醜い感情も、決して無駄ではなく、全ては夢に向かう為の伏線である。そう、飯塚さんに言って貰えている気さえした。だから、俺はずっと堪えてこれたのに。

 

 そんな、飯塚さんが亡くなった。

 

「声優界の重鎮、逝く。か」

 

 俺はニュースの中にある言葉を呟いて思った。

 飯塚さんは、確かに俺の中でも“重し”だったのだ、と。

 

 

——–

——

—-

 

 

『サトシー、今日泊まってっていい?』

『キン』

 

 飯塚さんが亡くなって数日後。

 金弥が何てことない顔で、俺の部屋に来た。まぁ、そりゃあそうだ。俺だって、飯塚さんが亡くなったからって、日常生活が一変したワケではない。

 

 どんなに俺の中で大きな存在であったとしても、飯塚さんは、決して俺の生活に接する人ではなかったのだから。

 

『サトシ、まだ落ち込んでるの?』

『……俺が落ち込んでるように見えるのか?』

『見えるね』

 

 即答する金弥に、俺は肩をすくめるしかなかった。

 

『うん、落ち込んでる』

『……どんだけ好きだったんだよ。飯塚さんの事』

『好きっていうか、』

 

 金弥が俺の部屋の定位置に腰かける。俺は、いつもだったら脇に積んで置いてある布団を背にして座るのだが、今日はなんとなく金弥の隣へと座った。

 

『俺の一部だった、みたいな』

『……は?』

 

 金弥の口から、低い声が漏れる。金弥は、俺が飯塚さんの話をすると途端に不機嫌になる。だから、普段は余り積極的にその話はしないようにしているのだが……今日は金弥が悪い。

 

 俺が落ち込んでるって分かってて家に来たんだから。

 

『俺、苦しい時。いつも飯塚さんの金言に助けてもらってた』

『……』

 

 金弥の隣で、肩と肩が触れ合うか触れ合わないかの距離感で俺はポツポツと話す。ただ、若干の気まずさもあって、無意味に携帯をイジる。

 

『なんで、苦しい時に頼る相手が……飯塚さんなんだよ』

『……だって』

『なんで俺じゃねーの?』

 

 おかしな事を言う。確かに金弥は幼馴染だ。もちろん、大切な相手だが、それと同時に好敵手でもある。そもそも、俺の苦しさの中には“金弥”も入っているのだ。それなのに、どうしてソレを金弥になんて言えるだろうか。

 

『こういうのは、誰かに言って助けて貰うようなモンじゃねーの。自分で踏ん張らないと』

『でも、飯塚さんには頼ってんじゃん』

『飯塚さんの言葉な。こ、と、ば。辛い気持ちは、直接誰かになんてすぐには言えねーよ』

『でも、』

 

 携帯をぼんやりと眺めながらポソポソと喋っていると、またしてもニュースの一覧の中に声優の名前を見つけた。

 

 

 

・中里譲 盟友 飯塚邦弘へ弔辞を送る【コメント全文】

 

 

 その瞬間、俺は何も考えずに画面をタップしていた。

そこには、飯塚さんの告別式で、中里さんが弔辞を送った事。そして、その弔辞の全文が掲載されていた。

 

 その一文一文を、俺は上から順に読み飛ばすことなく目で追う。

 

『なんで飯塚さんがサトシの一部になれるのに。俺じゃなれねーの?』

『……』

『なぁ、サトシ』

 

 中里 譲。俺の大好きな声優の一人。

 

数多くの作品で共演してきた中里さんを、飯塚さんはどのインタビュー記事でも誇らしげに“盟友”と呼んでいた。

 俺は、飯塚さんに心を支えてもらってきた。だから、こんなにもショックを受けてしまっている。

 

『ねぇってば!サトシ、聞いてる?』

『……』

 

でも、中里さんはどうだ?

 

 弔辞の全文を読み終わった瞬間、俺は肩をゆすってくる金弥に真正面から向き合った。

 

『……は?サトシ。なに、泣いてんの』

『……』

 

 金弥の戸惑った視線が俺の顔に集中する。瞬きすら忘れたように、ジッと見つめてくる金弥の目に、俺は静かに携帯を床に置いた。

 

『さとし。ごめん、肩痛かった?』

『……ううん』

『じゃあ、なに?お、おれ……きん君、何かサトシにいやなことした?ねぇ、さとし』

 

 なんとも見当はずれな心配を、それこそ本気でしてくる金弥に対し俺は小さく首を振り続ける。

金弥は昔からそう。俺が泣くと、驚くほど不安定になる。だから、俺は金弥の前では泣かないようにしていたのに。

 

この時は、どうしても止められなかった。

 

『さとし、さとし……なに。どうしたの?何が悲しいの?』

『……』

『ねぇ、きん君にも教えてよ。なぁ、飯塚さんのこと?そんなに悲しいの?ねぇ、言えよ……きん君も、さとしの……一部にしてよ』

『きん』

『なに?』

『……きんは、』

 

 中里さんは、俺と違って飯塚さんと沢山の思い出があるのだろう。

それこそ、俺と金弥のように、ずっと隣に居たからこそ“盟友”なんて誇らしげに口に出来るのだから。打てば響くように、互いに声を出し合ってきた。

 

 そんな相手が、この世界から自分を置いて居なくなった。

 

『……』

『サトシ、言って』

 

 その全ての気持ちが、中里さんの弔辞の最後の一文へと刻まれていた。

 

 

——–クニ。お前は、俺の声の一部だったよ。

 

 

『きん、お前はもうずっと前から……おれの声の一部だよ』