171:ジェローム・ボルカ―の憂鬱

 

 

 

 その日、ジェローム・ボルカ―は声明を発した。

 

 

「……神の加護が我々とともにあらんことを」

 

 

固くワックスで固めた茶色の髪の毛を手で撫でつけ、深く息を吸い込む。目の前にあるのは小型マイク。そこで、ジェロームが一言声を発するだけで、国中の人間に伝わる。

 

 何の声明か。

 

 

「全軍、進軍せよ」

 

 

エルフの国、クリプラントへの進軍声明だ。

 その声は、リーガラントの中枢都市ラエルから、各地に配備されていた常備軍、予備軍、そして、国民全てに向けて放たれた。

 

 淀みなく、迷いのない真っ直ぐな声。

どことなく少年のような純粋さを秘めたその声は、だからと言って相手に頼りなさを与えたりはしなかった。むしろその逆で、彼の声は常に軍や国民達に多大なる安心感を与える。

 

「俺が皆を、完全なる勝利へと導こう!勝利は、既にわが手の中にあり!」

 

 マイクなど通さずとも、どこまでも遠くまで響き渡りそうな、芯の通った声。そう、彼の声は、常に自信に満ち溢れているように聞こえた。

しかし、そんな彼の声の本質が、“優しさ”にあるという事を知る者は、そう多くはない。

 

皆がジェロームを前に口にする言葉と言えば、『さすがは、革命の一族であるボルカ―家の嫡男だ』である。

 

ジェローム・ボルカ―。

彼こそが、この人間達の住まうリーガラント連合国家の現総帥を務める男だ。

 

 そんな彼は、現在。声明の発出を終え、総帥室で静かに椅子に腰かけていた。ピシリと固められていた髪の毛も、風呂を終えた今では、彼特有のクセッ毛のせいで、フワフワと空気を含んで軽くなっている。

 

 そのせいか、昼間よりも見た目は相当若く見えた。

 

「……勝利、か」

 

 それもその筈。このジェロームという男。まだまだ年若く三十すら超えていない。そう、実際にまだ彼は年若い……若造なのである。

所以、経験値がモノを言う政治や軍といった年功序列の色濃く残る世界において、年若い彼がトップを務めるのには訳があった。

 

「この戦いにおいて、“勝利”とは一体何だろうな?ハルヒコ」

「ジェローム、まだ迷っているのかい」

「……ああ。迷っている。俺は、常に迷っている。父と違ってな」

 

総帥室の脇にある父親の写真に目をやりながら、ジェロームは小さく溜息を吐いた。彼の父は、幼い頃に既に他界している。

 だからこそ、幼い頃から言葉や立ち居振る舞いに“自信”という武装を身に付けて生きていくしかなかった。

 

 ジェロームの鎧は、いつも見掛け倒しの“ハッタリ”なのである。

 

「もう、進軍の指示を出した後だ。そんな事を考えても仕方がないよ。さぁ、前を向こう。ジェローム」

 

 古臭い机の上で頭を抱えるジェロームに対し、ハルヒコと呼ばれた黒髪の男は、その肩を軽く叩いた。西洋人が政治の中枢を担うリーガラントにおいて、ハルヒコのような東洋人が、その中に混じるのは、非常に珍しい。

 

「ハルヒコ。それは思考の停止だ。前向きなんて言葉で、現状の判断の正誤をうやむやにするべきじゃないと思うが、」

「でも、そんな事を言っていたら、刻一刻と移り変わる戦場に対し思考が乗り遅れてしまう。今はもう“現状”に集中しなければ。それこそ多くの犠牲者が出てしまう。それだけは避けなければ」

 

 ハルヒコは東洋人でありながら、総帥であるジェロームの相談役を担う、言わば右腕のような存在だった。

そして、それは彼の一族が、八百年前から代々担ってきた役割でもある。

 

「な?ジェローム。もう悩むならば過去ではなく、未来に対して悩まないか?」

 

 そんなハルヒコの優し気な笑みと共に送られる、圧倒的なまでの正論に、ジェロームは再び肩を落とした。

 

「しかし、俺の見立てでは……この戦争はどう考えてもリスクが大き過ぎる。本来なら選ぶべきではない。いくら議会と世論が戦争を望んでいたとしても、」

「ジェローム。リターンの源泉は、いつだってリスクだよ」

 

 パンとリズムよく返された言葉は、思ったよりも重かった。これでは、グウの音も出ない。

 

「……口では、本当にお前に敵わないな。ハルヒコ」

「ふふ、国家元帥を負かしてしまう相談役なんて解任した方がいい。もしかしたら、この男は、君を傀儡にして裏で国を牛耳るつもりかもしれないよ」

 

 どこかいたずらっぽく言ってのけるハルヒコに、ジェロームはやっと肩の力を抜いた。

 

「ハルヒコの傀儡か……それはそれで楽しそうだ」

「楽しそう?まったく、自分だけラクしようなんてそうはいかないよ。ジェロームには、これからも矢面に立ってもらわないと」

「矢面か……俺には性に合わない。絶対にハルヒコの方が、」

「ハイハイ。もうこの話を転がすのは終わりだ。だいたい、俺に人の前に立つ資質なんてないよ」

 

 パンパンと両手を叩く音がする。

これは、ジェロームがグズグズと何かに悩んだ際に、必ずと言っていい程、ハルヒコがする癖だ。話題を強制的に変えたい時など、まるで子供か犬でも相手にするかのような態度で放たれる。

 

「そんな事は無い。ハルヒコなら立派にやれると思うけどな」

 

 しかし、それをソコで終わらせないのもまたジェロームである。そんな軽い音で終わらせられる程、彼の腹の中に渦巻くモヤモヤは晴れたりしない。

 

 考えても仕方ないと言われても考えるのを止めない。そもそも、自分の頭の中をそこまで見事にコントロールする事など出来やしないのだ。考えまいとしても考えてしまう。モンモンと。延々と。

 

所以、彼は非常に頭でっかちな男なのだ。

 

 

「まったく、ジェロームはどうしてこう自分に自信がないんだろうね。皆の前では立派にやってみせる癖に」

「クリプラントは……あの、ヴィタリックが治めていた国だ」

「そのヴィタリックも、もうこの世には居ない。いくら長命のエルフでも寿命には抗えないって事が分かったね。今が攻め時なのは確かだよ」

 

 清々したとばかりに言ってのけるハルヒコに対し、ジェロームの表情は一向に晴れる事は無い。

 

「……でも、次は息子が出てくる」

「そりゃあね。世代交代はどこの世界でも必ず起こる事だ」

「きっと、優秀なのだろうな……」

「え、ちょっと待って!ジェローム!」

「なんだ」

 

 突然、勢いよく総帥の机に両手をついてきたハルヒコに、ジェロームは眉を顰めた。