215:ジェローム・ボルカーの苦悩

 

 

 

 真っ暗な世界の中で、ジェロームの五感を揺さぶるものがいくつかあった。

 それは、隣から香ってくる出来立てのコーヒーの香りであったり、気づかわしげな様子で此方を見ているであろうハルヒコの特有の浅い息遣いであったり。

 

 視界からの情報が一切遮断されているが故に、普段なら逃してしまいそうな微かな世界の機微をもしっかりと掴み取れる。

 

 そして、その中で最もジェロームを揺さぶったモノ、それは。

 

『全軍をクリプラントに進軍させた時、ジェローム。お前は、今みたいに楽しかったか?』

 

 逃がさないとばかりに“痛い所”を突いてくる、自分と同じ声だった。まるで、本当に自問自答をしているようだ。いや、確かに自問自答なのかもしれない。なにせ、本当に自分の声が聞こえるのだから。

 

「楽しいわけ、ないだろう」

 

 漏れ出た声はジェロームが思ったよりも随分と感情が露わになっている気がした。なんだろう、もしかして自分は怒っているのだろうか、とジェロームはまるで他人事のように思う。

 

『そうか。俺は楽しかったが、お前はどうやら違うらしいな』

「楽しかった?」

『ああ、楽しかったさ。全軍を撤退させた時。俺は、これまでの人生で一番心が震えた。だがジェローム、お前は“そう”じゃなかったんだな』

 

 一体、どちらが自分の発言で、どちらが相手の発言なのかも分からなくなっていた。ただ、ジェロームは研ぎ澄まされる五感の中で、ただひたすら自分の声にだけ集中した。

 

「兵を死地に向かわせる事を、楽しいなどと思える筈もないだろう」

『でも、お前は兵を進軍させたじゃないか。それがやりたかったからそうしたんじゃないのか?』

「……俺は、国家元帥だ。それはすなわち、国家と民意の総意という事に他ならない。そこに“ジェローム・ボルカー”など存在しない」

 

 じわじわと体が、熱くなっていく気がした。

 今の台詞は誰の言葉だ?本当にジェローム・ボルカーという人物は、この世に存在しないのか?そう、彼が思った時だ。

 

『そうか。じゃあ、この世に俺は存在しないのか?』

 

 思っていた言葉がそのまま実際に言葉となって、ジェロームの耳を突く。まるで、本当に自問自答のようだ。

 

「……しない。俺なんて、どこにも存在しない」

 

 力無く吐き出された言葉は、何とも頼りなく震えていた。これが本当に、一国を統べる者の声だろうか。

 同時に隣からは息を呑む声が聞こえてくる。ハルヒコの声だ。声無き声にも関わらず、ジェロームにはハルヒコが悲しそうな顔で、こちらを見ているのが手に取るように分かった。

 

「ジェローム、お前」

 

 ハルヒコの声と共に、カランと、遠くにベルが鳴ったのが聞こえた。どうやら、また客が来たようだ。この店にこんなにも客が入るなんて珍しい事もあるものだ。

 そうジェロームが微かに現実逃避を図った時だった。

 

『俺の声を聴け、ジェローム。“俺”は、今ここに居るぞ』

 

 余りにも強い意思を帯びた声に、一気に意識を引き戻されてしまった。

 

『この声は誰の声だ?そう、お前の声だ。よく聴けよ。俺が証明してやる。ここにお前が居るって事を』

「……なん、だと?」

 

 一瞬のよそ見すら許さないとでも言うような声圧に、ジェロームは息を詰まらせた。お前はここに居る。そう、逃げるなんて許さないとでも言うように、その声はジェロームの腕をしっかりと掴むのだ。

 

『ジェローム、お前は戦争なんかしたくないんだ。そうだろ?』

「……したいかしたくないか、など問題ではない」

『へぇ、そうなのか?』

「そうだ。クリプラントから奪わねば、我が国が衰退する。目先の犠牲に囚われて躊躇っている場合ではない。今までも、人類はそうやって発展を遂げてきた。だから、これからもそうするしかない」

 

 自らの口からスラスラと出てくる言葉に、ジェロームは酷く納得してしまった。そう、だから自分は間違っていない。正しい事をしているのだ。

 そう、ジェロームが自問自答に明確な答えを打ち出したと胸を撫で下ろした時だ。

 

『なぁ、ジェローム。兵の犠牲なんてさ、お前はそもそもそんな目先の事なんか気にしちゃいないだろ?』

「な、に?」

 

 しかし、その声はジェロームを捕らえて一切離そうとはしなかった。

 それどころか、掴まれた腕を引っ張り、ジェロームをどこかへ連れて行こうとしてくる。一体、この腕は自分をどこへ導こうというのか。

 

『そもそも、お前は感情に支配されて判断を誤ったりしない。そう、政治に感情は挟まない。他国も軍も、お前にとっては駒に過ぎない。お前は分かってるんだ』

「……」

『この戦争の先に、リーガラントの発展は無いと』

「言うなっ!」

 

 手を離せ!

 ジェロームは実際誰に掴まれている訳でもない自身の腕を、テーブルの下で力強く掴んだ。

 今、自分は一体誰に「離せ」と思った?

 そんなの答えは簡単である。これは自問自答なのだ。だとしたら、腕を掴んでくる相手は、たった一人に他ならない。

 

『ジェローム、お前が守りたいのは国でも民でもない。自分だ』

「違う!俺は民意で選ばれただけの象徴だ。国と民の為に、その身を捧げる存在でしかない!自分を守ろうなどと思った事は、ただの一度も無い!」

『じゃあ何でだ?優秀なお前は分かっているんだろ?戦争の向こうに、必ずリーガラントの衰退が待ち受けているって事を。それを分かっていながら声を上げないのは何でだ?それは、』

「黙れ!」

 

 ジェロームは叫んだ。

 もう、聞いちゃいられない。いや、この声に耳を傾けてはいけない。ジェロームはハッキリと拒絶した。

 

「クリプラントから奪えば、全て解決するんだ!!リーガラントの繁栄は続くし!我が国を脅かす敵国も消える!だから、俺は進軍させた!俺はそれが正しいと、本当にっ」

 

 思ったんだ!

 そう、ジェロームが声を上げる前に耳の奥で懐かしい声が聞こえた。

 

——ジェローム。よく覚えておきなさい。

 

 それは、よく夢で聞く父の声だった。

 

「ぁ」

 

——-国同士の交わりに置いては“戦争”か“交易”か、この二つしか存在しない。そして、最も容易に始められる癖に、最も政治手腕が問われるのは“戦争”だ。そして、ジェローム。お前には――。

 

「……ちち、うえ」

「ジェローム?」

 

 ジェロームの隣からハルヒコの声が聞こえてきた。

 この声は、いつもジェロームの傍らにあった。そして、いつも一番にジェロームの事だけを思ってくれていた。そう、“ジェローム”の事だけを。

 

「ハルヒコ……」

 

 ジェロームは目を開けた。目を開けて、長年の友を見る。

 

「昔、父に言われた事があるんだ……」

「なにを?何を言われた?」

 

 微かに肩を揺らすジェロームを、ハルヒコの両手が支えるように触れた。ハルヒコの手も、服越しにすら分かるほど熱い。

 

「お前に、戦争をやりぬく政治手腕はない、と」

「っ!ジェローム、それはまだキミが幼い頃に言われた事だろう!君の父上は、今の君を知らない!」

「いや、そもそも、そんな手腕を持ち合わせる指導者など、そうそう居ないんだ」

「ジェローム!お願いだから、自分を過小評価するな!君は自分が思っている以上に素晴らしい人間なんだ!そう、何度言えばわかってくれる!?」

「ただ、ハルヒコ。父はこうも言ってくれたんだ」

 

 悲鳴のようなハルヒコの叫びに、ジェロームは首を横に振った。それは自分を卑下する否定の行為ではない。

 

——–お前には俺にはない確かな“先見の明”がある。あとは、自分を信じて、声を届ける勇気を持ちなさい。お前に必要なのは“勇気”だけだ。

 

「ハルヒコ、俺は自分を過小評価なんてしていない」

 

 自分に出来る事、出来ない事。

 それをハッキリと判断し、見誤らない事こそが上に立つ者の最大にして最も重要な素養である。そこを見誤る者が、後の時代に愚王と呼ばれる。