これは、一体どういう状況だ。
「へ?」
場にそぐわない、上がり調子の裏返った声が俺の耳を突いた。
まったく、一体誰だ。こんな間の抜けた音を出す奴は。時と場合を考えろ。
え?俺?違う。俺の声はもっと格好良かった筈だ。うん、きっとコレはジェロームの声だ。そうに違いない。
「ハルヒコ!彼を撃ってはダメだ!」
「ジェローム、大丈夫だ。愚かな国民に君を殺させやしない」
「何を言ってるんだ!今はそんな話はしていない!」
現実逃避を試みる思考とは裏腹に、目の前ではまるでドラマのワンシーンのような緊迫したやりとりが行われ続けている。その間も、目の前に向けられた銃口は寸分もズレる事なく、俺の眉間へと突き付けられている
どうやら、このハルヒコという男。一見すると非常に細身の体をしているが、実は相当鍛えられているとみた。なにせ、銃を構える腕は、先程から微動だにしていない。
「へぇ、ハルヒコ。お前もやる時はやるんだな」
「黙れ、ハーフエルフが。邪魔をするならお前も殺す」
それまで、俺に対して向けられていた厳しい視線が、そのまま隣へと移動する。視線を向けられた当のエイダは「ハーフエルフねぇ」と、愉快そうな声色で呟くと、そのまま気にした風でもなくコーヒーに手を伸ばした。
この緊迫した状況下で、エイダだけは自分のペースを一切崩さない。
まるで、人間とエルフとの諍いに、自分は一切関係ないとでもいうように。エイダにとって、この状況は面白がるべき「他人事」に他ならないのだろう。
「おかしいと思ったんだよ」
「え?」
「いっつも閑古鳥の鳴いてるこの店に、こんなに客が来るなんてさ」
カタンとカップがソーサーの上に置かれる音がする。音からして、多分コーヒーは既に飲み干された後だろう。
「なぁ、ハルヒコ。コーヒーのおかわり注文してもいい?」
「ダメだ」
「なんだよ、このケチ」
二人の会話はこれまで通り安穏としてるのに、俺はといえば、うるさく鳴り響く心臓に呼吸すら上手くできなくなっていた。
「……っは」
黒くて硬い銃口が、静かにずっと俺の事を見ている。ピクリとも動かない。
そのせいで俺は一切の動きを封じられてしまっていた。なにせ少しでも動こうものなら、あの引き金にかかる人差指に力が籠められかねないからだ。
撃たれたら、確実に俺は死ぬだろう。
「っ、っはぁ」
この世界はゲームの世界だ。けれど、なんとなく分かる。この世界に「コンティニュー」は存在しない。撃たれたら、“サトシ・ナカモト”は終わりだ。セーブデータなんて存在しない。ただ、終わる。それだけだ。
「なぁ、ハルヒコ。ここに居る客、全部お前の友達だろ?」
「答える必要はない」
「なぁ、こっちに呼んだらどうだ?どうせ最初からそのつもりだったんだろ?」
「黙れ」
エイダの言葉に、俺は視線だけをゆっくりと賑やかな店内へと向けてみた。たくさんの客の一番奥に、白髪の店主の姿が見える。店主は、此方の様子など気にした風でもなく、その視線はずっと手元の本に落とされている。
——–お前らのせいで、店がうるさくてかなわん。
あのぶっきらぼうな店主は確かに“ハルヒコ”に対して言った。店がうるさい理由は、ハルヒコのせい。そう、あれは大声を上げるハルヒコをたしなめる為に放った言葉ではなかった。エイダの言う通り。
だとすると、ここに居る客は全員――。
「っはぁ、っはぁ」
ごくりと唾を飲み下した。
未だに店の中には賑やかな客の喋り声が響き渡っている。あぁ、このガヤには一体何人の声優を使っているのだろう。
「……ガヤだけなら、俺も何度かスタジオに駆り出された事がある。アレもアレで凄く勉強になるんだよ。そう、仲本聡志は現実逃避をするように呟いた」
実際に逃避なんて出来ないんだけれど。
それでも俺は、己を落ち着かせる為にブツブツと自分にしか聞こえない声でセルフナレーションを続ける。そうした方が、気持ちを落ち着けながら周囲の状況が整理出来るからだ。
それに、怖いのも少しおさまる気がする。いや、嘘ついた。全然おさまらない。怖い。
「そう、銃って怖いんだ。だって、撃たれたら痛いし。死ぬかもしれないし。なのに、なんで皆笑っていられる?」
銃口をつきつけられた人間が店の片隅に居て尚、此方の状況なんて一切気にする事なく談笑を続ける彼らは、正直言って不気味でしかなかった。それこそ、ここに居る全員が“こう”なる事を初めから分かっていたかのように。
「ハルヒコ。お願いだから止めてくれ」
「ジェローム。コーヒーも十分冷めた頃だろう。もう飲み頃だ」
「は、はるひこ?」
「久しぶりだろう、ここのコーヒーも。最近は随分と忙しかった。可哀想に、少しも自由な時間がなかったもんな?今日は久しぶりの休暇だ。ゆっくりしてくれ」
銃口は変わらず俺へと向けられている。しかし、今のハルヒコが見ているのはジェロームだけだった。声も、それまでの声色とは全然違う。
俺は最初、ハルヒコの声を二重底のように、底の見えない声だと思った。そして、それは確かにその通りだった。
「なぁ、ジェローム?」
一つ目の底をめくった先。そこには、底の見えない程のジェロームへの愛が満ちていた。普段はきれいに隠されている、この男の本当の声。
「はる、ひこ……」
「ん?ジェローム?」
そんなハルヒコに対し、ジェロームはその目を大きく見開くと喉の奥から掠れた声で友の名を呼ぶ。その声に、俺は酷く聞き覚えがあった。戸惑いを帯びたジェロームの声が、俺の遠い記憶の扉を開いた。
——–はぁっ、さとし。ねてる?おきない?いい?まだ、おきないでね。
耳の奥で、幼い金弥の熱い声が響いてくる。そう、これは俺が金弥に初めてキスをされた時の記憶だ。そのキスの合間に漏れた、俺の戸惑いに満ちた声と、今のジェロームの声は、まるきり同じだった。
「……だめだ。だめだ、ハルヒコ」
「何がダメなんだ?ジェローム」
「っく」
ハルヒコから自分に向けられる底の見えない程の深い“愛”。戸惑わない筈がない。そんな風に熱を帯びた声で名前を呼ばれた事なんて、一度だって無かったのだから。ただ、ジェロームに考える暇など欠片も残ってはいなかった。
「聞け!俺はジェローム・ボルカーだ!」
ここで俺の身に“何か”あれば、それはもう宣戦布告に他ならない。この引き金が、そのまま開戦の合図となってしまうのだ。
「ハルヒコを止めろ!俺の身には、何の危険も及んじゃいない!」
ジェロームの必死な声が、店中に響き渡る。しかし、それでも尚談笑は止まない。まるで、彼らの耳にはジェロームの声など届いていないとでも言うように。
「……悪いな、ジェローム。彼らは全員、俺の言葉にしか従わない」
「っ!」
「言っただろう。誰も君の声なんて聴いちゃいない。君の声を真に聴いているのは“俺”だけだって」
「……ぅ、あ」
くしゃりとジェロームの表情が歪んだ。辛いだろう。自分の声が無視されるなんて、何よりも辛い。歯牙にもかけて貰えないなんて信じたくないだろう。その気持ちが、俺には痛い程分かる。
「なんで……なんでなんだ、ハルヒコ」
「愚かな国民からキミを守る為だ」
「なんでっ」
ジェロームが傷つくのも無理はない。
『誰も君の声なんて聴いちゃいない』
その“誰も”の中には、ジェロームが最も信じていた、一番声を聴いてくれていると思っていた相手も含まれている。
そう、ジェロームは今、他でもない“ハルヒコ”から無視されているのだ。
もし、俺が金弥から無視されたら、どんな気持ちになるだろう。
「……誰か、俺の声を聴いてくれよ」
ジェロームの震える悲痛な声が、俺の耳の奥深くに響いた。
あぁ、これは俺の声だ。そして、俺がずっと思っていた事だ。
「あぁ、わかったよ。ジェローム」
俺が、お前の声を聴いてやる。