2:教「鞭」を振るう

 

 

 僕の名前は、ラティ。今年で六歳になります。

 大国スピルの第四十七代目の王太子です。なので、僕はとても「尊い」人間です。

 

「ラティ殿下。我が国スピルの地政学上の特色を述べてください」

「はい。我が国スピルの地せい学上のとくしょくは……」

 

 いずれは、父の跡を継ぎ、立派な国王陛下になる予定です。なので、生まれた頃から優秀な家庭教師に、国や政治の事を教わってきました。

 

「とくしょくは……う、海に両がわを囲まれ……」

「両側とは?きちんと方位を用いて、海洋名もおっしゃってください」

 

 この人は、僕の家庭教師のパイチェ先生。女の先生です。

 頭のてっぺんに結い上げられた灰色の髪の毛は、朝食に出てきた卵のようにまん丸です。そして、すごーくつり上がった目で僕を見ています。きっと、髪の毛をギチギチに結い上げ過ぎて、こんな怖い顔になってしまったのだと思います。

 

「は、はい。……ひ、左がひがし?だから、」

「左が東?そうですか」

「あっ、にし?かもしれません」

 

 僕がそこまで口にすると、それまでモノクル越しに僕を見下ろしていたパイチェ先生が「はぁ」と深い溜息を吐きました。

 その音に、僕はいつも心臓がピョンとウサギのように跳ねるのです。もしかしたら、病気なのかもしれません。

 

「ラティ殿下、復習をしてくださいとあれ程申し上げたのに、されておりませんね?」

「し、しました!ちゃんと、教えてもらったところを、その……よ、よみ直しました!」

「読み直すだけでは“復習”とは言いません!」

 

 ピシャリと、まるで鞭が床に叩きつけられるみたいな声で怒鳴られるので、僕はもう何をどう言ってよいのか分からなくなります。心臓がバクバクと、馬の駆ける蹄の音みたいに早いリズムで鳴り響き、指の先から爪先まで体中が氷水に包まれているように冷たくなります。

 

 それに、ちょっと苦しいです。本当に、僕は病気なのかもしれない。

 

「……もういいです。今日はこのくらいに致しましょう」

「っ!」

 

 やった!

 僕は、パイチェ先生が目の前で教本を重ねてトントンとする姿を、そりゃあもう嬉しい気持ちで見つめました。さっきまで病気だったのに、なんだかもう良くなってしまったようです。

 

「なんです?その顔は」

「っぁ、えと」

 

 すると、そんな気持ちがパイチェ先生に伝わってしまったのでしょう。ギロリと鋭い目が、僕を睨みつけました。

 あぁ!パイチェ先生が出て行ってから喜べば良かった。そう、いつも同じように思うのに、嬉しい気持ちが止められない僕は、毎回同じような失敗をしてしまいます。

 

「……ラティ殿下。貴方はご自分が何者かを分かっておいでですか?」

「あ、は。は。はい」

「では、おっしゃってください」

「た、大国スピルの第四十七代、王太子です!将来は国王陛下の跡を継ぎ、スピルをおさめます!」

「その通りです」

 

 やった!パイチェ先生から「その通り」と言って貰えました。どうやら、僕は間違えていなかったようだ。そうでしょう、そうでしょう。これだけは、何回も何回も声に出して練習したんですから。

 

 僕は少し得意気な気持ちでパイチェ先生を見上げると、そこにはちっとも笑っていない先生の顔がありました。それどころか、僕を先程よりもずっと怖い目で睨みつけています。

 

「そんな殿下が、自分の治める国の事を何一つ覚えられていない。これは、国民への大変な裏切りです。分かりますか?」

「あ、あ……はい。わか、ります」

「貴方の身に纏っている柔らかい絹の服、そして今朝食べた温かい朝食。それら全ては国民を豊かにする、という責務と引き換えに与えられているモノです。今のままの殿下で、その責務が果たせるのでしょうか」

「あの、僕……あ、明日から」

「ラティ殿下の“明日から”は聞き飽きました。貴族や騎士の子供ならば、鞭を打たれているところですよ!」

「っ!ご、ごめんなさい」

 

 ピシャリ!と、パイチェ先生の声はやっぱり鞭みたいです。

 そう、僕は王太子でとても「尊い」体を持っているので、どんなに僕がパイチェ先生の質問に答えられなくとも、先生が僕に鞭を打つ事はありません。そんな事をすれば、たちまち先生は首を刎ねられてしまうでしょう。

 

「明日、また同じ所から始めます。きちんと復習しておいてくださいね」

「はい!」

 

 僕の元気の良い返事にパイチェ先生は、目も合わさずに静かに立ち上がりました。カツカツと言う靴底から響く鋭い音は、まるで先生の靴も僕に対して、すごく怒っているようでした。最後に先生のスカートがヒラリと揺れ、ドアがバタンと閉まりました。

 

「はぁっ」

 

 シンとする部屋に、僕の大きな溜息が響き渡ります。なんだか、凄く疲れました。

 なので、少しの間だけ、窓の外を眺める事にします。フワフワと流れてくる風が、とても気持ち良い。

 

 あぁ、ずっとこうして、ぼんやりと風を感じていられたらどれだけ素敵でしょうか。けれど、視界の片隅には、先程答えられなかった教本が映ります。あぁ、もう!なんて目障りなんでしょう!

 

「……よし」

 

 僕は、先程まで机の真ん中を陣取っていた「地政学」の教本を勢いよく脇へと寄せると、引き出しの奥から、深紅の革製カバーにつつまれた一冊の本を取り出しました。ページをパラパラと捲り、ヒラリと現れた真っ白なページを手で止めます。今、丁度本の半分くらいのところです。僕はすぐ脇に置いてあった羽ペンを手に取りました。

 

「親愛なる、ウィップ」

 

 これは、僕の大事な友達。

 

「ねぇ、聞いてよ。ウィップ。パイチェ先生ったらひどいんだよ!ぼくが少し答えられないだけで、大きなため息を吐いて、足をコツコツと鳴らすの。そんな事をするのは、とっても性格がゆがんでいる証拠だと思う。まるで、歪んだ扉みたいにキィキィ声を鳴らして。もう!パイチェ先生なんて、だいきらい!」

 

 僕はお腹の中に溜め込んでいたモヤモヤとした気持ちを、ガリガリと羽ペンを走らせながら書き殴っていきました。真っ白だったページがみるみるうちに、僕の文字で埋まっていきます。これは、僕が唯一心を許して本音で話せる相手。

 

 日記帳の“ウィップ”です。

 

「ふうっ……ウィップ。僕は王太子になんて生まれたくなかったよ。ちっとも楽しくない勉強ばっかりで、友達もキミしか居ない。こんなの寂し過ぎるよ」

 

 力を入れ過ぎていたせいで、ペン先が少しだけ反り返ってしまいました。そして、そのペン先の描いた文字を見た瞬間、僕は慌てました。

 

「ごめんよ、ウィップ。別にキミが不満ってワケじゃないんだ!ただ、キミとはお喋りをしたり、駆けまわったりは出来ないし……」

 

 もちろんウィップは何も言いません。だって、ただの日記帳ですから。

 

「……ごめんねぇ」

 

 でも、僕はウィップにすごーく申し訳ない気持ちになってしまいました。だって、僕はたった一つ……いや、たった一人しか居ない友達に、他人の悪口を聞かせただけでなく、ウィップ本人への不満まで書き連ねてしまったのです。最低だと、自分でも思いました。こんな人間と、誰が友達になりたいと思うでしょうか。消してしまいたい。でも、書いてしまった文字は取り返せません。

 

 こういう時は、別の話をするのが一番です。

 

「最近、パイチェ先生の話ばかりで聞き飽きたよね?もっと別のお話をしてあげたいなー」

 

 と言っても、僕の一日なんて毎日同じ事の繰り返しです。嫌いな勉強をして、怒られて、ごはんを食べて、今度は嫌いな剣術の稽古。そして、また怒られます。その繰り返し。だから、書く事も毎日毎日同じ事ばっかり。

 でも、意地悪なパイチェ先生や、ついつい零れてしまった友達への不満でこの頁を終わらせたくはありません。

 

「仕方がないから、こないだ見たオモシロイ雲のカタチについて書くね」

 

 そう、僕が羽ペンをインク瓶につけようとした時でした。

 

「……あれ?インクが無い」

 

 瓶に付けた羽ペンの先が、瓶の底にカツンと当たりました。これじゃあ、日記の続きが書けません。

 

 僕は使用人を呼ぶベルを掴もうと、ベルに手を伸ばしました。でも、寸での所でその手をピタリと止めました。ちょっとだけ歩きたい気分です。インクを貰いに行くついでに、お散歩するのも良いかもしれません。

 まぁ、お散歩と言ってもお城の中なのですけどね。

 

「ウィップ、ちょっとだけ行ってくるね。待っててね」

 

 そう言って、空のインク瓶を持った僕は部屋から飛び出しました。何かウィップに報告できるような面白いモノがある事を、ほんの少しだけ願いながら。

 

 

◇◆◇

 

 

ウィップ、インクを取ってきたよ。

たっぷり入れて貰った。これでしばらくは大丈夫。でも、ちょっと後悔してる。やっぱりメイドに持って来て貰えば良かった。行かなきゃ良かったって。

 

なんでかって?こんな話、聞いてもきっと面白くないよ。

え、それでも聞きたい?仕方無いなぁ、君にだけ特別に教えてあげる。

 

廊下を歩いてたら、パイチェ先生と他の先生が執事と話しているのを聞いちゃったんだ。

 

六つにもなって、あんなに出来の悪い子は初めてだって。このままじゃ、スピルの泰平の世は、長くは続かないだろうって。

それを聞いていた執事も「その通りですね」ってウンウンと頷いていたよ。

 

ねぇ、ウィップ。

僕は、どうしてこう上手く出来ないんだろうね。先生の言う復習も、ちゃんとしてるよ。でも、ちっとも頭に入ってこないんだ。だって、何の為にこんな事をしているの?って考えたら、なんだか眠くなってきちゃう。

 

わかってる。僕に勉強が必要なのは「スピルの国民の為」って言いたいんでしょう。でも、そんな見た事もない人達の為に、僕は頑張れないよ。

「国民」って何?名前は?ほら、名前も知らない人の為に頑張りなさいなんて、むちゃを言わないで欲しいね。

 

僕は、僕の大好きな人の為にしか頑張れないんだから。たとえば、そう。キミとかね。ウソじゃないよ。キミは大切な僕の友達だもの。

 

あぁ、あとね。パイチェ先生が言ってたんだ。

 

「通常より少し早いですが、アレを用意しましょう」って。

 

すごーく、怖い声で言ってたんだよ。

アレって何?もしかして、ムチ?でも、僕は「尊い」体だから、ムチは打てないって聞いたよ?

 

でも、もしかしたら……。

僕があんまり出来が悪いから、特別に「ラティ」だけはムチを打って良い事になったのかもしれない。そうかも。国王陛下が……お父様が良いって言ったんじゃないかな。だって、ちょうどこないだ弟のフルスタが産まれたばっかりだし。

 

そしたら、お父様は僕の事なんてちっとも見てくれなくなった。

 

ねぇ、ウィップ。

どうしよう、こわい。

どうか、明日の君に話す内容に、ムチって言葉が出てこないことを一緒に祈ってて。

 

じゃあ、ページが無くなってきたらまた明日ね。

ラティより。

 

 

◇◆◇

 

「ふぅ」

 

 僕は綺麗に文字で埋まり切ったページを眺めながら羽ペンを置きました。なんだか、どっと疲れてしまいました。

 

「復習……しなきゃ」

 

 そう思い、チラと脇に寄せた地政学の教本を見ます。でも、ちっともそんな気にはなれません。

 

「ムチで叩かれるって痛いのかなぁ」

 

 痛いに決まってます。だって、あーんなに分厚くて硬い皮膚を持っている馬だって、御者にムチを打たれるとヒヒンって鳴いて駆け出してしまうんですから。

 僕は自分の腕に触ってみました。馬と比べると白くて柔らかいです。ムチを打たれたらきっとヒヒンと鳴くどころの騒ぎではないでしょう。

 

「むぅ……いたい」

 

 ちょっとだけ、腕を自分の指でつねってみました。痛いです。こうやって、少しでも明日の痛みに備えて腕をつねっていた方が良いでしょうか。

 

「そんなのイヤだ」

 

 それに、これが明日のムチの備えになるとは到底思えません。そもそも、パイチェ先生の言っていた“アレ”がムチなのかも分からないのです。

 あぁ、やめやめ!こんなの無駄です。そんな事より、面白いカタチの雲でも探した方が、うんと為になります。

 

「……あれ?」

 

 そうやって、ふと窓の外を見てみると、そこには見慣れない人影が見えました。その人影に、僕は思わず椅子から立ち上がって窓辺に駆け寄ってみます。

 

「子供だ」

 

 窓の外に小さく見えたのは、子供でした。同い年くらいでしょうか。

 王宮の、しかも離れ側の入口に子供が居るのを見たのは初めてです。ここには、王族とそれに仕える僅かな人間しか居ないというのに。

 

「わぁ」

 

 遠目なのでハッキリとは見えませんが、金色の髪の子供が騎士に連れられて歩いて来ます。太陽の光に照らされてキラキラと輝くその髪の毛は、なんだかとても綺麗で、まるで空から降ってきたお星様のようでした。

 

「あの子、どうしたんだろう?」

 

 ジッと窓にへばりつくようにして、その金髪の男の子の事を見ていると、ふと男の子が顔を上げました。しかも、ただ顔を上げただけではありません。ハッキリと僕の方を見たのです。

 

「わ、わ……わぁっ!」

 

 僕は驚いて、思わずその場から飛び退きました。その瞬間、足に力が入らなくなって、ペタリと床に座り込んでしまいました。

 

「はぁ、はぁ。……はぁっ、すごい」

 

 もしかすると、僕は病気なのかもしれません。足に力が入りませんし、心臓が凄くドキドキしています。パイチェ先生に叱られた時と違って体中がカッと熱くなります。なんでしょう。こんな気持ち初めてです。

 

「キレイな男の子……」

 

 服装からすると、きっと騎士の子供です。式典でよく見かける普通の貴族の子供より、質素な紺色の服を着ていましたから。でも、あの子の宝石のような金色の髪の毛に、その服はむしろピッタリ。とてもお似合いです。

 

「……もう一回」

 

 僕は、もう一度あの男の子が見たくて、必死に立ち上がって窓に近付きました。しかし、もうそこには誰も居ませんでした。

 

「どこに行ったんだろう。お星さまみたいに消えちゃったのかな?それとも……」

 

 僕はちょっぴり残念な気持ちになりながらも、もしかしたらあのお星様のような綺麗な子がこのお城の中に居るのかもしれないと思うと、とてもワクワクしました。もし、お城の中に居るなら、いつか会えるかもしれません。

 

「そうだ!ウィップにも教えてあげないと!」

 

 僕は再び机に向かうと、もう一度ペンを持ちました。インクはたくさんあるので一安心です。

 

「あれ?」

 

 でも、つい先程ページを埋めてしまったばかりで、今度は「書く場所」がありません。それでも、僕はどうしても“今日”のページにあの綺麗な男の子について書きたいと思いました。

 

「ウィップ、きれいなお星様を見つけたよ!」

 

 最後の行の隙間にソレだけを詰め込むと、僕は「はーー」と椅子の背もたれに体を預けました。目を閉じると、先程の金髪の男の子が鮮明に浮かんできます。

 

「どきどきする、体があつい」

 

 もしかすると、本当に病気かもしれない。でも、こういう病気なら嫌じゃないかも。そう、そんな事をぼんやりと考え込んでいたら、いつの間にかその日は終わっていました。

 

 もちろん、僕がその日、地政学の教本を開く事はありませんでした。