6:王子の贖罪

 

 

「ラティ殿下、参りました」

 

 扉の向こうから聞こえてきたケインの声に、僕はハッとしました。この声は、ケインです。間違いありません。ケインが約束通り来てくれたのです!

 僕は涙で滲んだインクの事なんてポーンと頭から抜け落ちると、慌てて扉に向かって叫びました。

 

「どうぞ!」

 

 行儀が悪いのは分かっていますが、叫ぶと同時に袖で顔を拭います。さすがに、また泣いているのかと思われたら、ケインにうんざりされそうなので。僕は、ケインにうんざりされたくはありません。

 

「ラティ殿下、言いつけ通り参りました」

 

 すると、扉の向こうから、ペコリと頭を下げてケインが現れました。“弁えた”話し方をするケインの声に、僕はいつもよりソワソワしてしまいます。扉の向こうには、いつも通り部屋守の兵士が立っていました。

 

「っケインは!僕の言いつけでっ、まいりまりっ……まいりました!通してください!」

 

 興奮し過ぎて自分の言葉すら分からなくなる僕に、兵はどこか苦笑しながら「分かりました」と答えると、ケインを部屋に通してくれました。直後、扉がバタンと閉まり、部屋の中にはケインと僕の二人きりになります。その瞬間、僕は躓きながらもケインに駆け寄りました。そして、いつものソファにケインを連れて行きます。

 

「ケイン……けいんっ!」

「ラティ」

「あぁっ、こんなに赤くなって……!い、いたい?」

「……っぅ」

 

 僕がケインの晴れた頬に触れた瞬間、ケインの表情が痛みに歪みました。

 

「っ!痛いよね?ごめんね……ごめんねぇっ!」

 

 顔に出来た鞭の跡は、昼間よりうんと赤みが増し、薄い肌着越しに見える赤紫の傷痕が、まるで呪いを受けたかのようにケインの素肌に巻き付いています。

 

「ラティ。お前、ずっと泣いてたのか」

「う゛っぅぅぅん」

 

 鬱陶しいと思われたら嫌なので、必死に首を横に振ります。でも、ケインの傷を見る度に、涙は更に激しく零れ落ちてきます。

 こんなに柔らかい肌のケインに、あんなに固いムチが勢いよく打たれたのです。痛くて当然です。それもこれも、全部僕のせい。僕が出来損ないの王子の癖に、調子に乗って反抗的な態度を取ってしまったせいです。

 

「っぅ、げいん……けいん。ごめんなしゃい……ぼぐのじぇいでっ」

「……」

 

 先程、顔を拭った意味などまるで無いかのように、僕の頬をとめどなく涙が零れました。そんな僕を、ケインは何も言わずジッと見つめます。怒っているのでしょうか。きっとそうです。嫌われたのでしょうか。そんなのイヤです!

 

「げいんっ、ごめんなさっ。ごめんなしゃいっ」

「……」

 

 どんなに泣いて謝ってもケインは僕の事をジッと見つめるだけで、返事をしてくれません。やっぱり僕は、ケインに嫌われてしまったに違いありません。

 あぁ、あぁ、あぁ!どうしよう!どうしようどうしよう!

 

「おねがい……げいん。ぼく、のごど、ぎらいにならっ、ないでぇっ」

「……」

 

 あぁ、ダメです。まだ返事をくれません。いつもより少しだけ大きく見開かれたエメラルドグリーンの瞳が、ジッと僕を見つめ続けています。どうすればいい。どうすれば、僕はケインに嫌われずに済むでしょうか。許して貰えるでしょうか。

 

「……ぼく、なんでも、するからぁっ」

「なんでも?」

 

 僕が「何でもする」と言った瞬間。それまで黙って僕の涙を見つめていたケインがハタと口を開きました。

 あぁ、良かった。まだケインは僕に返事をくれるようです。

 

「うっ、うん!ぼっ、ぼくに出来る事ならっ、なんでも……!なんでも、じますっ!だから、ケイン!僕の事を……キライにならないでっ」

「ふーん、ラティはオレに嫌われたくないんだ?」

「もっ、もちろんだよっ!」

「なんで?」

「だって、僕には……ケインしか、いない。それに……」

「それに?」

「け、けいんがっ、だいすきだからっ!」

「そっか」

 

 僕が必死にそう言うと、ケインの口元に微かに笑みが浮かびました。良かった、コレはいつもの“ちょっと意地悪”な時のケインの顔です。でも、意地悪でも何でもいい。弁えたウソっぽい優しい顔をされるより、こっちの方が全然好きです。むしろ、意地悪なのが僕にとっては嬉しいくらいです。

 

「オレ。今日、ムチに打たれたせいで体中痛いんだよなぁ」

「うんっ、うん。ごめんね。ごめんなさい」

 

 ケインが部屋着の袖をたくし上げながら言います。そうです。その通りです。あんなに強くムチに打たれてしまったのです。痛いに決まってます。

 

「ほら、腕も見ろよ。訓練中もベルトに擦れて痛いしさ」

「……ぁ、ぅ」

「こんなに気持ち悪くなっちゃってさ。体中にヘビが巻き付いてるみたいだろ?」

 

 確かに、ケインの差し出してきた腕には赤紫色の細い蛇が腕に巻き付いているようにも見えます。ヘビと言われて、僕は思わず目を逸らしたい衝動に襲われました。ヘビは苦手です。気持ち悪いから。

 でも、そんな気持ちを必死に堪え、僕は勢いよく首を横に振りました。

 

「全然気持ち悪くない!ヘ、ヘビになんて見えないよ!き、キレイだって思う!」

「へぇ、キレーねぇ。だったらさ」

 

 その瞬間、ケインの顔には、これまでに見たことのない程の深い笑みが刻まれ、まるで星の輝く夜空のようなキラキラした顔で言いました。

 

「じゃあ、コレ、舐めれるか?」

「へ?」

「この傷。舐めて治して」

 

 二度も繰り返し口にされた言葉に、僕はポカンとしてしまいました。舐めて?舐めたら、ケインの傷は治るのでしょうか。

 

「よく騎士の間じゃ、怪我をした時に言うんだよ。『そんなの舐めてりゃ治る』って」

「……そ、そうなんだ」

「そ。オレも腕なら自分でも舐められるけど……背中はなぁ?」

 

 そう言って軽く自分の背中を見やるケインに、僕はハッとしました。そうです、ケインに鞭が打たれたのは腕だけではありません。背中を含め、体中に鞭が当たっていました。ケインは、僕のせいで体中に傷を負ってしまったのです。

 

「背中は自分じゃ舐められないし。困ってたんだよ。こんな体、気持ち悪くて誰にも見せられないし」

「……」

 

 ケインの声を聞きながら、僕はケインの腕に蛇のように巻き付く、赤紫色の盛り上がった痕をジッ見つめました。ヘビは苦手です。気持ち悪いし、怖いから。でも、アレはヘビではありません。ケインの……僕の友達の大切な体です。

 

「さぁ、どうする?ラティ」

 

 舐める。どうやって?どんな風に?

 僕はパラパラとウィップのページを捲るように、記憶の中を探し回りました。すると、一つだけ使えそうなページを見つけました。

 

「ラティ?」

 

 少しだけ遠くに、ケインの声が聞こえます。

 

——–

ねぇ、ウィップ。今日ね、庭の隅で可愛い黒猫の親子を見つけたよ。すごーく可愛くて、お母さん猫が子猫を体中舐めるの。舌をながーく出して、ペロペロ、ペロペロって。ずーっとね。

ウィップにも、見せてあげたかったなぁ。

——–

 

 そう、あのお母さん猫みたいに舐めればいいのです。だって、あの時の子猫は凄く気持ち良さそうでした。

 

「っは。やっぱ、無理なんだろ?キレイなんてウソ……っぁ!」

「ん」

 

 僕はケインの差し出された腕に、ゆっくりと舌を這わせました。プクリと盛り上がった傷痕に触れると、舌の上に熱くてしょっぱい味がジワリと広がります。

 あぁ、ケイン。これで少しでも、キミが痛いのが治るといいんだけど。

 

「ぁ……ら、ラティ?」

「っん、ふぅ……っふ」

 

 頭の上から振ってくるケインの声を無視して、僕は鞭の痕に対して舌を行ったり来たり優しく滑らせました。少しだけ「ヘビ」みたいなんて思っていた鞭の痕でしたが、近くで見ると全然そんな事はありません。ケインの体に刻まれているのです。それは、もう僕にとってキレイな刺繍の模様のように見えました。

 

「ん、ん……ちゅっ。っふ、ンっ」

「っ」

 

 ペロペロと、猫のお母さんを思い出しながら舌でケインの腕を舐めていきます。

 すると、腕の付け根に近い部分まで来たところで、一際プクリと熱を持った場所に行きつきました。

 

「い゛っっ!」

「っケイン!大丈夫!?」

 

 その瞬間、ケインの口から短い悲鳴が漏れ、僕は舐めるのを止めて顔を上げました。目の前には痛みに目を細めるケインが、これまで見た事がないような凄い目つきで僕を見下ろしています。きっと、とても痛かったのでしょう。

 

「ケイン。ご、ごめん。ごめんね……あの、ここは、その、舐めるのは、やめとくね……」

「は?何言ってんだよ」

「え?」

「なぁ、ラティ。治してくれるんだろ?」

 

 痛いところは触らない方が良いかと思ったのですが、ソレは間違っていました。そうです。僕はケインの傷を治す為にやっているのです。

 

「ちゃんと全部舐めろよ」

「はい……」

 

 そう、痛い所こそ、ちゃんと舐めなければ。

 ジッと此方を見つめながら口にするケインの頬は微かに赤く、金色の髪の毛から覗く耳もほんのり色付いています。もしかすると、傷のせいで熱があるのかもしれません。全部、僕のせいです。

 

「ケイン、ごめんね。がんばるね、僕」

「……いいから、早く」

「ん」

 

 ケインに急かされるように、僕はペロと、熱い膨らみに先程よりも柔らかく触れてみます。チラリと見上げたケインは先程同様、目を細めて此方を見ていましたが「痛い」とは言いません。ただ、少し息が荒く、此方を見下ろす視線は少し怖く感じました。でも、僕は続ける事にします。

 

「…ちゅ、ん……ん、ンん」

 

 不規則にできた痕跡の上を、舌先で確かめるようになぞり、痛みを感じているであろう部分を、出来るだけ優しく舐めます。こうする事で、少しでもケインの痛みが楽になればいいと考えながら、僕は丁寧に丁寧にケインの体にある傷を全て舐めていきました。

 

 

 

「っはぁっはぁ……ぁふ」

 

 どのくらい時間が経ったでしょう。

 ケインの体にある全ての傷を舐め終わる頃には、舌の感覚はおかしくなり、なんだか頭がぼーっとしてしまいました。舐めている間は、ちょっとだけ息がしにくかったせいだと思います。

 

「ケイン、少しは……いたいの、治った?」

「……まぁまぁかな」

「まぁまぁ」

「こんなん、一日で治るかよ。……毎日やんないと」

 

 ケインの言葉に、僕はそれもそうかと思いました。それに、ちゃんと僕が問題に答えられないと、明日もケインに鞭が打たれてしまうかもしれません。今日は、ちゃんと復習して寝ないと。でも、一つだけ確認しておきたい事があります。

 

「ねぇ、ケイン」

「なんだよ」

「あの……、僕と、その……友達止めないでいてくれる?」

 

 そう、僕がおずおずと尋ねると、なにやらケインが僕に向かって片手を差し出してきました。

 

「ほら、早く持って来いよ」

「持ってくる?」

 

 「何の事?」と、僕がケインの差し出した手を見つめると、彼は呆れた顔で言いました。

 

「ウィップだよ」

「っあ!」

「今日、オレはここになにしに来たんだ?」

「ウィップと話しに!」

 

 頷くケインに、僕は一気に心が跳ねるのを感じました。そうでした、そうでした。ムチの事ですっかり忘れていましたが、ケインはウィップに会いにきたのです。

 

「ケイン。待ってて、取ってくるね!」

「おう」

「……あ!」

 

 「おう」と、ちょっと乱暴な返事をするケインの姿に、僕はハッとしました。どうやら、僕は一カ所だけ舐め忘れているところがあったようです。

 

「ケイン、ちょっとごめんね」

「なんだよ」

 

 僕はケインの顔を両手でそっと包み込むと、彼の瞳が大きく見開かれ、その中に僕の姿が映りました。あぁ、やっぱりケインはお星様みたい。きれい。

 

「ンっ……」

「っ!」

 

 僕はお星さまに吸い寄せられるように、ケインの唇の横に出来た赤い腫れに舌をペロペロと這わせました。ここはそんなに酷くないので、少し強くしっかりと舐めます。最後に、「早く治りますように」という気持ちを込めてチュッと傷口に口付けをしました。これは、僕の勝手な「こだわり」。おまじないです。

 

「ケイン、ウィップを連れてくるね!」

「……うん」

 

 僕はケインから離れるとそのままウィップを取りに走りました。ケイン、熱が出なきゃいいけど。僕はウィップを手にとりながら、傷のせいで顔が真っ赤になってしまったケインの顔を思い出しながら小さく祈りました。

 

 この日からです。

 僕の代わりに鞭に打たれるケインの「治療」を行うようになったのは。