今日は、僕とケインが出会って、記念すべき一カ月と一日目です。あと、僕の友達であったウィップとケインが友達になって記念すべき二日目。
そうやって数えると、何でもない日が毎日記念日のようです。あぁ、素敵!
「殿下、何をボーっとされているのですか?」
「っは、はい」
でも、今はあんまり素敵ではありません。ええ、そうです。ちっとも素敵じゃありません。
「さぁ、殿下。昨日の復習です。我が国スピルと二度に渡り戦争を引き起こした国は、何と言いますか?」
「……えっと、バーグです」
「そうですね。では、二度に渡る大戦により最も被害の大きかった我が領土の都市名と、その理由をおっしゃってください」
そう、今はパイチェ先生の歴史の授業の時間です。もちろんケインも一緒です。僕はどの授業も嫌いですが、「歴史」の授業は大の苦手です。だって、「戦争」とかその時「どのくらい人が死んだのか」とか、そんな怖い話が急に出てくるのですから。しかも、平気な顔で!
「……」
「ラティ殿下。どうしたのです?復習はされていないのですか?」
あぁ、もう。うるさいなぁ。
パイチェ先生の厳しい声に、いつもの僕なら慌ててしまう所なのに、今日は一切そんな気持ちにはなれませんでした。むしろ、その時の僕は、なんだかとても腹が立っていたのです。
「殿下、聞こえないのですか?」
「……」
あぁ、今朝はとても嬉しい気分だったのに。昨日の夜は、ウィップと一緒にベッドに入って。そして、ケインが読んでクスクス笑っていたページに印を付けて、僕もそこを読み直したり。
そんな風にして過ごしていたら、気付けば朝になっていました。そんな幸せな気持ちが、パイチェ先生のお陰で台無しです。サイテー!
「ラティ殿下、先生が呼んで……」
「分かりません。復習してません」
「えっ?」
隣からケインの驚いたような声が聞こえます。そりゃあそうです。こんな風に、先生に盾突くような事、普段の僕なら絶対に言いません。
でも、この時の僕は、どうしても自分の気持ちを止められなかったのです。
「パイチェ先生、僕は復習をしていないので覚えていません」
「そうですか。復習をされていない、と……」
「そうです!」
僕の言葉にスッとパイチェ先生の目が細められます。
きっと、この後僕はパイチェ先生に酷く叱られるのでしょう。でも、いいんです。隣にはケインが居てくれますから。僕は、ケインさえ居てくれれば何だっていいのです。
そう、僕がジッとパイチェ先生を見つめていると、予想外の反応が返ってきました。
「では、ケイン様。代わりにお答えください」
「あ。は、はい」
パイチェ先生はちっとも僕を怒ったりしませんでした。これから長い長いお説教が始まるとばかり思っていたのに。どうしてでしょう。今日は先生のご機嫌が良いのかもしれません。
「シコーテとチャーブックです。理由はその両方がバーグとの国境沿いにある都市で、軍事的にも拠点となる都市である為です。周囲を山や川に囲まれている他の都市とは異なり、バーグからは攻めやすい場所にある事も理由の一つだといえます」
「素晴らしい。その通りです。さすがは次期軍団長となられる御方ですね。では、次にまいりましょう」
ケインがスラスラと答えた後も、パイチェ先生は気にする事なく授業を続けていきました。復習をしていない僕は、その後もパイチェ先生の質問には上手く答えられませんでした。でも、やっぱり一度も怒られません。ぜーんぶ、代わりにケインが答えてくれました。
そのせいか、授業が終わる頃には、僕は気が抜けて授業の殆どをぼんやりと聞き流していました。
「では、今日の授業はこれまでです」
「はい」
特に怒った様子もないまま、教本をトントンと机に打つパイチェ先生を横目でソッと観察します。やっぱり先生は怒ってはいないようです。しかし次の瞬間、パイチェ先生はフッと息をひと息吐いたかと思うと扉に向かって声をかけました。
「では、お入りください」
「え?」
どういう事でしょう。もう授業は終わった筈なのに。すると、僕の戸惑いを余所に、一人の男の人が部屋に入って来ました。
「失礼します」
「ええ、こちらに」
突然部屋に入って来たその人の顔は、目が凄く釣り上がっていて、まるでパイチェ先生が男になったような顔立ちをしていました。身長はとても高く、筋肉質な腕が黒いベストからにょきりと生えています。
そして、僕が一番に目を奪われてしまったモノの。ソレは――。
「……む、ムチ?」
「そうです。この者は鞭を打つ為にここに参りました」
「っ!」
その血管の浮き出る腕の先についた手には、長いムチが握り込まれています。それは、黒くてツヤのある革製で、持ち手の部分に織り込まれた金色の糸がキラキラ光っています。
「あ、あ……あの、パイチェ先生」
「どうしました」
なんで僕が反抗的な態度を取っても先生が怒らなかったのか、やっと分かりました。先生は最初から怒るつもりなんか無かったのです。出来なければ鞭を使う。きっとそう決めていたのでしょう。
「ぼ、ぼく……その」
「何か言いたい事がおありで?」
そう、冷たく言い放つ先生に、僕はもう何も言えなくなってしまいました。上手に息が出来ないせいで、目の前が真っ暗になった気がします。
「っはぁ、っはぁ……ぁ、う」
きっとこれから僕はあのムチに打たれます。そう考えると、まだ打たれてもいないのに、肌にビリビリとした激痛が走ったような気がしました。こわい、こわいです。
「ラティ殿下」
「ケ、ケイン……」
隣からケインが心配そうな声で僕の名前を呼びます。震える体を両手で抱えながら、僕はケインをじっと見つめました。
「ケイン。た、助けてぇ……」
あぁ、ケインに助けを求めたって仕方がないのに。僕は気付けばケインに助けを求めていたのです。
その時、窓から柔らかい風が吹き込み、ケインの金髪が風に舞いました。彼のお星様のようなキラキラした髪の毛がフワリと風に舞います。あぁ、キレイ。その美しさに、ほんの一瞬だけ恐怖を忘れてしまっていると、此方をジッと見ていたケインが静かに言いました。
「大丈夫です」
「へ?」
「大丈夫ですよ、ラティ殿下」
何が、どう大丈夫と言うのでしょう。そう、僕がケインの言葉に「どういうこと?」と尋ねようとした時でした。
「ケイン様、前へ」
「はい」
パイチェ先生は、僕ではなくケインを前に出るように言いました。なぜ?どうして?
そんな僕の混乱を余所に、ケインは鞭を持った男の人の前に、背筋をピンとして立ちます。僕のように震えたり、怯えたり、ましてや泣き出して助けを求めようとはしません。凛とした横顔はとても美しく、昨日のイタズラっ子のようなケインの姿はどこにもありませんでした。
「本日、ラティ殿下は二十一の質問に答えられませんでした」
「ほう、二十一問もですか?」
「ええ、全問不正解ですので。ただ、それだけではありません。反抗的な態度に加え、何度申し上げても学習意欲が一切向上されません」
パイチェ先生が、まるで教本を読み上げるように淡々と言います。同時に鞭を持っていた男の人が、ギッと持ち手と革の部分を引っ張りました。ここに来て頭の悪い僕でも、ようやく理解する事が出来ました。
今から鞭打ちが始まります。ええ、僕にではありません。そう、ケインに対する鞭打ちです!
「では、今回の鞭打ちは?」
「答えられなかった二十一問に加え、王子の反抗的な態度も含め……三十発お願いします」
「承知した」
氷のような冷たい声で男の人が答えたかと思うと、彼は遥か高みからスッと目を細めて僕を見ました。そして、その視線はすぐにケインの方へと向けられます。
「ぁ、あ……あの!」
「王子、その場から動かないよう……ムチが当たりますよ」
「っ!」
パイチェ先生の言葉に、先程まで激しく襲っていた震えがピタリと止まるのを感じました。そして、タラリと嫌な汗が背中を伝った瞬間。ヒュンッ!と風を切る音と共に、ケインの体に鞭が打たれました。
「っぅぁ゛!」
「ケイン!」
ムチが当たった瞬間、それまで凛としていたケインの顔が痛みに歪みました。そして、僕の声なんてまるで聞こえないとでも言うように、男の人の手は休む間もなくケインに鞭を打ち続けます。
「やめてっ!!」
「いいえ、止めません」
僕の悲鳴のような静止に対し、パイチェ先生はピシャリと言ってのけます。
「やめてよ!どうしてケインにムチを打つの!?」
「ラティ殿下がしっかりと学問に励まれないからですよ」
「だったら……ぼ、ぼくにっ」
僕にムチを打てばいい!
「っ、っう゛……っぐ!」
「ケイン!」
僕が叫んでいる間も、鞭を打つ音は途切れる事はありません。ケインの柔らかい肌には赤い傷跡が刻まれ続けています。でも、ケインは泣きごと一つ言いません。ただ、その表情はハッキリと“痛み”に歪んでいます。
「っあ、あ!おねっ、おねがいっ!おねがいしますっ!パイチェ先生っ、僕!あ、明日からちゃんとします!しますので!」
「ラティ殿下?」
「っは、はい!」
少しだけ優しい声色になったパイチェ先生に、僕は期待しました。もしかしたら、ケインに鞭を打つのを止めてくれるかもしれない。そう、僕は淡い期待を抱いたのです。でも、僕を見下ろすパイチェ先生の目は、ちっとも優しくなんてありませんでした。
「ラティ殿下の“明日から”は聞き飽きました」
「っ!」
「でも、貴方は神の如き尊い身分の御方です。そのような尊き御方に鞭など振るえませんからね」
「っぁあ゛ぁっ!」
パイチェ先生の冷たい言葉の後ろで、ケインの一際大きな悲鳴が聞こえてきます。その声に、僕は目の前がユラリと大きく歪むのを感じました。気付けば、僕はボロボロと涙をこぼしていました。
「ぁ、あ……け、いん……けいんっ」
ひゅん、パシッ!
「っう゛ぁっ!」
僕のどこが尊いのでしょう。先生も、誰もそんな事思っていない癖に。いっつもそんなウソばっかり言って!
「ケイン様は殿下のご友人であり、この大国スピルを、ありとあらゆる危機から……身を挺して守る使命を持った御方です」
「けいん……けいんっ」
「こうして、貴方の代わりに痛みを請け負う事もまたクヌート家の者に課せられた義務なのです。さぁ、目を逸らさずに見守ってあげてください」
ひゅん、パシッ!ひゅん、パシッ!
「っう!……っぃ゛!あ゛ぁっ」
ケインに鞭が打たれ、その度に痛みに耐える悲鳴が部屋中に響き渡ります。でも、ケインは決して泣いたりしません。ケインは倒れ込む事もなく、必死に自らの足で立続けます。それに引き換え僕ときたら。
「~~っうっ、うぇぇぇっ!やめてぇっ、やめてよぉっ!」
最早、立っている事も出来ず、ペタンとその場に座り込んで大泣きしていました。ヒュンヒュンと、鞭が空を切る度に僕の心には嵐が吹き荒れます。
「っぐっぁ!」
「ァぁぁ~~っ……ごめんなしゃ。っごめぇん……けい、ん」
部屋の中に響くのは、僕の情けない泣き声とケインの悲鳴、そして、ムチを打つ音だけ。
そして、どのくらい時間が経ったのでしょう。僕が床に蹲ってシクシク泣いていると、ピタリと鞭を構えていた男の人の手が止まりました。
「これで三十発だ」
「ご苦労様でした」
やっと、ケインへの鞭打ちが終わったようです。
「一歩も引かなかったな。……さすがクヌート家の嫡男であられる。ご立派でしたよ」
「……は、いっ」
鞭を打っていた男の人の感心したような声に、ケインの痛々しく掠れた声が一拍遅れて返されます。痛いのでしょう。ケインの肩は荒い呼吸で上下に揺れていました。
「……け、けいん?」
僕はフラフラとおぼつかない足取りでケインの元へと向かいます。すると、眉間に皺を寄せ、頬に赤い傷を負ったケインが此方に顔を向けてくれました。
「ラティ殿下」
「っひ、っひぐぅ……っぅぇっ」
鞭を打たれながらも、欠片も揺らぐ事のなかったその姿は、決して「お星さま」などではありませんでした。確かにケインは「将軍」となる使命を持って生まれた者であると、僕はその時ハッキリ理解したのです。
ケインのお腹の中には、大きな大きな狼が居ます。“野心”という名の、狼です。
「けいん……げいん……ごめんねぇ。ぼぐのぜいで」
「ラティ殿下……」
昨日の夜に引き続き、今日も僕はケインの前でボロボロとみっともなく泣いていました。僕が鞭に打たれたワケではないのに、この上なく心が痛かったのです。
「ラティ殿下、私なら大丈夫です」
「でもぉっ!でもぉっ……ごめぇぇっん!」
痛い筈なのに、僕以外の人間が居るせいで僕の事を「殿下」と言い、二人きりの時とはまるで違う知らない人のような笑顔を浮かべるケインに、僕は更に大声で泣きました。二人きりなら「ラティ」と明るい声で名前を呼んでくれるのに。昨日は僕の涙をその手で拭ってくれたのに。
今は絶対に僕に触れようとしません。それは、僕の体が「尊く」、弁えなければならないからです。
「げいんっ、けいんっ!!」
「ラティ殿下……泣かないで」
「あ゛ぁぁぁ~~!」
僕は本当に出来損ないです。僕は、自分のせいで傷を負った友達に対し、逆に「慰め」を求めてしまっていたのでした。
◇◆◇
親愛なるウィップ。
ごきげんはいかが?僕は全然だよ。
今日は人生で最低サイアクの日だ。
サイテーサイテーサイテー!!
……ごめんよ、急にこんな事を言われても困るよね。
本当は書きたくないけれど、ウィップには何でも隠さずに教えるって約束だから……ちゃんと話すね。
今日は僕の友達が、僕のせいで大変な目に合ってしまったんだ。簡単に言うと、ケインが僕の代わりにムチ打ちを受けたんだ。
思い出すだけで、今にも吐き気がするよ。僕が問題に答えられなかったから。僕が反抗的な態度を取ったから。
その全ての責を、ケインが代わりに受けたんだ。
僕はバカだからちっとも分かっていなかったよ。
どうして急にケインが来たのか。それは、僕にはムチが打てないから、代わりにムチを打つ相手が必要だったからなんだ。クヌート家の子は、代々そうしてきたんだって。
国と、民と、王を守る盾となる為の「痛みに耐える特訓」だそうだよ。
バカバカしい。どうして何も悪くないケインが他人の為にムチを受けるいわれがあるんだろう。ましてや……今回は……僕のせいで。
三十発。何の数字か分かる?
ケインにムチが打たれた数字だよ。ヒュンヒュンって音をさせて、パンシパシンとケインの肌にムチが打たれて。途中、顔にもムチが当たったせいで、ケインの頬は真っ赤になったんだ。
でも、ケインは少しも泣かなかった。一歩だって後ろに下がらなかったんだ。立派だった。ケインは、とても格好良くて、立派で、素晴らしかった。
でも、それなのに僕はずっと泣いてしまっていたよ。何の痛みもないハズなのに、ケインがムチに打たれている姿を見て、僕はまるで自分がムチに打たれているような気がしてしまったんだ。
ケインは「大丈夫ですよ」って言ってくれたけど、あれは他の人が居たから「弁えて」あぁ言ってくれているんだ。
ねぇ、ウィップ。ケインは本当は僕に怒ってるんじゃないかな。昨日、これからは毎日部屋に来てくれるって約束したけれど、来てくれるかな?
こわい、こわいよ。
僕は、イヤな子だね。だって、ケインの心配をしているつもりで、本当はそうじゃない。ケインに嫌われてしまって、また一人になってしまう“僕”を心配しているんだ!
サイテーサイテーサイテー!
僕って、サイテー……。
◇◆◇
ガリガリガリガリ。
僕はウィップに書き殴ります。ペン先が反り返って、こんな使い方をしていてはすぐにこのペンも使い物にならなくなるでしょう。ウィップも痛がってるかも。
「はぁ、はぁ」
でも、その時の僕にはそんな事一切気にしている余裕はありませんでした。ケインに嫌われてしまったかも。そう思うだけで、僕の心は締め付けられ、呼吸もままならないのです。昨日までの楽しかった気持ちが、まるでウソのようです。
—–じゃあ、これから俺は毎日、この時間にラティの部屋に来るから。
「ケイン……も、きで、ぐれな゛いがも」
過った不安を口にしてみたら、もっと不安になって僕の涙がウィップに零れ落ちました。そのせいで、ジワリとインクが滲みます。「っあ!」と、僕が慌ててウィップをハンカチで拭おうとした時でした。
コンコン
部屋の扉が叩かれました。
「ラティ殿下、参りました」
扉の向こうから聞こえてきたのは「弁えた」ケインの声でした。