僕の名前は、ラティ。ただのラティです。昔は尊かったんですが、今はちっとも尊くありません。どこにでも居る「普通」のラティです。
何になる予定もありません。なので、別に何も学ぶ事もありません。なにせ、僕はただのラティですから。
『……あれ?』
そんな僕はたまに嫌な夢を見ます。
唯一の友達である、日記帳のケインが取られる夢です。
誰が盗ったかって?そんなのアイツに決まってます!鞭を持った嫌味なヤツ。名前はスティーブ。彼は、イヤな事があったり、腹が立ったりすると僕を部屋から引きずって行って鞭で叩くのです。
『お前は!国から捨てられたんだ!この恥さらしの捨てられ王子め!』
そう言って、何度も何度も僕を鞭で叩きます。でも、服の上から叩かれる時はまだマシで、時々服を脱がされて直に叩かれる事もあったので、本当にサイアクです。
でも、僕は出来るだけ表情を顔に出さないようにします。何故ならスティーブの奴は、僕が嫌がる事をするのが大好きなのです。だから、僕は絶対に表情を顔に出さないようにします。そうすると、スティーブの奴も『つまらないヤツ』と吐き捨てて早めに飽きてくれますからね。
『ん?なんだ、コレは?』
でも、唯一僕が悲鳴を上げてしまう事があります。それは、僕の大切な友達、ケインを取られる時です。
やめて!
そう、僕が悲鳴を上げると、スティーブの奴は物凄く楽しそうに笑います。そして、こんな酷い事を言うのです。
『自分の国から捨てられたヤツが、こんな立派な日記帳を持つなんて!分不相応にも程がある!これは俺が預かっておく!』
あぁっ!
鞭に叩かれる事も、嫌味を言われる事も、一人ぼっちな事も。全部辛いけど、どうにか我慢できます。でも、僕は「ケイン」を取られる事だけは我慢できないのです。ケインは僕の。このラティのモノなのに!
ケインを取られ、鞭に打たれ、痛む体を抱いてシクシク泣きます。横たわる場所は、固くて汚い床の上。妙に埃っぽい部屋の空気が、僕の鼻孔を擽り喉に嫌な感触を残します。
ケインがスティーブに盗られた。
顔に付いた鞭打ちの痕に涙が当たって更にジクジクと痛む中、僕はケインを取られた事と、自分の腕についた気持ち悪いムチの痕を見て更に悲しくなりました。
昔は尊いなんて言われていた僕のキレイな体ですが、今や見る影もありません。もう僕はキズモノになってしまいました。そんな自分の体を見ていたら、恥ずかしい気持ちになります。こんな体、もうきっと誰も尊いなんていってはくれません。
そう思うと、僕は何だか悲しくて惨めで恥ずかしくて。更に泣きたくなります。
『ぁぁぁぁっ!けいんっ、けいん~~っ!あいた、いぃっ!』
ボロボロと涙が次々と零れ落ちるリアルな感触で、僕は思いました。あれ、これは夢じゃなかっただろうか、と。
夢なのか、夢じゃないのか。自分でも分からなくなったその瞬間。僕の耳に聞き慣れた声が入ってきました。
それは――。
「ラティ。お前また泣いてるのか」
「っ!」
そう言って、僕の頬に触れるヌルリとした感触に、僕はハッキリと目を覚ましました。そこには、キラキラと光る星のような……ケインが居ます。
ええ、日記帳ではない。そこに居るのは本物のケインです。
「……け、いん?」
「ああ、ケインだよ」
「ケイン!」
僕が名前を呼ぶと、それはもう嬉しそうに微笑むケインの姿が視界いっぱいに映り込みました。その笑顔に、僕はつい先程まで体中に張り付いていた悲しみをコロリと忘れてしまいます。
「ケイン、おかえり!」
「あぁ、ただいま。ラティ」
起き上がった瞬間、首元からシャラリという金属の擦れる音が聞こえました。
「ぁ」
音のする方へと目をやると、そこには見慣れた鉄の鎖が見えます。僕の首に付けられている、革製の厚い首輪から垂れ下がるそれは、ケインの部屋の端にある太い柱にしっかりと埋め込まれており、僕がどんなに引っ張っても抜ける事はありません。
シャラシャラと僕が部屋を動く度に付いて来るその鎖の音が、僕はとても気に入っています。
そう、これは僕の“首輪”です。僕がこの部屋に来た時、ケインにプレゼントして貰った大切なモノです。
「ラティ、良い子にしてたか?」
「うん!見て、きちんと首輪は付いているでしょう?」
「あぁ、そうだな。苦しくないか?」
「全然苦しくないよ!」
僕はケインに首輪を見せつけると「ほら、ちゃんと繋がってるでしょう?」と少しだけ得意気に言いました。そんな俺に、ケインは首と鎖が外れていないかチェックするように指をかけると「大丈夫みたいだな」と呟きました。
ケインはとても心配性です。僕がケインの部屋から逃げ出す事なんてありはしないのに。なにせ、僕はケインの「飼い犬」なのですから。
「ラティ、俺が居なくて寂しくなかったか?」
「平気だよ!ケインの事を考えて雲を見てたら、一日なんてすぐだもん」
「……そうか」
俺の言葉にケインは少しばかり不満気な様子で頷くと、再び、僕の目元を舐め上げました。しかも一度だけでなく、二度、三度と。ケインはまるで、涙をすくい上げるように僕の顔を舐め続けます。
「んっ、けいん……あっ、あ……っふふ。くすぐったいよ」
ヌルリと這う生暖かい感触に、僕は思わず体をよじりました。しかし、そんな僕をケインの太い腕が力いっぱい自分の方へと抱き寄せます。ケインの舌が更に僕の目元をペロペロと舐めていきます。
その姿は、まるで犬のようです。僕がケインの「飼い犬」な筈なのに、こうしていると逆のように感じてしまう。なんだかおかしな話です。
「ちょっ、ケイン……もっ」
止めて、と僕が言いかけた時です。僕を舐めるケインの口元にも、赤い切り傷が見えました。
「っ!ケイン、この傷……どうしたの?」
「ん?コレか。まぁ、ちょっとな」
ちょっとな、なんて言ってケインは口元に微かに笑みを浮かべます。何を笑っているのでしょうか。またこんな怪我をして!
「訓練?そ、それとも……また、バーグと戦争になったの?最近、傷が増えたようだけど」
「……いや、バーグはもう」
ケインは何かを言いかけて、何かを思案するように視線を巡らすと、最後は静かに目を伏せ言いました。
「まぁ、そんな所だ」
「そんな……!」
あぁ、どうやらケインはまたバーグとの戦争に出かけていたようです。本当にこの国は、いつになったら平和になるのでしょう。それに、陛下は一体何を考えているのか。戦争なんて、何も産まない。犠牲だけが増えていくような無駄な行為を、一体どれほどすれば気が済むのか。
けれど、どんなに頭を悩ませても、今の僕には何も出来ません。なにせ、僕はもう王太子でも何でもありませんから。
「なんだ、ラティ。また泣くのか?」
しかし、僕の心配など余所に、クツクツとケインは楽しそうに笑ってみせます。
「ケイン、笑いごとじゃないよ!いっつも、こんな傷を作って……」
「こんな傷、大した事ない」
「大した事あるよ!」
そう、僕はラティ。ただのラティです。
一年前、敵国バーグから無事に母国であるスピルに帰還する事が出来ました。と言っても、帰還する際に気を失っていた僕は何も覚えていません。
気付いた時には、僕はケインの部屋で目を覚ましました。最初は天国かと思ったのですが、僕はまだ死んでいません。ケインによると、戦争は一時休戦になったと聞かされました。あぁ、良かった。
そう、思っていたのに。
「ケイン、お願いだから危ない事はしないで」
また、バーグとの戦争が始まってしまったなんて。
そういえば、最近妙にケインの体に傷が増えていると思いました。ここ一年くらいの間は、ケインの体も綺麗なモノだったのに。幸せな時間というのは、いつもひと時の夢のように終わってしまいます。
「……ケイン。もし必要なら、すぐに僕を人質にでも何でも使うんだよ」
「は?」
ケインの呆けた顔に、僕は首輪に繋がれた鎖にソッと触れました。そう、こういう時の為に、ケインは僕に鎖を付けている筈なのです。必要になった時に、また王族のコマとして僕を使えるように。逃げないように。
その役割があるからこそ、僕はこうしてケインの傍に置いて貰えている。僕はちゃんと自分の役割を弁えています。僕はケインの揺れる瞳を見つめながら「僕、ちゃんと分かってるよ」と伝えます。
「僕、体はこんなだけど、一応王族だしまだ使えると思う。陛下やフルスタは何て?」
「……ラティ」
けれど、そんな僕にケインの表情は更に歪みます。先程まで嬉しそうに微笑んでいたのに。ケインは一体どうしてしまったのでしょう。
「ぁっ!」
その顔に、僕はようやく気付きました。まったく僕ときたら!フルスタはケインの仕える相手。次期国王陛下です。きちんと弁えた呼び方をしなくてはなりませんでした。
「あ、いや……そうだ。彼は次期国王なのだから呼び捨てはいけなかったね。えっと、フルスタ様は何ておっしゃってるの?まだ人質は必要ないって?」
「っ!」
しかし、僕がどう弁えてもケインの表情から眉間の皺が取れる事はありません。むしろ、更に深くなるばかり。どういうワケか、その瞳には深い後悔のようなモノが見え隠れしているように見えます。
「……ラティ、もう人質になんて行かなくていい。そんなに酷くはならないだろうから」
「そうなの?」
「あぁ、そうだよ」
ケインは僕の鎖に触れながら、苦し気に言いました。シャラシャラとケインの手の中で音を奏でる鎖の音が、妙な存在感を持って部屋に響きます。
「ほんとうに?」
「本当だ」
ジッとケインの瞳を見つめます。確かに、大きな戦争となれば、こんなに毎日僕の所になど来れないでしょう。どうやら、今の所は安心してよさそうです。僕がホッとしていると、それまで眉間に皺を寄せていたケインが、俺の頬に触れました。
「ラティ。もうそんな話は良いだろ?」
「そんな話って……」
「なぁ、傷が痛いんだよ。口の中も切ったみたいなんだ」
そう言うと、ケインは口元の傷を僕に差し出してきました。その、どこか甘えたような仕草に、僕は思わず笑ってしまいました。こうしてケインが僕に“役割”を与えてくれると、僕はとてもホッとしてしまいます。
「舐めて」
「ん」
今や僕がケインに出来るのはコレだけ。そう、この治療だけなのです。
僕はケインの口元にある傷に、いつものように舌を這わせます。ペロペロと音を立てて傷を舐める僕の舌に、ヌルリとケインの舌が巻き付いていました。
「っふ、っぁん……んぁ」
僕がケインの傷を舐める筈が、今や僕の舌がケインによって音を立てて吸われています。唇の端から、飲み込みきれなかった唾液が零れ落ちそうになると、それごと吸い上げるように口の中へと深く入り込まれました。
「っふぁ……っはぁ、っふ……っぁ!」
気付けば、僕はケインにベッドの中に押し倒されていました。ここからはいつもの流れ。僕とケインは夢中で互いの舌を吸い、最後には、体の傷を舐め合います。
「っはぁ、けいんっ……んっ、っはあ」
「ラティッ……っは」
もう消える事などない互いの傷痕に舌を這わせ。ただただ、貪るように体を重ね合います。傷の舐め合いはとても気持ちが良く、その熱は、僕のナカに空いた穴をピタリと埋めてくれる。あぁ、とても。とても気持ちが良い。
そう思った時でした。僕の首筋の傷を舐めていたケインが吐き出すように言います。
「は、ぁ。ラティ、ラティ……愛してる。だから、もう……勝手にどこへも行かないでくれ」
「っぁ」
耳元で囁かれた、その狼の唸り声のような声に、思わず背筋がヒクンと跳ねました。同時に、首に繋がれた鎖がシャラリと音を立てます。
「ぁ、あ……けいん。僕も……ぼくもっ」
視界が歪み、キラキラと光っていたケインの金色の髪が、更に星のように光りました。あぁ、やっぱりケインは綺麗。本当に、お星様みたい。
僕はそのままケインの首に腕を回すと、必死に自らの体の奥深くへと誘いました。この腕が、ケインを縛る首輪になればいいと、切に願いながら。
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親愛なる、ケイン。
僕はもう日記を書きません。これからは、全てキミに直接伝えていく事にします。だから……自問自答はもう終わりにします。
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大国スピルには、一匹の狼が居ます。王の手綱すら食いちぎったその狼は、自らに仇なす者を全て食い尽くし、武力と恐怖で全てを圧倒していきました。今やスピルは王政国家ではありません。狼に統治された独裁国家です。
故に、人々は知る由もありません。その狼に首輪が付けられている事を。たった一人の人間によって、見事に飼い殺されている事を。
その狼に首輪を付けている当の本人すら、知る由もありません。
おわり
次頁「あとがき」