12:親愛なる、ケイン

 

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 大国スピルの王家には変わった習わしがある。

 

 

「ケイン、お前に鞭打ちの任が下った。これからは王宮で暮らせ」

「はい、父上」

 

 俺はケイン。大国スピルの鉄壁の要。金軍を統べるクヌート家の長子として生まれた。

 

「まさか、六つで鞭打ちを寄越せと言ってくるとは。普通は十歳を超えてからだろう。……今回の王太子は、どうも癖が強そうだ」

 

 そう、俺を前に眉間に皺を寄せる父の姿に、僕はピンと背筋を伸ばしたまま父の言葉を待った。息苦しい。当時の俺は、父を前にすると緊張と恐怖で呼吸が浅くなる癖があった。

 

「まぁいい。ケイン、鞭打ちの任にまつわる決まり事は覚えているか」

「はい」

 

 俺は父の質問にハッキリと頷くと、事前に伝えられていた「鞭打ちの任」についての教えを答えた。

 

「一つ、殿下の良き友となる事」

「一つ、殿下の痛みを代替する事を光栄に思う事」

「一つ、殿下の学びの助けとなる事」

 

 良かった。呼吸が浅い割に、淀みなく答える事が出来た。

 教えられた通りの鉄則を模範回答した俺に、父は、遥か高みからジッと俺を見下ろし続ける。あぁ、父はいつも俺の遥か上に居る。当時の俺にとって、父は“強さ”と“恐怖”の象徴だった。ジクリ、と頬の傷が痛む。昨日父に殴られて出来たモノだ。

 

「そうだ。それがお前のこれから請け負う任である……が、それだけでは足りない」

「足りない?」

 

 足りない筈がない。俺が教わってきた「鞭打ちの任」の鉄則は、この三つだけだった筈だ。そんな俺の思考を読んだように、父はニヤリと笑った。その顔に、背筋がヒヤリとした。

 

「ここからは他言無用。私からお前に口伝でのみ伝える」

「……はい」

 

 そうか。先程の三つは表向きの鉄則。そして、ここから父が伝える内容こそが、最も重要な「鉄の掟」という事になる。父上の言葉だ。聞き逃してはならない。俺は背筋が冷え入るような感覚を覚えながら必死に父の言葉に耳を傾けた。

 

「一つ、鞭を打たれた際は大仰に痛がる事」

「一つ、鞭を打たれても決して膝を折らない事」

「一つ、決して周囲に弱みを見せないこと」

「一つ、殿下の前に立つ際は傷の見えやすい格好をする事」

 

 父の口から発せられる言葉を、俺は一つ一つ胸に刻む。そして思った。これこそが、俺の与えられた「鞭打ちの任」としての真の役割である、と。そして最後。父が俺の耳元で囁くように言った。

 

「王太子をお前の“傀儡”にせよ。首輪を付けてしまえ」

「はい、承知致しました」

 

 鞭打ちの任。俗称「鞭打ち少年」。

 それは、「痛み」と引き換えに、大いなる「機会」を得る役職である。なにせ、この職に就けば、幼い頃から王太子の傍に控える事が出来る。王族の信頼を得るのに、これほど適した任は他にない。

 

「ケイン、最初のひと月で殿下の懐に入れ。そこから鞭打ちは始まる。いいな?」

「はい」

 

 この任を請け負ってから、いち貴族に過ぎなかったクヌート家は、このスピルで大いなる躍進を遂げた。どうやら、父はその躍進を更に大きなモノにしようと考えているらしい。この人は、自らが王にでもなろうというのか。

 俺は父の底知れぬ“野心”を実現するための、道具に過ぎなかった。

 

「では、準備を整えるように……失敗は許されないぞ」

「は、い」

 

 父はそれだけ言うと、スルリと俺に背を向けた。その瞬間、体中に走っていた緊張が、一気に弛む。

 バタンと扉が閉まり、部屋には俺一人が残された。

 

—–王太子をお前の“傀儡”にせよ。首輪を付けてしまえ。

「かいらい、くびわ……」

 

 父の言葉が頭を過る。俺に王太子を傀儡にせよという。すなわちそれは、父の傀儡になるという事だ。だって、俺自身が父に首輪を付けられた「傀儡」なのだから。

 こうして俺は、この大国スピルで第四十七代目の王太子。「ラティ殿下」を傀儡とする為に王宮へと渡った。

 

 

◇◆◇

 

 

「これから殿下の友となる者ですよ」

「へ?」

 

 ラティを初めて紹介された時の印象を率直に言うなら「チョロそう」だった。

 

「誰も居ない時だけでいいから、僕の事はラティって呼んで」

 

 そう、喜色を帯びた言葉に俺は思った。あぁ、コイツは「無知」なんだ、と。そうでなければ、初めて会う筈の俺に対し、これほどまでに無邪気で無垢な笑顔など向けられる筈もない。少なくとも、俺は無理だ。

 

 さすがは、王宮でぬくぬくと甘やかされて育った王太子。

 

「いいよ、ラティ」

「っ!」

 

 俺が腹の底で、ラティを心底バカにしながら頷いてやった時だ。俺の返事に、ラティは頬を赤く染め、頬がぷっくりと膨らむ可愛らしい微笑を浮かべた。

 

「ふふ。ラティだって……うれしい」

「……ぁ」

 

 その瞬間、心臓がドクリと高鳴った気がした。何故かは分からない。ただ、俺は「傀儡」にすべき相手に、少しばかり心を動かされてしまっていた。なにせ、こんな風に、笑顔を向けられたのは……俺も生まれて初めてだったから。

 

「……ラティか」

 

 ラティと初めて会った帰り、俺は王宮の正殿に掲げられている国王の肖像画を見に行った。そこには、紺碧の背景に、燃えるような赤髪の王が、銀の王冠と重厚な装束姿で堂々と描かれている。よく見ると、その瞳は髪の色同様、深紅だ。

 

「……全然、似てないな」

 

 思わずボソリと漏れる。そう、先程、目にしたラティとは大違いだった。

 ラティの顔立ちは、こんなに凛々しくない。だからと言って、決して美しいとか可愛らしいと言えるモノでもなく、ともかく“凡庸”の一言に尽きた。しかし、何故だろう。

 

——誰も居ない時だけでいいから、僕の事はラティって呼んで。

「っ!」

 

 けれど、あのフワリとした柔らかい銀色の髪の毛と、薄緑色の大きな瞳は、派手さはないが、見目の隙間から妙に愛嬌を感じる風情を漂わせていた。思い出すと、妙にソワソワする。

 

「……無知だから、あんな顔が出来るのか?」

 

 俺は腹の底にわだかまる、妙に温かい感情に首を傾げながら自らの役割の為に、国王の肖像画に背を向けた。

 

 

◇◆◇

 

 

 ラティは思ったより無知……いや、バカだった。

 

「ラティ殿下、答えられないのですか?」

「……あ、えっと」

 

 家庭教師の問いかけに、ラティの横顔は焦りと動揺でせわしなく変化していく。感情を相手に悟らせるな、という教えの元に育った俺にとって、そのコロコロとした表情の変化は面白い娯楽だった。目が、離せない。

 

「えっと、えっと!」

 

 そんなラティに家庭教師は深い溜息のもと、いつものように俺へと視線を向ける。

 

「はぁ、では代わりにケイン様、お答えください」

「はい」

 

 ラティはハッキリ言って頭が足りていない。昨日習った所ですら、次の日になればすぐに忘れる。でも、それは俺にとって都合が良かった。なにせ、ラティに恩を売るチャンスが多いからだ。

 

「ケイン、いつもありがとう」

「いいえ、ラティ殿下。分からない所は私に遠慮なくお尋ねください」

「ケイン、あ、あのね?今は、その……パイチェ先生は居ないじゃない?だから……」

 

 そう、どこかおずおずと期待するように僕を見みつめる薄緑色の瞳に、俺はニコリと微笑む。

 

「ラティ、昨日復習してなかっただろ?」

「ふふっ、バレた?」

「バレバレだよ」

 

 こうやってちょっと親し気に話しかければ、愚かなラティは一発で笑顔になる。俺は、この無知を体現したかのようなラティの笑顔が嫌いでは無かった。ラティは単純で、俺の予想した通りの反応を示す。まるで、俺に操られているように。

 

「昨日はね、ケインの事を考えてたら、いつの間にか寝ちゃってたんだぁ」

 

 そんな事を言いながら俺の腕にピタリと触れてくるラティに、俺は目を細めた。

 本当にチョロイ奴だ。「尊い」存在であるラティには、俺からは触れる事は許されない。でも、こうしてラティから触ってくる分には問題ない。ラティは完全に俺に懐いていた。

 

「仕方ないな。次分からなかったら、オレのノートの端を見ろ。答えを書いてやるから」

「っありがとう!ケイン……大好き」

「調子良いやつ」

「本当だよ!」

 

 父に「最初のひと月で、必ず殿下の懐に入れ」と言われていたが、何の事はない。一日で事足りた。甘ちゃんの出来損ないの王太子様は、完全に俺の手の内に「落ちて」いた。

 

「ねぇ、ケイン。あのね」

「ん?」

「今日、剣のお稽古が終わったら、僕の部屋に来てくれる?」

「なんで?」

「いいから!」

 

 ほら、見ろよ。この心から俺を信頼しきった瞳を。銀色の柔らかい髪の毛をフワフワと揺らして子犬みたいに、俺を見上げて擦り寄ってくる。

 

「ケイン……大好き」

「……ん」

 

 俺は普段はあまり感じる事のない、柔らかい人肌の体温に、腹の底に感じる温もりが、更に深く降り積もるのを感じた。

 

 

◇◆◇

 

 

「ケインに紹介したいのはねー、この子!」

 

 そう言って俺に紹介されたのは、一冊の本だった。

 

「見て!ここにはね、僕のヒミツがたくさん書いてあるの。ウィップにしか話してない事がいっぱいあるんだよ」

「ラティの秘密?」

「うん、僕のヒミツがいっぱい」

 

 笑顔で日記帳を「友達」なんて紹介してくるラティに、俺は腹の中で手を叩いて笑ってやった。愚かでバカな王太子様は、それだけじゃなく頭がおかしかったのだ。父の「ラティ殿下を傀儡にせよ」という言葉が頭を過る。

 

 父上、それはとても簡単そうですよ。ラティを見る度に、俺はホッとする。これで、俺は父の言いつけを守る事が出来る、と。

 

「見ていいのか?」

「もちろん!」

 

 パラパラと目を通すそこには、俺に対する賛辞で溢れていた。まぁ、分かっていた事だ。ラティはいつも俺に「大好き」と告げてくるから。

 ラティは何も知らない愚かな王太子。どうか、このまま愚かなままでいてくれ。そう思った時だ。

 

 とある一節を読んだ瞬間、俺は目を疑った。

 

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ケインはお星さまみたいにキラキラしてキレイなんだけど、心にはおおかみを飼っているみたいです。ウィップ、僕はいつかケインに噛みつかれてしまうかもしれないね!

 

でも、ケインおおかみなら、噛みつかれてもいいかな!

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 心に狼を飼っている。

 そのラティ独特の言い回しに、俺はチラリと視線だけラティへと向けた。もしかして、バレているのか、と。

 すると、そこには恥ずかしそうに頬を染め、ソワソワしながら此方を見つめるラティの姿。その姿に、俺はホッとした。なんだ、やっぱりいつものラティじゃないか。

 

 

 俺はもう一度日記帳に目を落とす。読み進めると、やはりそこには俺を賛辞する文章が続くのだが、やはり合間合間で目を引く文章が次々と現れる。

 

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パイチェ先生は、僕によく「尊い」という言葉を使う。

けど、ウィップ。そういった言葉をそのまま信じてはいけないよ。先にそう言ってしまえば、僕が「尊く」あらねばならないと思うだろうという目論見があるから、そんな風に言うんだ。

 

つまり、パイチェ先生は僕を「尊い」の籠に閉じ込めて、好き勝手に扱おうとしてるってこと!でも、そうはいかない!僕は見た目だけは言う事を聞くフリをするけど、頭の中だけは自由だからね!

その為に、キミが居る!ウィップ、どうか僕に自由をちょうだい!

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——–

ウィップ、今日は初めて「弟」に会ったよ。その子は僕と違ってとてもお父様に似た顔立ちをしていた。

 

その瞬間、僕は思ったね。弟はとても賢い子になるなぁって。

 

え?なんで分かるのかって?

僕と違って、ちゃーんと「お父様」に似ているからさ。

「似る」というのは、赤ん坊の「賢さ」の表れだと思う。人は自分に「似て」いるモノを可愛がるもの!

 

だから、僕は賢くない。でも、僕は「お母さま」に似る事ができてとても嬉しいよ。僕は「賢さ」より「お母さま」の血を「尊く」思うからね!

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 パラリ、パラリ。

 ページを捲る度に、俺の知っている「愚かなラティ」と、俺の知らない「底知れないラティ」が交差する。不安になる。俺は父の命でラティを「傀儡」にしろと言われているのに、もしかしたら俺は何も分かっていないんじゃないのか、と。

 

 

—–僕はいつかケインに噛みつかれてしまうかもしれないね!

 

 

 ドキリとする。薄緑色のまあるい瞳の奥が、ジッと俺を見つめる。まるで「僕はケインの全てを分かっているよ」と言わんばかりの顔で。

 その瞬間、僕は不安から逃れるようにラティを揶揄ってやった。日記を読み上げて、ラティが嫌がるのを無視して。

 

 そうしたら、ラティが泣いた。大泣きした。薄緑色の瞳に涙をいっぱい溜めて。俺だけをジッと見つめて。

 

 

「ぼぐ、へんなの……じっでるの。ぜんぶ、じっでるの」

 僕、全部知っているの。

 

 そう言って泣くケインの言葉に、俺は胸が締め付けられるような感覚に陥った。あぁ、ラティは俺と同じだ。俺達は二人共、血筋や、権力、親という檻の中に首輪を付けられて閉じ込められている。

 

「……ぼぐ、げいんじか、い゛ないの」

「げいんは、どもだじ……いっばいかもじれないげど……ぼく、うぃっぷだけ、だったの」

 

 同時に「ケインしか居ない」といって薄緑色の瞳からポロポロと涙をこぼすラティの姿に、異様に体が熱くなるのを感じた。

 

「げいん、へんな、ぼぐのごと、ぎらいにならないでぇっ」

 

 無垢な瞳がひとしずく、またひとしずくと温かい涙を零す。俺はその涙に釘付けになってしまっていた。心臓が高鳴る。呼吸が浅くなる。でも、これは父上を前にした時とはまるで違う胸の苦しさだ。

 

——王太子を傀儡にせよ。

 

 父の冷たい言葉が頭に過る。けれど、その冷たさを遥かに凌駕する熱さが、俺の心を満たす。

 

「オレの前でだったら泣いてもいいぜ。変なラティも、もう慣れたからな」

 

 傀儡にせよ、という父の言葉が薄れていく。ラティと過ごす時間の経過と共に、父の操り糸が、俺から一つ、また一つと切れていく。その事に、当時の俺はまだ気付いていなかった。

 

 

◇◆◇

 

 

 ひゅん、パシッ!ひゅん、パシッ!

「っう!……っぃ゛!あ゛ぁっ」

 

 

 とうとう、俺の本来の任である「鞭打ち」が開始された。元々、俺と王太子の仲が深まるであろうひと月を目処に鞭打ちが開始される事は、事前に知らされていたので分かっていた。ただ、分かっていたとしても振るわれる鞭の痛みは、俺の予想していたモノより、激しく、そして熱かった。

 

 ひゅん、パシッ!

「っう゛ぁっ!」

 

 クヌート家がこれからも躍進を遂げる為とは言え、最初はなかなか耐え難かった。なにせ、父からは「わざと大仰に痛がってみせろ」と言われていたが、そんな事をしなくとも、本気で痛いのだ。

 

 ひゅん、パシッ!

「っぁあ゛ぁっ!」

 

 しかも、ラティの出来は本当に悪く、毎日のように鞭が振るわれるせいで、俺の肌には治る事のないミミズ腫れが、体の至る所に張り巡らされていた。治り切る前の肌に、更に鞭が振るわれる。拷問としか言いようが無かった。

 

 しかし、だ。

 

「ァぁぁ~~っ……ごめんなしゃ。っごめぇん……けい、ん」

 

 鞭のしなる音の隙間を縫うように聞こえてくるラティの泣き声を聞いていると、不思議な事に痛みを鈍く感じた。まるで麻酔だ。

 それどころか、悲痛なラティの泣き声は、それだけで俺の体を腹の底から熱くさせるから不思議だ。それは、傷の持つ熱と相成って、更に俺を興奮させた。

 

「ァぁぁ~~っ…あぁぁぁんっ!」

 

 ラティはまるで自分が鞭に打たれているような顔で俺を見る。泣き叫ぶ。こんなにも全身全霊で俺の為に泣くヤツが、他に居るだろうか。

 

 

「ケイン、ごめん。ごめんねぇ」

 

 夜、ウィップを読む為に俺が部屋へと向かうと、ラティが泣きはらした目で駆け寄ってくる。きっと、部屋に戻った後も、俺の事を思って泣いたのだろう。その顔からハッキリと分かった。

 でも「泣いたのか?」と尋ねても、ラティは決まって「泣いてない」と首を振る。そうやって俺の前で強がって見せる姿も、また格別だった。

 

「こんなに、赤くなって……いたい?」

「痛いに決まってるだろ?昨日の傷も治ってないのに、ラティのせいでまた同じ所にムチが当たったんだ。見ろよ。皮膚がえぐれて……血が出てるだろ?」

「っひ」

 

 俺服を捲り上げ、抉れた傷口をラティに見せつければ、その口から小さな悲鳴があがった。

 本当は「大丈夫だ。気にするな」と言ってニッコリと微笑み、ラティに優しく恩を売るべきなのだろう。そうすれば、きっとラティは「ケイン、ありがとう。大好き」と、あの無垢な笑顔を向けてくるに違いない。

 

 まぁ。それも、確かに悪くない。けど――。

 

「げい、ん……ごめぇ。ごめんねぇっ……っふぇええ!」

 

 けれど、どうも俺はそれよりもラティの泣き顔の方が好きだった。俺の為に、この世の終わりのように泣き喚くその姿が、いつ見ても俺の体を熱くする。

 

「あーぁ、痛い痛い……もうサイアク」

「っひ、けいん……ごめん。ぼぐのぜいでぇ。っひ、っひぐ」

 

 幼い頃から、一族の繁栄の為だけに生きるよう厳しく育てられてきた俺にとって、それは……たまらなく甘美だった。しかし、俺のラティへの嗜虐心は更に留まる所を知らなかった。

 

「なぁ、ラティ。体中痛いんだよ。だからさ、」

「ぁ」

 

 薄緑色の瞳が涙と共に零れ落ちてきそうな程に見開かれる。ラティの目には、俺しか映っていない。

 

「舐めろよ」

「うんっ」

 

 頷くや否や、ラティはソファに腰かける俺に対し、床に跪くような体勢で、俺の下腹部の傷に躊躇いなく舌を這わせる。まるで、主従が逆転したような体勢に、俺は更に興奮した。

 

「っん……ンンっ、ちゅっ」

 

 ピチャピチャと音を立てて、俺の肌を愛おしそうに舐めるラティ。

 あぁぁぁっ!こんなに俺だけを求めてくるヤツが、他に居るか?いや、居ない!だって、ラティは俺がクヌート家の嫡男だから、俺を求めているワケではない。ラティは、ただの“ケイン”を求めているのだ!

 

「んッ……っふ、っん。っはぁ、ぅ」

 

 腹部の傷にラティの小さな舌が触れる。同時に、鼻にかかったような甘えた声と鼻息が、俺の腹部を通り過ぎていく。

 あぁ、ゾクゾクする。本当に気持ちが良い。幼いながらに疼く下半身を、俺は本能的にラティの体に押し付けた。すると、俺の体が密着するのが嬉しいのか、ラティも更に俺の体に擦り寄ってくる。堪らない、堪らない、堪らない!

 

「……っはぁ、ラティ。こっちも」

「ん。わかったぁ……どこ?」

「早く!こっち!」

 

 急く気持ちに、俺はラティの顎を掴んで傷口の前へと無理やり連れて行った。

 

「んぐぅ」

「おい、早く舐めろよ」

「っぁい」

 

 とんでもない事をしている自覚はある。相手は王太子だ。その王太子に、俺は体の傷を舐めさせている。しかも毎日、毎日。体の至る所を。尊い存在である筈のラティに。こんなの、他の奴らに見られたら打ち首モノだ。

 

 でも、止められない。むしろ、そう思えば思う程、体を纏う熱は更に体温を上げていく。

 

「っん、っぅ……ちゅっ、ッン」

「っはぁ……ぁ」

 

 ラティの柔らかい舌の感触に、思わず声が漏れる。懸命に俺の痛みを慰めようとするラティの姿に、俺はいつの間にかラティの背中や髪の毛に手を回すようになっていた。尊い存在のラティの体に、俺は無遠慮に触れる。

 

「っはぁ、けいん……」

 

 すると、ラティの体が俺に密着し、同時にラティの口からは喜びの声が漏れる。俺の首筋に出来た傷を舐め終えたラティの顔が、頬を赤らめ潤んだ瞳で此方を見上げてくる。やっぱり、ラティの目には、俺しか映っていない。

 

「ねぇ、ケイン。これは……?」

「あ、あぁ。コレか」

 

 ラティは俺の口元に付いた傷口に首を傾げた。それはどう見ても鞭で受けた傷では無かった。

 

「これは……今日、父上に」

「な、殴られたの?」

「まぁ、いつもの事だ」

 

 そう、いつもの事だ。訓練で下手をこくと殴られる。これは当たり前の事で、その拳の痛みがあるからこそ、俺はあの父を前にすると緊張して呼吸が浅くなってしまうのだ。すると、いつの間にか俺の顔をラティの柔らかい手がソッと包み込んでいた。

 

「ケイン、僕はね……ダメな王子だから。誰かの為には頑張れないの」

「……なんだよ、急に」

「聞いて」

 

 急に、ラティが俺の目をジッと見ながら語りかけてくる。何を言いたいのだろうか。ラティはたまに、突拍子もない事を口にするので、俺でも理解が及ばない事が多々ある。

 

「顔も知らない“国民”って人達の為や、好きでもない人の為には頑張れない」

 

 あぁ、確かウィップにそんな事が書いてあった。俺は、いつか見たウィップに書かれていたラティの言葉を思い出した。

 

「僕は僕の為にしか頑張れないよ」と。

 そう、ラティは大人しそうに見えて、意外と太い所がある。そして、何も分かっていないのではなく、全てを分かった上で、ラティは拒否しているのだ。

 

「ケインのお腹の中には、おおかみが居るじゃない?」

「……それよく言うよな。いないよ、そんなモン」

「居るよ、大きくて優しいのが」

 

 ラティの澄んだ瞳がジッと俺の事を見据える。狼。俺の腹の中に隠した野心を、ラティはそう表現する。きっと本人もよく分かっていないのだろう。

 けれど、いつもラティは無意識に相手の本質を見抜く。目を逸らしたいのに。ラティの小さくて暖かい手が、それを許してくれない。

 

 ラティは、愚かでも、無知でもない。

 

「その狼を育てて、僕を噛み殺すのはいつだっていいよ。僕、ケインの事は大好きだから。いいの」

「……」

「それで、ケインのお父様がケインを殴らなくなるなら、いいよ」

「ラティ……」

 

 ラティは、出来損ないなんかではない。聡明で、ただただ、優しかった。

 ウィップを読んでいたら分かる。あそこには、ラティの王族としての葛藤、するどい洞察、そして強い意志がハッキリと宿っているから。ウィップはラティ自身。あれは、ラティの自問自答の歴史だ。

 

「ラティ……そこも、痛いんだ」

「うん」

 

 「鞭打ちの任」を言い渡された時に言われた、父からの命。

—–周囲に弱みを見せるな。

 

 その言葉が、父の言葉と共に頭を過る。けれど、殴られた痕にラティの舌が優しく触れた途端、もう我慢できなかった。

 

「っう、……っぁぁ」

「んッ……ケイン。ケイン……っふ」

 

 俺はラティの腕の中で泣いた。その間、ラティは俺の名前を呼びながら、何か愛おしいモノに触れるように何度も何度も俺の傷に口付けを落とした。

 

「ケイン、泣かないで。大好き」

「……らてぃ。おれも」

「ふふ、うれしい」

 

 可愛い可愛い、俺のラティ。

 その瞬間、俺の中の狼は新しい首輪を得た。その首輪の繋がる先にはラティが居る。ラティを傀儡にし、首輪を付ける筈だった俺は、まんまとラティに首輪を付けられてしまったのだ。

 

 その日から、俺は静かに腹の中の狼に餌をやり始めた。

 いつか来る、闘うべき時の為に。

 

 

◇◆◇

 

 

 ゴウゴウと炎が街を覆い尽くす。

 首都バーグが陥落した。俺の軍の……いや、俺の手によって。

 

 

「ラティ……」

 

 俺の腹の中には、狼が居る。

 ラティの言葉だ。その狼が食い殺すのが何なのか、俺もよく分からない。分からないまま、俺は戦争の前線に立っていた。剣を振るって、ともかく前にだけ進み続けた。

 

「あぁ、ラティ。もうすぐだ」

 

 ラティがバーグに渡って二年が経過した。

 人質として渡ったラティによって、一時は領土の割譲は免れたものの、結局、停戦協定は結ばれなかった。あぁ、そうさ。元々こうなる事は分かっていた。そもそも陛下も、ラティの身柄一つでどうにかなるとは思っていなかった筈だ。

 

 ラティは開戦の時間稼ぎに使われただけ。結局、ラティは母国から使い捨ての駒にされたのだ。

 

「このまま、城内に居る王族を全員捕らえろ」

 

 俺は火の海となったバーグの城を見つめながら兵達に命令を下した。首都バーグはもうすぐ陥落する。後は城に居る王族を全員捕らえて母国に連れ帰れば良い。俺は血の匂いと、火に包まれるバーグ城の中へと歩を進めた。

 

「ラティ」

 

 城の中を逃げ惑う王族や貴族達が兵によって捕らえられていく。怒号や悲鳴が響き渡り、兵達は王族を血眼になって探している。その中を、俺はゆっくりと歩を進める。

 

 ここに、ラティが居る。もうすぐ、ラティに会える。

 

「ラティ、どこだ?」

 

 俺の中の飢えた狼が唸り声を上げた気がした。この数年、俺の狼は飢えきっていた。なにせ、ラティという餌を与えられていないから。

 

—–死なないで、ケイン。

「俺が死ぬワケないだろうが。ラティ」

 

 ここに辿り着くまでに、俺は一体何人殺してきただろう。もちろん、答えは分からない。数えようとも思わない。

 ただ一つ言える事は「俺は死んでいない」という事だけだ。それが最も重要な事。生きてさえいれば、ラティに会える。

 

「ラティ、お前は知らないだろうけど、俺はクヌート家一の武才として名高いんだ。父上だって、今や俺に敵わない」

 

 あぁ、毎日怪我をしてラティの前に現れていたせいで、弱いと勘違いさせていたのかもしれない。心外だが、それは仕方が無い事だ。全てわざと負っていた傷だなんて、武芸の事を分からないラティには思いもよらなかっただろう。

 

「ふふっ、わざと怪我してたなんて言ったら。どう思うんだろうな。鞭だって痛くも痒くもなかったのに……お前が悲しむ顔が見たくて、わざと悲鳴をあげたりして」

 

 なんて酷い奴なんだろう!

 ラティに口付けをして欲しくて、弟にわざと顔を殴らせた事もあった。それも一回や二回の話ではない。何度も、何度も殴らせた。弟には随分気味悪がられたが、お陰で俺はラティと口付けを交わす事が出来た。

 ラティが俺の傷を見て、悲しみに暮れる顔が好きだ。あの顔が、俺を堪らなく熱くさせる。

 

 部屋を一つ一つ開いて確認していく。ラティは居ない。あぁ、どこだ。どこに居る。

 

「ラティ、どこに隠れてるんだよ。いつもは俺が来たら駆け寄って来てくれていたのに。もしかして、怖くて泣いてるのか?」

 

 だとしたら、早く見つけてやらなければ。ラティの涙は全部俺のモノだ。

 だから、俺はずっとラティの嫌がる事を言ってきた。わざと傷を見せて痛がったり。わざと弟のフルスタ様と比べてたり。悪いとは思っていた。でも、愚かな俺は、自分の欲望を止められなかった。

 

 それでも、ラティは俺の傍から離れない。そう、思っていたのに。

 

——ケイン。今日からお前がフルスタ様に付け。ラティ殿下はもうこの国には戻ってこられないだろう。

 

 父の言葉に目の前が真っ暗になった気がした。そう、遠征から戻った時には、既にラティは国によって敵国に売られていたのだ。二年前のあの日から、俺の腹の狼は常にラティを求め、乾き、飢えている。

 

「ラティ、ラティ、ラティ……どこだ!」

 

 探しても探しても見つからないラティに、俺は焦り始めていた。ラティが居ない。見つからない。この城のどこかに居る筈だ。いや、まさか。殺されたなんていう情報は聞いていない。でも、もしかして。まさか!

 

 ドクドクと激しく心臓が嫌な音を立てる。ラティが居なければ、俺の狼は行き場を失う。それどころか、餌を与える飼い主を失った狼はそのまま餓死するだろう。

 

「ラティ、ラティ、ラティ……ラティ!」

 

 バタン!と一つ大きな扉を開けた時だ。

 

「……ん?」

 

 その部屋で、微かに人の気配を感じた。立派な部屋だ。その奥に感じる呼吸音。少し震えているかもしれない。バーグの王族か……もしくはラティか。後者である事に一縷の望みを込めて、俺は人の気配のする方へ歩みを進めた。しかし、数歩先に進んだ所で、俺はハタと足を止めた。

 

 コツン。

 俺の足に何かが当たったのだ。一体、何だ。そう、足元に目をやった瞬間、俺は大きく目を見開いた。

 

「コレは……」

 

 そこには見慣れた装丁の本があった。使い込まれた深紅の革製カバーにつつまれた一冊の本には、スピルの国章が深く彫り込まれている。

 

「ウィップ?」

 

 俺は恐る恐るその本を拾い上げると、パラパラとページを捲った。そこには俺のよく知る、丸みのある文字がツラツラと空白のページに踊っていた。これは確かに、ラティの字だ。しかし、それは「ウィップ」では無かった。

 

「あ……」

 

———-

 親愛なる、ケイン。

 

 懺悔。

 いつもこんな話ばかり聞かせてごめんよ。でも、これは、僕がとても酷い王子であった事を忘れずにいる為のモノだから、許してね。

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「俺?」

 

 そこには、俺の名前が書き記されていた。「親愛なる、ケイン」そう、どのページの頭にも必ずそれが書き記されている。

 

「ぁ、はぁ……はぁ……なんだ、コレは」

 

 呼吸が浅くなる。苦しい。これは幼い頃、父を前にすると起こっていた症状だ。どうして、今そんな症状が出てくる。ここに父は居ない。むしろ、父を前にしても今やこの症状は現れない。じゃあ、俺は何に恐れているのか。

 

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何故かというとね、ついさっき、また鞭で打たれたからだよ。

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「はぁ……っはぁ。鞭、だと?」

 

 いや、違う。これは恐怖ではない。

 

「らてぃ……らてぃ。どこだ?」

 

 これは“怒り”だ。

 

——–

 ねぇ、ケイン。

 背中が、ヒリヒリするよ。叩かれた所が、とても熱く、服が擦れるだけで全身に稲妻のような衝撃が走るんだ。

 

 とても、いたい。

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 どのページを捲っても。ラティは常に“ケイン”に痛みを訴えていた。ページのところどころにくすんだ茶色い痕が見える。これは、明らかに血の痕だ。

 呼吸が更に荒くなる。目の前が真っ赤になる。

 

 腹の中の狼が咆哮した気がした。

 

——–

 あぁ、僕の愛するこの世で唯一の友、ケイン。

 

 とても、あいたい。

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「……俺もだよ、ラティ」

 

 パタンと「ケイン」を閉じた瞬間、背後からカタリと音がした。

 

「……っひ!」

 

 振り返ると、そこには明らかに他とは異なる高価な服装に身を包んだ若い男が、腰を抜かして俺を見ていた。バチリと視線が重なり合う。

 立派な部屋。豪華な調度品。宝石に着飾られた服飾。そして、ラティの日記。

 

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もしかすると、さっきの鞭打ちじゃ腹の虫が納まらなかったスティーブ殿下が、また僕に鞭を振るいに来たのかも。

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「……スティーブ殿下?」

「は?お前は……」

 

 思わず口から漏れた名前に、相手の瞳が大きく見開かれる。あぁ、間違いない。コイツが“スティーブ殿下”だ。俺のラティに、毎日鞭を打っていた相手。

 

「っはは」

 

 俺は思わず笑っていた。どうやら、人は怒りが募り過ぎると、笑えてくるモノらしい。その瞬間、俺の中の狼が牙を剥いた。あぁ、分かっている。コイツだけは、絶対に許さない。いや……もう、この城に居るヤツを、俺は全員許せそうにない。

 

「スティーブ殿下」

 

 俺は腰を抜かす相手に、出来るだけ柔和な笑みを浮かべた。

 

「殿下、お迎えに上がりました。敵の目を欺く為にこのような格好をしておりますが、私はバーグの兵です。スティーブ殿下、御無事でなによりです」

「っお、遅いではないか!早く俺を逃がせ!」

 

 俺の言葉にスティーブは一気にその表情を緩めると、必死にその場から立ち上がろうとした。しかし、抜けた腰のせいで立ち上がるのが叶わないのか「おい、ボーっとするな!手伝え!」と乱暴に俺に言い放った。

 

「ええ、只今」

 

 俺は「早く!」と怒鳴り散らすスティーブに近寄ると、そのまま相手に手を差し伸べた。

 

「さぁ、お手を」

「ああ!」

 

 その手を、スティーブが掴もうとした時だ。……俺の差し出した剣の先に、ヌプリと肉を貫く感触が走った。直後、先程まで威勢の良い声を放っていた喉笛から、ドクリと血が溢れ出した。

 

「……汚ねぇな。俺に触るなよ」

 

 一度の痛みで楽には差せない。俺は、何度も何度も相手に剣を突き立てた。腹の中の狼が咆哮する。こんなヤツに、ラティは何度泣かされていたのだろう。ラティの涙は、全て俺のモノなのに。

 

 

「っはぁ、っはぁっは」

 

 

 気付けば、俺の足元は血の海になっていた。嗅ぎなれた鉄の匂いが部屋中に充満し、俺の鼻孔を擽る。俺は手にしていた日記帳のケインを再びめくり、小さく息を吐く。

 

親愛なる、ケイン。

親愛なる、ケイン。

親愛なる、ケイン。

親愛なる、ケイン。

 

 

「あぁ、ラティ。お前は、ずっと“俺”と一緒に居たのか……そうか……そうだったのか」

 

 

 

 そこから、俺の記憶は酷く曖昧だ。

 気付けば、俺はグッタリと横たわるラティを抱えて、バーグ城を後にしていた。腕の中のラティは、体中に酷い傷を負い、その傷が元で高熱に冒されていた。体はやせ細り、その口からはか細い声でずっと「ケイン」という名が呼び続けられている。

 

 その名前の主が「日記帳」なのか、それとも「大好きな男」の名前なのか。それは、俺の知るところではない。

 

「……あぁ、ラティ。やっと会えた」

 

 ただ、俺はやっと腕の中に戻って来たラティに、まるで犬が飼い主に甘えるようにその体の傷をソッと舐め上げた。

 

 

 

 

 俺の腹の中には、狼が居る。

 ラティの言葉だ。その狼が食い殺すのは、そう。ラティに仇成す世界の全てだ。

 

 この日、地図から“バーグ”という国名は完全に消えた。