「茂木君、久しぶり。元気だった?」

「ええ、大豆先輩もお元気そうで何よりです」

 

大豆先輩はあの頃と変わらぬ笑顔で、俺の元に駆け寄ってきてくれた。少しだけ前髪が短くなっている事以外は、本当に“あの頃”のままだった。

良かった。大豆先輩は、何も変わっていない。

 

「連絡先?あぁ……コッチに来てスマホを水没させちゃって。その時、もともと使ってた機種がすぐには準備できないって言われたから……全部変えちゃった。スマホ無いと嫌だったし」

「機種ごと?」

「そう。海外製から日本製に変えたんだ。だから番号も作り直しだし。アプリのパスワードとかも覚えてなかったから。イチから作り直す事になったんだよ。あの時は大変だったなぁ……俺、そういう管理苦手だから」

 

そう、はにかみながら答える大豆先輩に、俺はなんとも言えない気分になった。大豆先輩がそういったことが苦手なのはもちろん理解している。だからこそ、大豆先輩のIDやパスワードの管理は……全て俺がしていたのだから。

 

「そう、だったんですね」

 

しかし、大豆先輩はそんな俺の気持ちなど知ってか知らずか、手元にあるコーヒーに口を付けた。当たり前のようにブラックコーヒーを飲む大豆先輩に、やはり俺は微かな違和感を覚えてならなかった。

 

「茂木君も東京に異動になってたなんてねー。どう、本部は大変?」

「……まぁ、向こうよりは忙しいですね」

「でも、茂木君は仕事が出来る人だし、きっとすぐ慣れるよ。……俺は全然だったけど」

 

どこか苦笑いしながら呟く大豆先輩に、俺は同僚たちから聞いた大豆先輩の様子を思い出し、なんとも言えない気分になった。

 

「そうだ。十勝は元気?連絡はとってる?」

「え、あぁ。元気ですよ。まだ向こうにいらっしゃいます」

「そっか、連絡先が飛んでから辞めた事も伝えられなかったし、ずっと気になってたんだぁ」

 

なんて事のない世間話が続く。

本当は会って話したい事は山ほどあった。伝えたい感想も、一時間では足りない程あったのだ。タイミングなどうかがっている場合ではない。俺には時間が無いのだから。

 

「あの、大豆先輩」

「ん?」

「大豆先輩……今もBL小説を、書いてますよね?」

「っへ?」

「この『おいだき』さんって大豆、先輩でしょう?」

 

俺は大豆先輩の前に「おいだき」さんのSNSのホーム画面を見せつけた。その瞬間、みるみるうちに大豆先輩の顔が真っ赤に染まっていく。

その顔に、俺は確信する。

 

「あ、あ……う、ウソ!なんで!?」

 

やはり、「おいだき」さんは大豆先輩だ、と。

 

「分かりますよ。HNを変えた程度じゃ、俺の目ごまかせません」

「っっっあ、あ、もしかして……作品も……?」

「全部読みました」

「~~~~っ!」

「一応、投稿サイトの方で感想も送ってます。コレが俺です」

「あ、ああ……う、うわっ!最近、めちゃくちゃ感想くれてる追豆腐さんって……茂木君だったんだ」

 

大豆先輩は視線をせわしなく動かしつつ、誤魔化すように再びコーヒーに口を付ける。

 

「大豆先輩、また新刊を出されるんですよね。おめでとうございます」

「そ、そんな事まで知ってるんだ」

「もちろんです。いつの間にかプロになられているので、ビックリしました」

「プ、プロじゃないよ……たまたま、運よく出版が続いてるだけで」

 

今や全く顔が見えない程、俯いてしまった大豆先輩。しかし、髪の間から見える耳は、そりゃあもう見事に真っ赤に染まっている。

 

「あの、全て直接伝えると時間が無いかもしれないので、作品ごとに感想を手紙にしてきました。受け取って頂けますか」

「……え?」

 

俺は鞄の中に忍ばせていた分厚い茶封筒を取り出すと、そのまま大豆先輩へと差し出した。大豆先輩を探していた一週間。俺は大豆先輩の全ての作品に、大量の感想をしたためた。

 

「どうぞ」

「あ……まさか、茂木君が読んでくれてるなんて思わなかった」

 

大豆先輩は心底驚いた様子で俺の手紙をジッと見つめていた。その様子に、背筋にヒヤリとした感触が走る。

 

「そっか、本当に読んだんだね。茂木君」

「はい」

 

俺がそろそろあの別れ際の事を詰められるかと思い構えていると、次の瞬間、大豆先輩の顔に懐かしい笑顔が浮かんだ。

 

「ありがとう。嬉しいなぁ」

「……」

 

それは、本当に“あの頃”のままの笑顔だった。

その顔を見ていると勘違いしてしまいそうになる。俺達は、別に気まずい別れなどしていないのではないか、と。

 

「語彙力がなく、月並みな言葉しか言えずに悔しいのですが……どの作品もとても素晴らしかったです」

「そ、そ、そ……そんな、茂木君は昔から、ほ、褒め過ぎだよ」

 

謙遜しているつもりだろうが、大豆先輩の顔は真っ赤な中でもハッキリと喜びに塗れていた。

あぁ、この顔もあの頃のままだ。その顔を見た瞬間。俺はそれまで二の足を踏んでいた口が、止められない程滑らかに言葉を紡ぎ出した。

 

「あの作品は本当に素晴らしかった。どうやったらあんな展開が思いつくのか……」

 

止まらない。止められない。

俺が作品を褒める度に懐かしい“あの頃”のままの笑顔を浮かべてくれる大豆先輩に、俺は体の芯から興奮するのを止められなかった。温かった熱が、徐々にその体温を上げていく。大豆先輩の嬉しそうな顔を見る度に、感情の手綱を握る事すらままならなくなる。

 

「でも、今更新されている長編も素晴らしいです。まさか、BLでスチームパンクの世界を描かれるとは思っても……」

 

興奮する脇で、微かに湧き上がる番への罪悪感。しかし、それはすぐに消えた。

これは浮気ではない。愛しているのは、もちろん番いだ。それは変わらない。大豆先輩に対するこの気持ちは……愛ではない。まったくの別モノだ。

 

「その前に連載されていた話は序盤から一気に引き込まれました。特に受けの性格が一癖も二癖もあって……」

 

大豆先輩は俺の推しだ。神様だ。崇拝相手だ。

だから、いいんだ。恋人が居ても、配偶者が居ても……推しは居るものだろう?そして、それは別に咎められるべき事ではない。

 

俺は、世間にも、神にも、許されている。

 

「あ……すみません、俺ばっかり喋ってしまって」

「ううん、嬉しいよ。ありがとう、茂木君!」

 

緩みきった顔でへらへらと笑う大豆先輩に、俺はチラリと時計を見た。すると、既に四十分近く経過していた。あぁ、もう時間がこんなに経ってしまったなんて。あと十分もしないうちに店を出なければならない。同じ職場なら、もっと同じ場所で同じ時間を過ごす事も出来るのに。

 

「大豆先輩。もしよろしければ、今の連絡先を伺ってもよろしいですか?」

「え?」

 

俺は鞄から自分のスマホを操作しながら言った。

大豆先輩は今や人気作家の一人だ。あの頃……俺一人が推していた頃とは違う。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。そう、俺は昔から同担拒否なのだ。

 

でも、今の大豆先輩に言っても無理な話だ。

 

「出来れば、もっとお話したいですし」

 

でも、他のファンより俺が最も大豆先輩に近いハズだ。なにせ、ただのファンならば、こうして直接大豆先輩と言葉を交わす事など出来ない。それに、俺は他のファンと違って長年彼を推し続けている。

 

俺は、今も昔も、神様の一番近く居る。

 

「大豆先輩?」

「あ、えっと」

 

いっこうに自分のスマホを取り出そうとしない大豆先輩に顔を上げた時だった。大豆先輩は少しだけ困ったように笑うと、まったく俺の予想していなかった事を口にした。

 

「ごめんね。教えられない」

「え?」

「あの、むやみにファンの人にプライベートの連絡先を教えるのはちょっと……」

 

何を言われているのか、全く理解できなかった。

ファンの人。それは、誰の事だ。

 

「あっ、そうだ。……仕事用のヤツだったら、いいかな。待ってて」

「だ、大豆先輩……えっと、あの」

「あ、あったあった。ん、どうしたの?」

「あ、あの……」

 

大豆先輩が無邪気な顔で俺の方を見る。確かにその目は、昔のまま。何も変わらない大豆先輩にも関わらないのに、どうしてだろう。

この時から、無邪気な大豆先輩の笑顔に、SNS上で見る「社交的な作家おいだきさん」の影が色濃く映し出された気がした。

 

「SNSに写真を載っける時も、リアルタイムでは掲載しちゃダメとか、ガラス越しに自分が映ってるのを気にしなさいとか……いっぱい気にする事があって大変だね。一つ一つ教えて貰ってやっと最近ちゃんと覚えたよ」

「……」

「あ、そうだ。茂木君。もしよかったら、今後ファンレターは編集部を通して送って貰ってもいい?ごめんね、お返事とかは難しいと思う。あと、SNSに俺とこの店で会った事は書かないでね。他にファンの子とか来て、お店に迷惑かけたらいけないから」

 

さっきから、大豆先輩は一体俺に何を言っている?

 

「……大豆、先輩」

「ちょっと待ってね。コッチのスマホ、あんまり使わないから使い方よく分からなくって」

 

こんなに近い場所に居る大豆先輩を、俺はどうしてこんなにも遠く感じているんだ?

 

俺は大豆先輩にとって「特別」で「唯一」じゃなかったのか。

だってそうだろう。俺は他のファンとは明確に違う。推してきた時間も、熱量も段違いだ。それに、一時期は……体の関係もあった。作品作りにも貢献してきた。俺は違う、他の奴らとは全然違う。

 

だからこそ、大豆先輩は俺の感想にあんなに喜んでくれたんじゃないのか。

 

「っはぁ……」

 

息が、苦しい。思わず俺がネクタイを緩めた時だった。微かな着信音が大豆先輩の鞄から響いた。

 

「あっ、ごめん。茂木君。ちょっと待ってて」

「……は、はい」

 

リュックのポケットから取り出されたスマホ。

明らかに「仕事用」では無いスマホからチラリと見えた「セワ君」という表記に、思わず眉を潜めた。なぜか、その着信は非常に“嫌な予感”がした。

 

「はい……あ、俺の寝室の戸棚にある書類?何が書いてある?……あ、それは捨てて貰っていいよ。え、もう終わったの?ありがとうね、いつも。お金はいつもの所から勝手に取って行っていいから……いらない?ダメだよ。ちゃんと貰って」

 

大豆先輩の話からすると、相手は大豆先輩の部屋を掃除か何かで雇われている相手だろうか。確かに大豆先輩は家事の一切が苦手だった。掃除婦を雇っていてもおかしくはない。だが、先ほど画面に映り込んだ「セワ君」という名前が、妙に引っかかった。

 

「え、今どこに居るのか?いつもの喫茶店だよ……迎えに来る?荷物は重くないし、大丈夫だから。ちょっと、今昔の知り合いに会ってて」

 

昔の知り合い。なんだ、ソレ。

チラと俺の方を見ながら言われた言葉に、俺はまたしても呼吸が乱れるのを感じた。

 

「っ、あっ……あの、セワ君に言われた事はちゃんと守ってるよ。SNSの写真も気を付けてるし、ファンの子に連絡先も教えてない。その人にも教えないから。だから大丈……あっ、切られちゃった」

 

大豆先輩はスマホの画面を見ながら「困ったなぁ」と肩をすくめた。大豆先輩は言った。

 

「ごめんね、茂木君。えっと、連絡先だったよね」

「大豆先輩」

「ん?」

 

思わず口から出た自分の声が、異様に低い。俺はどうしてしまったのだろう、

先ほどまでの「熱」とは比べモノにならないような灼熱の感情が、腹の底から湧き上がってくる。それは「愛」よりも熱く、「信仰」よりも激しい。

 

 

「……今の、誰ですか?」

 

 

純度の高い、怒りを帯びた「嫉妬」だった。