(12)

 

(帰れよ、クソババア)

 

「あ」

 

 音もなく口元だけで紡がれた言葉が、俺にはハッキリと聞こえた気がした。その苛立ちを露わにした横顔に、俺は思った。

 なんだ、コイツもずっとアイツらにムカついてたんじゃん、と。

 

「……寛木君?」

「……」

「寛木君、大丈夫?」

 

 返事をしない俺に、キッチンから軽くこちらを覗き込んできたマスターが控室に入って来た。同時にコーヒーの強い香りが俺の鼻先を掠める。よく見ると、マスターの手には、アイスコーヒーの入ったグラスが握られていた。

 

「どうしたの、具合でも悪い?」

「……別にぃ」

 

 すると、不思議な事に、それまで頭の中で嵐のように渦巻いていた感情が、一気に凪いだ気がした。俺は持っていた鞄を投げやると、深く息を吸い込み、思わず本音が漏らした。

 

「……良い、匂い」

 

 コーヒーより紅茶派だったのに、何故か、今はこのコーヒーの匂いに酷く安心してしまう。こんなに騒がしくて落ち着かない店なのに。バカで愚かな夢追い人のせいで、潰れていくだけの店なのに。

 

 俺がロッカーの中からエプロンを取り出すと、そこからも微かに香ってくるコーヒーの香りに静かに息を吐いた。つい先ほどまでのゼミでの時間が、酷く遠い過去のように感じられる。

 

「寛木君」

「わかったって、今行くってば」

 

 再度呼びかけられた声に、俺は俯いていた顔をあげた。さて、今日もしっかり働いて、人件費でこの店の赤字に拍車をかけてやろうじゃないか。そんな嫌味が頭をかすめた時だ。

 

「注文はやっぱりいいや。俺が行くから」

「は?」

 

 カラリと、氷同士が擦れる音がした。気付けば、すぐ傍にいつも通りのパッとしないマスターの姿があった。

 

「何言ってんの。客、待たせてんでしょ。すぐ行くから準備に戻りなって。またクレームつけられるよ」

「もう付けられてるから大丈夫」

 

 微かに笑い声を含んだ声に「はぁ?」とエプロンを着終えて、再びマスターの方を見た。そして、改めて思う。

 

「あの人たち、さっき来たばっかりだから。少しくらい待たせていいよ、もう」

 

 うん、やっぱり全然好みじゃない。

 俺の好みの顔は、もう少し目が大きくて、あとは、そうだな。眉はもう少し太い方がいい。それに、出来れば肩幅はもう少し広くて、程よい筋肉も欲しいところだ。いや、別に俺は男に抱かれたいワケではない。ただ、抱くにしてもこんなマスターみたいな、ヒョロヒョロな男は好みじゃない。

 

——–つーか、ほんとに寛木がゲイなら友達なんてやってらんねーし。

 

 そう、俺の〝好み〟を思い浮かべた時に、自然と思い浮かんできた相手の姿に、俺は思わず背筋が冷えた。

 

 最悪だ。

 

「寛木君、寛木君」

「っあぁぁぁっ、もう!なんだよ!」

 

 何度も名前を呼んでくるマスターに、思わず苛立ちを隠せずに返事をすると、カタンと何かを置く音が耳をついた。

 

「暑かったでしょ。これ、飲んで。少し休んでからおいで」

「は?」

 

 そう言ってマスターが控室の机に置いたのは、客に準備していたであろうアイスコーヒーだった。再び、カラリとコーヒーの中で氷が動く音がする。いやに涼し気なその音に、俺は思わずゴクリと喉が鳴った。

 

「いや、コレ。さっきの客のだろ。つか、忙しいのに何やってんだよ」

「田尻さんには内緒ね。不公平だって怒るから」

「いや、そんな話してねーし……」

 

 そう、顔を上げた瞬間、言葉が詰まった。そこには、目元に小さな泣き黒子を携えたマスターが、いつもの緩い笑みを浮かべて俺を見ていた。

 

「それ、上手く淹れられたヤツだからさ。あの人達に飲まれるより、寛木君に飲んでもらった方が嬉しいし」

「いや、だから店の方が……」

「学校、お疲れ」

「っ!」

 

 マスターはそれだけ言うと、騒がしい店内に一人で走り去って行った。残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と、独特の深い苦みを感じさせるコーヒーの香りだけ。俺は、机の上に置かれたアイスコーヒーをしばらく見つめると、ソッとグラスを持ち上げた。

 

「……冷た」

 

 でも、その冷たさが、夏の日差しに焼かれた体には、酷く気持ち良かった。そういえば、無心で走ってきたせいで喉もカラカラだった。

 

「っはぁ」

 

 喉を鳴らしながら、乾いた体に染み渡っていく少しほろ苦い液体に、俺は微かに目を閉じた。

 

——–おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 

 泣きながら震える声で尋ねてきたマスターの声に、俺は自然と漏れ出た答えに目を伏せた。

 

「……うま」