(13)

 

◇◆◇

 

——–帰れ、クソババア。

 

 潰れる店が見たかった。でも、ちょっとだけ作戦変更。もっと面白い事を考えついてしまった。

 

「なぁ、マスター」

「んー」

 

 俺は完全に客の掃けた店内で、安いティーバッグで淹れた紅茶を飲んでいた。もちろんアイスティーだ。マスターはと言えば、パソコンで帳簿を付けている。現在、この店に居るのは俺とマスターの二人きり。

 

 ミハルちゃんはと言えば、明日もダンスの朝練があるからと、早々に帰ってしまった。

 

——–ますたー!今日はコーヒーはいらないです!

——–ん、分かった。

——–あっ、マスターのコーヒーに飽きたワケじゃないです!明日、朝練あって朝早いから、今日は早く寝たいだけなので!拗ねないでください!

——–いや、拗ねてないから。

 

 なんつーユルい会話だ。気が抜ける。

 そういえば、彼女には普通にアイスコーヒーを出すくせに、俺には未だに紅茶だ。まぁ、俺が紅茶派と言ったからそうなるのも無理はないのだが、わざわざ別に作るのも面倒だろう。そろそろ俺もコーヒーで良いと妥協してやってもいいかもしれない。

 

「ねぇ、マスター」

「んー?」

 

 マスターがパソコンに視線を落としたまま返事をする。一度気付いてからというもの、左目の目尻にある泣き黒子に視線が向いてしまう。

 

「アンタ、なんでこんなトコで店なんか始めようと思ったの?」

「なんだよ、急に」

 

 突然の俺からの問いかけに、マスターがパッと顔を上げた。不思議そうに瞬かれるその目は、年齢の割に少し幼く見える。

 っつーか、ずっと思っていたが、この人はなんでもかんでも表情に出過ぎだ。だから、幼く見えるのだ。

 

「いいから。なんで、この場所?つーか、どうして喫茶店?」

「あ、え?」

「ほーら、早く答える」

「えっと、なんでって……あー、えっと」

 

 畳みかけるように問いを重ねると、マスターはキーボードを叩く手をとめて片手を顎に添えた。

 

 なんだかんだ、聞けば真剣に答えようとするところが、このマスターらしい。たとえそれが、あと半年でこんな店は潰れるだろうと口にした生意気なアルバイト店員からの問いかけだろうと、相手の言葉はきちんと受け取り吟味する。

 効率の悪い生き方だ。

 

「……ここ爺ちゃんの店で。昔から、好きだったから」

「へぇ、そう。なんで好きだったの」

 

 さすがに店は賃貸じゃなかったか。でも、確かにそうでもなきゃ、こんな理想だけで経営デザインもクソもなってないような店が一年以上保つはずがない。いや、そもそも、こんな職人気質のバカに、不動産なんか借りられっこないだろう。

 

「なんで好きか……えっと、なんでだろ。コーヒーが好きだから、かな?」

「そんなガキの作文みたいな浅い動機、よく平気で口に出来るねぇ?」

「う゛っ。で、でも、実際好きだし!」

 

 俺の言葉に、微かに顔を赤らめて叫ぶマスター。その顔に、ふと泣かせてしまったあの時の表情が被って見えた。

 うん、やっぱり好みじゃない。

 

「なぁ、もう少し深堀りして考えてよ。爺ちゃんが店やってたからって、それを孫のアンタが引き継ぐなんて普通はない事なんだよ?普通じゃない事をするって事はさぁ、それなりの理由があるモンだ。ほら、もっと考えて」

「……なぁ、寛木君。さっきから何なんだよ」

「ねぇ、マスター?この店を半年で潰したくなかったら、黙って答えてください」

「へ?」

 

 俺は敢えて〝良い子の寛木君〟のテンションで答えてやると、首を傾げてこちらを見てくるマスターに、思わず口角が上がるのを止められなかった。

 そうだ。三年以内に潰れる飲食店など、この世にごまんとある。だとしたら、俺が見届けるべきは、この店が潰れる瞬間じゃないのかもしれない。

 

「さぁ、まずは四の五の言わずに考えてよ。話はそこからだ」

 

 この店を生き残らせる事の方が……俺の残りの大学生活の暇つぶしにはもってこいかもしれない。

 既に卒業に必要な単位は取り終えている。もう、あんな場所に行く必要はない。行きたくもない。

 

「考えろって言われても……」

「おい、商売やる人間が、思考を放棄するなよ。だから、アンタはダメなんだ」

「っぐ」

 

 俺の言葉に、何か言いたげだったマスターは微かに瞼を伏せると、背もたれに体を預けた。目を瞑っていると、更に泣き黒子の存在感が増す。

 あぁ、なんかアレ、ほんと気になる。なんでだろ。

 

「……難しい」

「あー、もう。一人で思考もまともにできないのかよ」

 

 自分の事すらまともに思考出来ない相手に、俺はアイスティーの入ったグラスを片手にため息を吐いた。一体どこまで世話をやかねばならないのか。

 

「じゃあさ。いつ頃、この店に遊びに来てたの?」

「……小学生の頃からだけど」

「だけど?」

「一番、通ってたのは……高校の頃だった、かも」

 

 高校生が、こんな純喫茶に通うなんて中々渋い。カラオケだのゲームだの女だのに夢中になる年頃だろうに。まぁ、悪くない趣味だ。

 

「学校に行きたくない時とか、ここにサボりに来てて」

「学校に行きたくないって、なに。イジメられでもしてたの?」

「いや、イジめとかじゃなくて、なんて言ったらいいんだろう……えっと」

 

 確かに、マスターみたいなのはイジメを受けるタイプではないだろう。なにせ、イジめというのは、何か他者より突出したモノ、あるいは凄まじく劣っているような相手に向けられるモノだ。

 

 この、どこからどう見ても凡庸そのものであるマスターが他者から強い感情を抱かれるとは、到底思えない。所以、どうでも「良いヤツ」なんて言われるタイプだ。

 

「……学校が、毎日つまんなくて」

「へぇ」

「なんか息苦しいっていうか。自由がないなって」

 

 どこかぼんやりした口調で紡がれ始めた言葉に、俺は微かに息を呑んだ。

 

「進路とか、勉強とか。色々選択肢があるように見えて、でも、結局やってる事は皆一緒だし。友達とかと話してても……当たり障りのない事をダラダラ喋ってるだけで……つまんないなって」

「……」

 

 この頃になると、俺の問いかけ無しでもマスターは喋り始めていた。

 

「なんか、ここって俺の居場所がないなぁとか思ってたら、たまに学校をサボるようになってた」

 

 伏せられていた瞳が、ハッキリと俺の方を見た。同時に、アイスティーの中の氷が、カラリと音を立てる。

 

「っは、居場所がないって。ティーンかよ。ダサ」

「その通り。その頃の俺は、実際にティーンだったんだよ。でも、まぁ……」

 

 まるで意趣返しだと言わんばかりの口調で放たれた言葉だったが、すぐにマスターはヘタリと眉を寄せ傍にあった自分用のアイスコーヒーに手を伸ばした。

 

「でも、なんだよ」

「大人になっても、同じような事を思ってたから、確かにちょっとダサいかもね」

 

 そう言って、カラリと氷を鳴らしながらコーヒーを飲むマスターに、俺は目を奪われていた。なんだろう、心地よい温かさが胸の奥に広がるこの感覚は。変な感じだ。

 

「特に学生時代は、学校サボってもお金は無いし。行くとこもない。家に帰ろうにも、親にバレたら面倒だ。そういう時、ここに来てた」

 

 再び逸らされた視線は何もない虚空へと向けられていた。机に肘をつき、どことなく懐かしそうな表情に染められている。