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「爺ちゃんは特に何も聞かないから楽だったなぁ。『また来たのか』って、コーヒーだけ出してくれてたし」

「……良い爺ちゃんだね」

「そう!だから、俺。爺ちゃんは好きだった!」

 

 俺が無意識に口に出だした言葉に、マスターはパッと表情を明るくした。祖父を褒められて嬉しいのだろう。ほんと、ガキみたいに思った事が全部顔に出る人だ。

 

「あと、今はもう無いけど、爺ちゃんが居た頃は古い雑誌とか本とかいっぱいあってさ。凄かったんだよ、ここ」

「へぇ、いいね」

「うん!ここ、俺の自慢の場所だった」

 

 いつものマスターよりも、随分幼い気がする。一応、年上なハズなのに、妙に世話をやきたくなるような感じがして毒気が抜かれる。

 今のマスターはきっと高校生の彼の姿なのだろう。他人とも社会とも上手く折り合いが付かず、どうしていいか分からない中、高校生のマスターはここに来ていた。

 

「時間潰すにはもってこいだし。他のお客さんが来ても、別に制服着てる俺に何を言うわけでも無くて。あ、たまに俺と似たようなサボりの学生も来てたりして、友達に……」

「ん、どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

 

 何でもないと言いながら口にされた言葉は、決して何でもなさそうではなかった。が、すぐにマスターは再び店の中を見渡し、懐かしさに目を細めてみせた。今は、好きに語らせておいた方が良さそうだ。

 

「で、ちょっと仲良くなった常連のサラリーマンの人が居たから、俺聞いてみたんだ。なんで、高い金出してわざわざここにコーヒーを飲みにくるのかって。そしたら、その人言ったんだよ」

 

——–家でも職場でもない。そういう、自分が自由であるための居場所が、人生には要るんだよ。

 

「君もそうだろ?って言われて、俺は確かにって思った。学校でも家でもない。無くても困らないけど、あって欲しい自由な場所が……大人になっても続いてくれたらいいなぁって」

 

 マスターの口を通して語られるサラリーマンの言葉。その言葉に、俺も妙に胸を擽られた。

 

「そう。俺にとって、この店って面倒臭い人間関係とかしがらみとかが無い、まっさらな場所だったから。そういう場所が大人になっても続いて欲しいって思って……」

 

 口にしながら、自分で腑に落ちてきたのだろう。

 マスターは俺に視線を戻すと、ほんのり頬が赤らみ、瞳にはひとしずくの笑いが宿った、まるで心からの喜びがその笑顔から溢れ出ているような顔で、俺を見ていた。

 

 なんだろう、酷く地味で好みではないけれど、悪くない顔ではある。

 

「だから、俺は爺ちゃんの店を続けたいって思った。できれば、俺も誰かの自由な場所になれたらいいなって思ったから」

「……」

 

 学校でも職場でも、ましてや家でもない。しがらみのない自由な場所。予想はしていたが、なんとも夢見がちな理想論者である。

 

「あ、あの。寛木君……これで、いいかな?」

 

 マスターは控えめながらも、上目遣いにおずおずと視線を向けながら尋ねてきた。指を手元にあるグラスの口の部分に滑らせながら、俺の反応を緊張と照れを隠しきれない様子で待っている。

 

 は、なんだよコイツ。マジで二十七歳か。

 

「っはーー」

「えっ、なに?なんかダメだった?」

 

 テーブルの向こうから身を乗り出してくるマスターに、俺はジワリと顔に熱が集まるのを感じて、急いでアイスティーに口を付けた。が、既に飲み終わっていたソレはカラリと氷が唇に当たるだけで、喉を潤す事は叶わなかった。

 

「……アンタはやっぱりバカだ」

「なっ!」

 

 どうしようもない状況に、俺はボソリと悪態を吐いた。そうしなければ、顔に集まる熱の正体に追いつかれそうだったからだ。

 

「寛木君が言えって言ったんだろ。っていうか、そうやって人の思い出をバカにするな!」

「勘違いしないでぇ。俺はマスターの思い出をバカになんてしてないし」

「じゃ、じゃあ何なんだよ!」

「マスター自体をバカにしてんだよ。バァカ」

「はぁっ!?」

 

 眉をこれでもかと寄せ、驚いた顔でこちらを見てくるマスターに、俺は改めて彼が俺の好みじゃない事にホッとした。そう、見れば見る程に、全然好みじゃない。俺が今まで好きになった相手の、欠片も被りが見当たらない。

 

 よし、これなら安心だ。

 ……いや、なにが安心なんだよ。ワケわかんね。

 

「だいたい、なんだよ。このクソみたいな喫茶店の経営デザインは。なんで、理想や目的があるのに、それに向かって達成できるような経営スタイルを取ろうとしねぇの」

「け、経営デザイン?」

「目的を達成するためには、どんな商品を取り扱うべきか。値付けはどうするか。自分のライフスタイルを考えた場合の利益率はどうあるべきか。あと、一番大事なのは……」

「あ、あっ。えっと。え?」

「どんな客に、店に来てもらいたいか」

 

 コンコンコン、と俺は指を机に軽く叩き付けながら、頭の中で思考を巡らせた。

 どうすれば、この店を立て直せるか。赤字の店を黒字化させて、長く存続させられる店にできるのか。

 

「な、なんで店が客を選ぶような事をしなきゃいけないんだよ。来てもらえる人は、みんな大事なお客さんだよ」

「っは、出ました。思考放棄の理想論者が」

「あっ、あのねぇ!寛木君。さっきから聞いてれば、君はちょっと……」

「じゃあ、聞くけどさ?」

 

 考えれば考える程おもしろい。

 それこそ、下手なインターンシップなんかよりも、よっぽど社会経験になるというものじゃないか。

 

「今のこの店、理想だった爺ちゃんの店になってる?」

「あ、ぅ」

「商いしてるクセに、考える事を放棄すんなし。じゃなきゃ、遅かれ早かれ店は潰れるって分かってんでしょ。なに、そのパソコンは飾り?」

 

 俺からの問いかけに、マスターは口角をヒクつかせながらノートパソコンの画面に目を落とした。あそこに何が入力されているかは分からないが、仕入れ値と販売価格、店の維持費なんかはある程度予想がつく。

 

 そうすると自然と弾き出される。この店がどのくらいの赤字を、毎日垂れ流しているか。

 

「マスター。そろそろ現実見ないと。この店、マジで潰れるよ」

「い、いやだっ!」

「じゃあ、そろそろ本気で考えないと……」

「ずっと本気だよ!ずっと考えてる!かんがえてるけどっ」

 

 突然、泣きそうな顔で俺の事を見つめてくるマスターに、俺はまたしても焦った。

 ヤバイ、また本当の事を言い過ぎて泣かせるかもしれない。あの日の、目が溶けそうなほど涙を流すマスターの顔が頭を過る。

 

「……でも、もう俺じゃ。何を考えていいかも分からないんだ」

 

 そう、か細い声で紡がれた言葉に、俺はふと思い出した。

 

——–学校、お疲れ。

 

 そう言って出された一杯のアイスコーヒー。

 あの瞬間、確かに、ここは俺にとって何のしがらみもない〝自由な場所〟だった。

 

「わかった。だったら代ってやるよ」

「え?」

「だーかーら、考えられないマスターの代わりに、考えるのを俺が代ってやるって言ってんの」

 

 多忙は怠惰の結果だ。怠惰は思考を停止したヤツの罪だ。

 「分からない」「考えられない」は商いにおいては〝終わり〟を意味する。でも、この人は、店を終わらせたくないという。だとすれば「考える」役割を他人に委託するしかない。

 

「今から、全部俺の言う事を聞いてもらうからぁ」

「えと、待ってそれは……どういう」

「俺がこの店をコンサルしてやるって言ってんの。しかも、タダで」

「こ、コン、さる?で、でも、寛木君って、まだ大学生じゃん」

「は?これでも、マスターよりは賢いって自認してるつもりだけど?」

「ぐ」

 

 言い返せないのだろう。なにせ、自分の目の前にあるパソコンが全ての数字を如実に表しているに違いないのだ。自分の気持ちに嘘はつけても、数字は嘘をつかない。

 

「さ、どうする。やるの、やらないの。別に俺はいいんだよ。この店がどうなろうとね」

「っ!」

 

 マスターの表情が、先ほどまでの泣きそうなモノから一気に慌てた表情へと変わった。

 あぁ、この人ホントに面白い。見てて飽きない。

 

「やっ、やる!やります!い、一緒に考えてください」

「よろしい」

 

 くぅと、悔し気に肩をすぼめてみせるマスター相手に、俺はチラリとパソコンの隣に置かれたマスターのアイスコーヒーへと目をやった。もう、氷はだいぶ溶けてしまっている。きっと、味も随分薄くなっているだろう。

 

「じゃ、まず最初の俺からの指示」

「は、はい!」

 

 この人は確かに、俺の好みではない。でも――。

 

「次から、俺にもコーヒー出して」

「……え、なんで?」

 

 おずおずと俺に向かって尋ねてくるマスターに、俺は、彼の泣き黒子に目を視界の端に捕らえながら言った。

 

「紅茶、飽きたから」

 

 うん、やっぱマスターの顔。

 ぜんっぜん、好みじゃねぇわ!