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◇◆◇

 

 数分後、俺の涙が引き始めると同時に落ち着きを取り戻し始めた店内で、俺と寛木君の二人だけだった値上げ会議に、当たり前のような顔で田尻さんが加わった。加わったというより、居座ったという感じだ。

 

「へー!メニューの値段を上げるって事ですかー?」

「そ、今の値段のままじゃ、原価に対して利益が薄利過ぎるからね」

「……ゲンカニタイシテリエキガハクリ?」

 

 完全なカタカナ発音だ。田尻さん、絶対言葉の意味を分かってないと思う。

 そう、俺がチラリと寛木君に視線を向けると、そんな事は承知の上だと言わんばかりの顔でコーヒーを飲む彼の姿があった。さっきまで小学生の男の子みたいだったくせに、今の寛木君はとんでもなく優雅の極みだ。

 

「儲からないってコト」

「えーー!それはダメじゃないですかー!ますたー、値段を上げましょう!」

 

 手にしていた商売敵の店の商品を、ドンと勢いよく叩き付けてそんな事を言う田尻さんに、俺は彼女に悪気がないと分かっていてもなんともいえない苦々しい気分になった。お門違いなのは分かっているが、こう思わずにはいられない。

 

 この裏切り者め!

 

「あのね、田尻さん。お客さんが減ってるのに、今値段なんか上げたら……もっとお客さんが来なくなっちゃうよ。ブルームに、お客さん取られちゃうよ」

「ブルームにお客さんを取られる?」

「そうだよ。現に今だって少しずつお客さんも減ってきてるし」

「まだ言ってる。だーからっ」

「でも、そうだろ。アッチの方が、商品のクオリティも、品数も……それに値段だって安いし。田尻さんもそう思うよね?」

 

 田尻さんの手元には、俺の淹れてあげたアイスコーヒーと、商売敵であるブルームのフローズンドリンクが並んでいる。

 俺が田尻さんに問いかけると、彼女は「んー」と何かを考えるような仕草で、飲みかけのフローズンドリンクを口に含む。ブルームのロゴマークが、俺を見て鼻で笑ったような気がした。

 

「思いません」

「え?」

「別に、アッチにたくさんお客さんが来てもこのお店とは、あんまりカンケーないと思います」

 

 そう、どこかサラリと言ってのける彼女に、俺は「えぇ」と眉を潜めるしかなかった。直後、先ほどまで口にしていたフローズンドリンクを置いた田尻さんは、今度は俺の淹れたコーヒーを飲み始める。

 

「ん~~、おいしい」

 

 え、ソレ交互に飲むの?ごはんとおかずみたいな感じなの?

 そう、俺が彼女の謎の飲み合わせに目を剥いた時だった。突然田尻さんの〝いつもの〟が始まった。

 

「私、アイドルのハヤミネ君が好きです!ますたー、ハヤミネ君のこと知ってますか?」

「あ、えっと。うん。名前くらいは」

「へぇ。あぁいうのが好きなんだ。ミハルちゃん」

「はい、推しです!」

 

 隣から、机に肘をついた寛木君が、どこか感心したような声を上げる。そして、言うに事欠いてとんでもないことを口にする。

 

「でも、ハヤミネってブスじゃね?」

「ちょっとちょっと!寛木君!?」

「なに、マスター」

「田尻さんの推しに対して、ブスって言ったらダメでしょ!」

「え、なんで?ホントの事じゃん」

「えぇ……」

 

 俺、何か悪い事言った?と欠片も悪びれた様子すらなく言ってのける寛木君は、圧倒的に顔が良かった。おかげで、俺はと言えば途端に何も言えなくなる。

 

「はい、ハヤミネ君はちょっと顔はおブスです!」

「えっ、えぇぇ!田尻さん!?」

 

 嘘だろ。自分の推しに対して〝お〟を付けたとはいえブスとハッキリ言ってのけた田尻さんに、俺は一体何をどうフォローして良いのか分からなくなった。若さか。若さ故なのか。これがジェネレーションギャップってヤツなのか?

 

「だよな。アイツ、顔はそうでもないもんねぇ」

「はい!顔はイマイチです!」

「……」

 

 いや違う。この二人だからだ。忖度もクソもない。この二人は嘘が吐けないのだ。

 俺はといえば、ともかく戸惑いを呑み下すと、傍にあったアイスコーヒーに口を付けた。うん、温い。そして薄い。

 

「でも、推してる理由は顔とかじゃなくて……えっとぉ。どこが好きかとゆーと、歌も上手なんですけど、どっちかっていうとダンスが上手で。ハヤミネ君は、高校生ダンス甲子園で優勝した事もあるんですよ!ソンケーしてます!だから、私の推しです!」

 

 突然始まった、田尻さんの〝いつもの〟何の脈絡のないような話。ただ、寛木君もそれを遮ったりしない。なにせ、これはもう〝いつもの事〟だからだ。

 

「へぇ、ハヤミネってそんなに凄いんだ。……あ、ほんとだ。なんかスゴイわ」

「あ、俺も見たい。見せて」

「……ちょっ、あんま近寄んな!自分のスマホで見ろよ」

 

 そう言って深く眉間に皺を寄せて隠す寛木君に、俺は「ご、ごめん」と、慌ててポケットに手を突っ込んだ。あ、スマホ。ロッカーに入れっぱなしだった。