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「ふふ、そーでしょ?知らない人は、ハヤミネ君の事はアイドルの癖にブスって言うけど、私みたいにダンサーを目指してる子はみーんなハヤミネ君が好きですよ!努力家で格好良いです!」

 

 そう言って笑う田尻さんは、そんな会話の合間にも俺のコーヒーとフローズンドリンクを交互に飲み続けている。一体、彼女の口の中は、今どんな状態なのだろうか。

 

「でも、同じグループのカオル君も好きです!推しです!」

「っは、ウケる。ハヤミネを努力家で格好良いとかいいながら、今度は急にイケメンブッ込んでくるじゃん」

 

 田尻さんの言葉に、寛木君が軽く鼻で笑ってみせた。「っは」というコレは彼の笑い方の癖だ。一見すると相手をバカにしているようだが、これはそういう類の笑いではない。彼なりの、本気の笑いなのだ。最初こそ分からなかったが、四カ月も一緒に居るせいで、やっと分かってきた。

 

「はい!カオル君は、顔が好きです!顔だけが好きです!」

「いいじゃん。ミハルちゃんのソウイウとこ、俺好きかも」

「私は、ゆうが君の事は普通よりちょっと好きくらいです。ダンスの次の次の次くらいですね!」

「へーー、そう」

 

 寛木君は、田尻さんと会話を楽しんでいる。かくいう俺も、ちょっと楽しい。コーヒーもあって、爺ちゃんの店でダラダラと気の置けない相手と話す。なんだか、昔を思い出した気がした。

 

「だから、ますたー!」

「んー」

「金平亭は値上げしても大丈夫ですよ!」

「え?」

 

 突然、話が元の道に戻って来た。

 田尻さんの真っすぐな瞳が、俺をジッと見ている。ふと、彼女の手元を見ると、俺のコーヒーもフローズンドリンクも、どちらも空になっていた。

 

「推しは絶対一人じゃないといけないってことはないし、どっちも好きでいいです!皆、色々たくさん好きだし!別に、誰にとっての一番になんてなる必要ないと思います」

 

 田尻さんの言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。

 皆、色々たくさん好き。当たり前の事を、当たり前みたいな顔で言われているだけなのに、田尻さんの言葉が妙に胸に刺さった。

 

「それに、コレだって七百円くらいするから、飲み物なんてどうでもいい子からすれば『高い!』って言います!でも、今日は暑かったし、ダンスで疲れてたし七百円でもいいかなって思いました!」

「……そっか」

 

 ていうか、アレ七百円もするんだ。一回も入った事がないせいで、知らなかった。なんか下手すると定食屋の昼飯くらいはする値段設定だ。

 うん、高い。よく学生が店に並んでいるから、もっと安い価格帯の店だとばかり思っていたのに。

 

 そう、俺が初めてブルームの商品を値段越しに見た時だ。ミハルちゃんがブルームの空の容器と、店のグラスを両方持ってハッキリと言った。

 

「確かに、値段を決めるのはますたーだけど、高いか安いかは、ますたーじゃなくて買う人が決める事だと思います!」

「っ!」

「だから、私は、ますたーのコーヒーは高いって思いません!高いって思ってる人は別のお店に行ってもらったらいいんです!どーぞどーぞって!」

 

 ゴクリと、唾液を呑み下す。同時に、隣から寛木君の視線を強く感じた。

 

「なんだ、分かってなかったのか」

「……え?」

 

 ふと、今度は寛木君の手元を見ると、そこにも氷だけになったグラスが微かに水滴をまといながら存在していた。

 

「こだわりが強いし、色々焙煎だって時間かけてやってるから……自分の腕に自信があるのかと思ってたのに。そうじゃないのか」

 

 寛木君の、どこか独り言でも話すような口調で紡がれる言葉に、俺は必死に耳を傾けた。これは聞き逃しちゃいけない気がする。ソファ席なのをいい事に、俺はバレないように微かに寛木君へと肩を寄せた。

 

 今回は離れろって言われない。良かった。

 

「良いモノを安くなんて無理だ。良いモノからは〝適正な価格〟を取る。そして、それを求める客層にのみ商品を届ければ、個人が食っていくくらいなら十分やっていける。だから、マスター」

「はい」

 

 寛木君の整った綺麗な顔が、目の前にある。夏なのに、春みたいな柔らかくて暖かいアールグレイのような髪色と、薄い色素の瞳が真剣な目で俺を見ていた。

 

「これは値上げじゃない。価格を適正にするだけだよ。アンタのコーヒーに今の値段はあまりにも不適正だ」

「ふ、不適正?」

「そ、安すぎって事。今のままじゃ原価割れギリギリでしょ。なんでそこにマスターの技術料を上乗せしない?ちゃんと自分も価値に入れなよ。そうしたら、二割……いや、三割は乗せてもいい」

「……」

「人が来ないのは、宣伝の仕方が求める客層と合ってないだけだから。別に、マスターの腕の問題じゃない。じゃあ、どうやってする?この店の場合、SNSを使うより……」

 

 寛木君の言葉が、再びブツブツと自問自答の色を強く帯び始めた。ただ、本当はそこからの話もしっかり聞くべきなのかもしれない。でも、俺はその前の寛木君の言った事で頭がいっぱいになったせいで、話を聞く事が出来なくなっていた。

 

 今の値段に、俺のコーヒーは不適正だって寛木君は言った。俺の腕も、きちんと価値に入れていいって言った。

 

「……ぁ、ぅ」

 

 少しずつ胸に熱い感触が広がり、うれしい気持ちがじんわりと満ちていく。

 さっきのは一体どういう意味だ。今、俺が思っている事は、俺が都合よく考えてる〝勘違い〟じゃないかな?俺、よく勘違いするし。

 

 どうなんだろう。

 わからない、分からない。もう、分からないなら寛木君に直接聞くしかない。

 

「あ、あの。寛木君……」

「ん、なに?なんか質問。反対意見でもなんでも聞くよ。ほら、言いなよ」

「あの、あのね」

 

 此方に挑むような視線を向けてくる寛木君に、俺は喉の奥に空気を詰まらせながら、一度ゴクリと唾液を呑み下した。いつもより近い位置に、寛木君を感じる。

 

「寛木君は、俺のコーヒーを美味しいって思ってるってこと?」

「……は?」

 

 いつの間にか俺は、寛ぎ君に肩がぶつかるほど身を寄せていた。寛木君の口元から、紅茶ではなく、コーヒーの香りがする。俺が淹れたコーヒーの匂いだ。

 

「俺のコーヒー、好き?」

「っっっ!」

 

 その瞬間、寛木君の顔がジワリと赤く染まっていった。同時に、寛木君の視線がソロリと俺から逸らされる。顔も、耳も、首筋も。寛木君じゃないくらい真っ赤だ。

 そういえば、最初に面接をした時に、寛木君は確かに言ってくれたんだった。

 

——–今日、ここで飲んだコーヒーが……凄く美味しかったので。

「……き、らいじゃない」

 

 寛木君は不器用だ。そして、ウソも苦手だ。それを、この四カ月でちゃんと理解できるようになった。

 

「そっか。あれも、ウソじゃなかったんだ」

 

 俺は田尻さんと寛木君の手元にある空のグラスを前に、静かに息を吐いた。

 

「良かったぁっ」

 

 こうして、喫茶金平亭は、九月から全商品の値上げを決めたのであった。