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「店が客を選別するために使うフィルターが〝価格〟なんだよ。確かに、お客様は店にとっては〝神様〟かもしれないけどさ」

「うん」

 

 寛木君の指先がスルスルと俺の目元を撫でた。おかげで、全然涙は出ない。むしろ、少し気持ちが良いくらいだ。

 

「自分の望みの店にする為に、マスターも神様は選んでいいよ。アンタには、神様を選別する権利がある」

「……ん」

 

 うん、そうだ。何度も何度も寛木君に言われてきた。だから、もう理解はしている。大丈夫。でも、なんか――。

 

「だいたいさぁ、日本人は無料と、過剰なサービスが当たり前になり過ぎてんだよ。多少なんか言ってくるかもだけど、そんなのは気にせずに」

 

 あぁ、なんだコレ。目元を撫でられるって、くすぐったいのに凄く気持ちが良い。撫でられているのは目元なのに、なんだか背中までゾクゾクしてきた。体中がじんわりと熱い。

 

「っん」

 

 目元を撫でられる感覚に、俺が思わず目を閉じた時だった。

 

「ちょっ、はぁっ!?」

「え?」

「な、なに期待してんだよっっ!?」

 

 それまでとは全く違う寛木君の声の調子に、俺はパッと目を開けた。すると、そこには目を見開いてこちらを見下ろす整った彼の姿があった。なんだか、顔が異様に赤い。

 

「言ったよな!?俺は、アンタみたいなのはタイプじゃねぇんだよ!」

「え、あ。うん。はい」

「最初に言ったよな!?おいっ!」

 

 いつの間にか目元から離れて行った寛木君の手に、残念な気持ちを抱く間もないまま、俺は寛木君からの謎過ぎる罵声を受ける羽目になった。

 

「マスターだけは〝ナイ〟から!」

「……は、ハイ」

 

 何が?とは、さすがに茹でタコのような顔の寛木君に、言えるはずもなかった。

 

 

◇◆◇

 

 

 夕方五時。

 特に値上げについて何か言われずに一日が終わろうとしていた。

 

「……はぁっ」

 

 ホッとして、思わず深い息が漏れる。

 まぁ、二週間前から店の前には値上げの掲示をしていたし、メニューも印刷を完全に刷り直していたため、元々がその値段であったように表記されている。

 

 ここまできて、俺はやっと少しだけ冷静になった。

 うちの商品の値段は、決して他の店と比較して突出して高いワケではない、と。

 

——–値上げじゃない。適正な価格に調整するだけ。

 

 寛木君から言われ続けてきた言葉の意味が、ここにきてやっと身に染みて理解できた。そうだ。今の値段でやっと〝適正〟なのだ、と。

 

「……良かった」

「ぜんぜん良くナイですー、ますたー」

「ん?」

 

 すると、俺の隣でおぼんを両手に抱えた田尻さんが、明らかに不満そうな表情で口を尖らせていた。そんな彼女に「どうしたの?」と俺が問いかけようとした瞬間。店中に騒がしい声と笑い声がドッと響き渡った。

 

「やーねぇ、この人ったらもう忘れてるわ!」

「それより聞いてよ、ウチの旦那がねぇ!」

「えっ、ちょっと見て!女優の阿葉刷京子が離婚だって!」

「なになに?また不倫?」

 

 その声に、田尻さんの不満そうな表情が更に濃くなる。視線の先にある常連客の集団に、田尻さんの眉間の皺は更に深くなり、口はへの字に歪んでいた。まるで「不快」を絵に描いたような表情である。そして、一言。

 

「あのオバさんたち、常識なさ過ぎ」

 

 高校生に言われてますよー、という気持ちを込めてチラリと客の方を見る。しかし、そんな俺達からの視線など、気にする事なく声高に話し続ける彼女達は、今日もまた閉店ギリギリまで居座る気だろう。

 

「はぁっ」

 

 今度は深いため息が漏れる。しかし、その自分の溜息すらも、店内に響き渡る笑い声にかき消されてしまった。

 

——–マスター、アンタは店の客足が減ってるのは、アッチに客を取られてるからって言うけどさ。本当にそう思ってる?

 

 耳の奥で寛木君の呆れた声が聞こえた気がした。

 そう、気がしただけだ。今ここに、寛木君は居ない。

 

「……居ないクセに、イタいとこ突くなぁ」

 

 田尻さんが来てから、特に問題なく店も回せていた事もあり、寛木君には帰っていいよと伝えた。いや「いいよ」もなにも、そもそも、今日だって寛木君のシフトの日ではないのだ。彼は毎日善意で店に顔を出してくれている。

 ただ、あまりにも彼が上がるのを渋るものだから、俺は言ったのだ。

 

「たまには友達と遊べばいいのにって……言っただけなんだけど」

 

 そう言った瞬間、それまで「いや、残るし」と言ってくれていた寛木君の目付きがガラリと変わった。そして、そのままエプロンを脱ぎ捨てて帰ってしまったのだ。

 

「俺、いつも寛木君を怒らせるよな」

 

 

 本当は分かっているのだ。この店の客足が減っているのは、新しく出来た店に客を取られてしまっているから、ではない。

 

——–単純に、この店が客にとっての〝自由な場所〟になれてないからでしょ

 

「ますたー」

「ん?」

 

 再び田尻さんが俺を呼んだ。

 

「私、あの人たち嫌いです」

 

 しかしソレは、いつもの感情的な声とは違う、どこか冷静で大人びた声だった。

 

「あのオバさん達、最初に注文したっきり何も注文しないし……何回も『ちょっと、水!』とか言われて、お水だけでずーっといるし」

 

 言葉は相手への不平不満で彩られているのに、何故だろう。その声は、怒りというより悲しみで満たされているように感じた。

 

「あの人たち、この店の事を公民館か何かだと思ってます。一回注文すれば何してもいいんだって。他の人の事も、お店の事も何も考えてない。金平亭のこと……バカにしてる。だから、私……あの人たちのこと、だいっきらい」

 

 もう一度、客席を見てみる。もう、彼女達しか客は残っていない。他の席は全て空白。ガランとしていた。そう、かれこれ四時間近くあの調子で居座り続けている。他の客よりも早く来て、どの客よりも遅くまで居る。

 

 しかも、頼むのは決まってコーヒー一杯。

 

 でも、彼女達は別に悪い事をしているワケでも、何か法を犯しているワケでもない。それでも、俺は〝マスター〟として店を守らなければならなかった。

 

「私、このお店好きです。でも、友達は呼べない」

「……」

「それが、かなしい」

 

——–マスター、そろそろ気付けよ。アンタが「ハイハイハイハイ」言って客を選ばずに神様扱いしたせいで、あの人達は〝クレーマー〟になったんだよ。

 

 あぁ、寛木君の言う通りだ。

 店を好きだと言ってくれている子に「友達は呼べない」なんて、こんな悲しそうな顔で言わせてしまう店にしたのは、他でもない俺自身だ。

 

——–迷惑だ。帰ってくれ。

 

 爺ちゃん、俺。ずっと甘かったんだな。

 でも、今更どうしろって言うんだよ。