(21)

 

「あら、もうこんな時間」

「そろそろ帰りましょうか」

「そうねぇ」

「今日の夕飯何がいいかしら。もう夕飯の事を考えると、億劫だわぁ」

「ほんとねぇ」

 

 やっと席から立ち上がった彼女達に、それまで悲し気な表情を浮かべていた田尻さんがパッとレジまで走った。少し伸びたポニーテールが重みでいつもよりゆったりと左右に揺れる。その後ろ姿にハッキリとした苦しさを覚えつつ、俺はグラスを片付けるためにテーブルへと向かう。

 

 しかし、その足はすぐに止められた。

 

「アイスコーヒーがお一人ずつ五百九十円です」

「はぁ?」

 

 田尻さんが値段を口にした途端、彼女達の楽し気な雰囲気が一変した。

 

「だから、アイスコーヒーの方お一人ずつ五百九十円で……」

「なに、値段上がったの?」

「はい、今日から」

 

 どこか剣呑とし始めた客の口調に、俺はレジの方を振り返る。するとそこには、火に油を注がれたように怒り始める常連客達の姿があった。

 

「昨日までは四百六十円だったのに!?」

「味も何も変わってないくせに、値段だけ上げるなんてどうかしてるんじゃない!?」

「聞いてないわよ!」

「で、でも。あの!ずっとお店にお知らせは貼ってました!」

「そんなの見るワケないじゃない!」

「そんな……!」

 

 これはヤバイ。田尻さんの表情がかなり強張っている。この顔は客に委縮しているというよりは、キレる直前の顔だ。

 

「た、田尻さ」

「ちょっと、店長さん!」

「っは、はい!」

 

 俺がレジへと駆け寄った瞬間、一気に客の視線が俺へと向けられた。その目を見た瞬間、俺は先ほどの田尻さんの言葉をハッキリと思い出した。

 

——–金平亭のこと……バカにしてる。

 

「ねぇ、これどういうこと!」

「私達、値上げの事なんか知らなかったわよ!」

「っていうか、何か変わったワケ!?味は全然変わってないように思えたけど」

 

 違う。この人たちがバカにしているのは〝金平亭〟じゃない。

 

 俺だ。

 俺だったら、文句でもなんでも言えばどうにかなると思っている。そう、俺がこの人たちに思わせてしまった。

 

「あ、何か変わったというワケではなく。円安による豆の輸入価格高騰で……」

「テキトーな事言って。どうせその辺のやっすい豆を使ってるんでしょ!」

「そうよ!そんな大層なモンでもないクセに!」

 

 どうせその辺の安い豆?その辺とは一体どこの事だ?

 国産のコーヒー豆なんて殆ど存在しない。そもそも、日本は豆を作れる気候や土地柄ではないのだから。それに、収穫高や気候によって味の代りやすい豆で一定の味を保つため、どれだけの手間がかかるかも、この人たちは知らない。

 

「きちんと客に知らせてなかった店の責任でしょう?」

「せっかく毎日来てあげてるのに!」

 

 そう、客にそんな事は関係ない。

 田尻さんの言う通りだ。だから、その商品が相手にとって高いか安いか。価値を決めるのは客自身だ。そして、この店のコーヒーは、この人たちにとって満足のいく〝価値〟を与えられなかった。

 

——–自分の望みの店にする為に、マスターも神様は選んでいいよ。

 

 寛木君の皮肉っぽい声が頭の中に響く。そうだね、その通りだ。

 

 寛木君は嘘を吐くのが苦手だ。そんな、不器用な彼が、俺の技術にも〝価値〟を付けていいって言った。俺のコーヒーを「不味くはない」と言ってくれた。

 俺はここに居ない彼の言葉を反芻すると、静かに息を吸い込んだ。

 

「アイスコーヒーは一杯五百九十円です。お支払い頂けないようでしたら、警察を呼ぶしかありません」

「は?」

「お客様、それでは無銭飲食をされるという事でよろしいでしょうか」

 

 俺はこの時になってやっと、店の手綱を握れた気がした。

 

 

◇◆◇

 

 

 警察という言葉を出した後、あの客達は凄まじく激昂しながらも金を賽銭でも投げるような勢いでトレーに投げ捨て、店を出て行った。

 多分、もう彼女達が店に来る事はないだろう。いや、むしろ来たらそれはそれでビックリだ。

 

「はぁ、やってしまった」

 

 誰も居なくなった店内で、俺はパソコンの前に一人頭を抱えていた。

 田尻さんはと言えば「ますたー!最高に格好良かったです!私スッキリしましたー!」と、比喩ではなく本当に嬉しそうに店の中でダンスを踊り始める程だった。

 そして、俺も俺であの常連客にビシッと言った直後は、テンションが急激に上昇し「いえーい」なんて、田尻さんとハイタッチなんかしちゃっていた。

 

 ただ、時間が経つにつれてその高揚感は徐々に静まっていき、田尻さんが帰った今はと言えば――。

 

「……これで、良かったのかなぁ」

 

 ガッツリと落ち込んでいた。

 結局、俺のやった事は「客」を店から追い出したという事に他ならない。店の売上は客が来てくれる事で生まれる。その「客」に対して、俺は「警察を呼びます」と、完全に扉を閉めてしまったのだ。

 

「SNSに変な書き込みとかされたらどうしよう。あの人たち、変な噂とか流しそうだし。うちみたいな小さなお店は、口コミが命なのに……」

 

 俺は間違った事なんてしていない!と何度も自分に言い聞かせるものの、どうしても不安は襲ってくる。

 

「寛木君なら、なんて言うかな」

 

 「やるじゃん」なんて、言ってくれるだろうか。いや、そんなにハッキリと褒めてくれるタイプではない。よくて「まぁ、ソレが普通なんだけどね」といった所だろうか。うん、多分そうだ。

 

「……でも、寛木君。明日もシフトには入ってなかったよな」

 

 そうだ。明日のシフトに寛木君の名前はない。夏休みが明けた九月、今は、田尻さんを優先的にシフトに入れるようにしている。それも、寛木君の提案だ。

 

——–ゆうが君、いーんですか?私ばっかりシフトに入れてもらっちゃって。

——–別にぃ、俺はミハルちゃんと違ってオカネモチだし?気にしなくていーよ。

 

 口ではそんな事を言いつつ、ダンススクールに入る為にお金を貯めている田尻さんに気を遣っているのはバレバレだった。寛木君は、田尻さんには、なんだかんだ優しいのだ。

 

「でも、これまではシフトに入ってない日も、毎日店に来てくれてたし」

 

 でも、だからと言って明日もそうとは限らない。なにせ、今日は帰り際に寛木君を怒らせてしまった。

 

「……なんで、寛木君は怒っちゃったんだろ」

 

 未だに理由は分からない。

「たまには友達とも遊びなよ」という言葉が、彼を怒らせた事は確かだ。

 

——–は?ンなのマスターに言われる筋合いねぇんだけど?ウザ過ぎだわ。余計なお世話。

 

 いや、アレは怒らせたというより、彼を傷つけてしまったように思える。温度のない冷たい声色で言い放たれたその言葉に、俺は頭を抱えた。

 目の前のパソコンには、平日での最低売上金額が更新されていた。もう、このままだと本当に店は長くないかもしれない。

 

「……寛木君からも、もう見捨てられたかも」

 

 店の事でグルグルしていたはずの思考が、最終的には寛木君へとつながってしまう。

 

「何考えてんだよ、俺は。そもそも寛木君はただのアルバイトなのに」

 

 それに学生だ。

 頭では分かっている筈なのに、今日の事が不安過ぎて、寛木君が居ない事が心細くて堪らなかった。他でもない俺が、彼に帰るように言ったというのに。

 

「……ひとまず店、締めるか」

 

 そう、俺がパソコンを閉じて席から立ち上がろうとした時だった。

 

「俺が、何だって?」

「っ!」

 

 俺の背後から、よく知った声が聞こえてきた。